第20話


 あの後、僕は逃げるようにして夏目優衣と別れた。

 

 ちょうど、あたりは暗くなってきた。

 看板の赤や青色のネオンが自己主張するようにギラギラと光っている。人混みが無秩序にスクランブル交差点を渡っていく。

 

 横断歩道を渡ろうとする。しかし、ちょうど青信号が点滅し始め、赤信号へと変わった。急ぐようにスーツを着たサラリーマンが赤信号を無視して渡った。その瞬間、車のクラクションが怒るように大きな音を立てた。


 踏み出そうとしていた足を引っ込めて立ち止まるしかなかった。信号が変わるのを待つ人はいない。僕だけが取り残されていた。


 このまま中央図書館へと向かおうと思った。


 静かな場所で今日までのことを整理した。

 今思えば中央図書館で悩んでいたことは高校受験時もあった。あの時は数学の成績が芳しくなく、どうすれば本質を理解できるかを悩んでいた。

 

 そして今回は――気持ちの整理。

 

 拝島舞と夏目優衣が僕に吐いた嘘について。

 

 嘘は……誰だって吐くことがある。

 僕も数え切れないほど吐いてきた。とっさには思い出せないけど、たぶんそのはずだ。僕は決して正直者でも善人でもないのだから。


 そして、嘘を付くことで誰かを傷つけたりもしたはずだ。


 そうであるならば、夏目優衣と拝島舞が僕に吐いた嘘は、どうであろうか。


 僕を傷つけたのだろうか……。


 裏切られたと失望したのか……?


 信じていたのに、協力していたのに、その時の気持ちを利用されたことに腹が立っているのか……?


 わからなかった。

 

 自分のことが分からなくて呆れてしまう。

 

 感情が数値化してしまえば、こんなにもうじうじと考えることもないだろうにな。

 

 その時、微かにズボンにしまっていた携帯電話が振動し始めた。

 

 着信元を確認した。


 表示されていたのは――拝島舞だった。


 心臓の鼓動が速まるのが分かった。


 一瞬、無視しようとポケットに携帯電話を戻そうとした。しかし、大人げないような気がした。気が付いたら通話ボタンを押していた。その瞬間、息を切らした声で、そして切羽詰まった声で、僕の名前が呼ばれた。


『春斗くんっ!……よ、よかった。……はあ……はあ……春斗くん!……っ助けて‼』


「……え?」


 状況についていくことができず、間抜けな声を出してしまった。


 拝島さんは先ほどより震えた声で言った。


 走っているのか……?

 ガタガタと雑音が聞こえた。

 

 段々と状況がつかめてきた。瞬時に脳裏にあの時の――女の子の姿がフラッシュバックした。急激に頭が熱くなるのを感じた。


『はあ……っく……○○公園の北口近くにいるの……誰かが……私の後ろを追いかけてきているみたい』


「わかった。今から行くから、公園の東口で落ち合おう。もしもの時は、僕との通話を切って、警察に連絡して」


 携帯電話の通話を最大音量でスピーカー通話にしてから、ポケットへと終う。そして、即座に頭の中で最短ルートを導き出す。こういう時は、サッカーをやっていたおかげで培った空間把握能力が有難い。


 ここの信号を渡ると、大通りを直線一〇〇〇メートルくらい進んで、それからあの妙に青白いマンションの横を抜けていけば、東口が見えるはず。


 青信号に変わった。僕は、すぐに走り出した。


「舞!聞こえるか!」


『え、うん』と小さな声が聞こえた。


「今から数分かかる!もしまだ追ってくるなら、できるだけ大通りに逃げろ」


『……』


「聞こえているのか⁉」


『……うん』とくぐもった声が聞こえた。


 それにしても、なぜ拝島舞が○○公園の北側にいるんだよ⁉


 僕が知る限り交番は北口にはない。最近、そちら側は治安が悪いことで有名な場所だった。一度サッカーの試合の帰りに通ったことがあるからわかる。


 こんな日が暮れる時間に、女の子が通るべき場所じゃないだろ。


 そんなところで何やっているんだよ。


 お嬢様がいていい場所じゃない。


 くっそ、あと数分はかかる。


 タクシーを使うか?いや、ダメだ。


 今の時間はどこも渋滞だ。


 どうすればいい。なにかあるはずだろう。


 すると、前方から自転車に乗った人がやってくるのが見えた。あの人から借りるか。でも窃盗だと勘違いされるか。いや、一度、聞いてみるだけ聞いてみよう。


 ……あれ、というか、私服姿の山田君じゃないか⁉


 感謝感激雨嵐。神様ありがとう。


「山田君‼」


「え?黒田君、全力疾走してどうしたの?汗、目茶苦茶掻いているよ?」


「訳は後で話すから、自転車貸してくれ」


「でも……僕今から――」と渋る山田君。「ごめん、時間がないから借りていくわ」と僕は強引に山田君を自転車から引き下ろした。「ち、ちょっと」と山田君は戸惑った声を上げた。「ごめん、今度何かおごるよ。それ持っていて、あとで回収しに行くから」と僕は抱えていた自分のスクールバックを山田君に渡した。「え、なに?」と山田君は眼鏡の位置を直しながら戸惑っていた。


 「じゃ、そういうことで」と言って僕はペダルをこぎ始める。すぐに「その自転車高かったから傷つけないでよ!」と山田君が後ろから叫んだのが聞こえた。


 あとは、ここを直線に進んで行く!


 しばらく漕いでいると乳酸がたまり始めたのがわかる。足が重く感じた。だんだんとメダルをこぐ力が弱くなっていくのが分かった。


 …………全身から汗が拭き出して、ワイシャツが肌にくっつき始めた。


 動きづらい。

 それに、運動不足も加わっているのかもしれない。

 朝、走る距離を縮めたのはミステイクだったかもな。


 ――よし、公園の入り口の標識が見えてきた。

 あと数百メートルしたら、左折。


 そう思い安堵しかけたその時――横から飛び出してくる人影が見えた。


 とっさに横に避けようとハンドルを切ってブレーキをかけた。

 キーというヘンな音を立ててブレーキがかかった。


「――っく」


「ちょっと、危ないじゃない!」と女性の抗議の声が聞こえた。


「すみません」と顔を上げると、ポニーテールの若い女性――若槻先生の姿が見えた。


「待ちなさい。あなた……東池袋高校の生徒ね。何年何組名前は?」


「ほんと、今急いでいるんで」と無視してペダルをこぎ始めた。すると、「あ、ちょっと、待ちなさい。顔は覚えたからね!」とお約束の捨て台詞を言うのが聞こえた。


 今の余計なインターバルのせいで、負荷がかかった。


 いよいよ、疲れてきた。

 

 なぜこれほどまでにも疲れているんだよ。


 これほどまでにも僕――俺は体力がなかったのか?

 

 いや、違うだろ。


 肉体的な問題じゃないのかもしれない。

 心理的な問題だ。

 

 俺は焦っている……?

 

 あの時のように、取り返しのつかないことになることを恐れているのかもしれない。

 

 でも、もう失うものなどない。

 いや、失いたくない人はいる。

 

 あの――腹黒いお嬢様を。

 あの傲岸不遜でわがままでなくせに妙に押しに弱い女の子――拝島舞。


 あの子を助けたい。それだけだ。

 

 理屈や理論や、根拠などどうでもいい。

 

 正義感で動いているのではない。

 

 ただ、愛おしいと思う女の子の元へと、近くへと向かう。


 それだけだ。


 だからペダルを漕ぐ。


 両足が棒のように感じる。ふくらはぎが悲鳴を上げている。それでも。


 ――左折して、このマンションの横を抜ければ――公園が見えてきた。


 っく、暗くて公園の入り口まで見えない。あと、二〇〇メートルくらいか。


 さらにペダルを漕ぐため足に力を込める。


 ああ、文芸部にこの運動量はキツすぎるだろう。


 段々と公園の入り口が見えてきた。そして、はっきりと青白く光る電灯の下に、たたずむ人影――拝島舞の姿が見えた。心配そうな表情で、携帯電話を胸の前で握りしめているのが一瞬見えた。


「舞‼」

「春斗くん⁉」


 舞がこちらに走ってきたのが分かった。俺は自転車を降りて走り出す。自転車がバランスを崩してガシャンと音を立てた気がした。


 そして、暗闇から舞の姿を捉えた。上品そうな白いワンピースを着ていた。僕の元へと駆け寄ってきた。よく見ると、泣き腫らしたように赤い目だった。それに震えている。


「…………それで、怪しい人は?」と僕は呼吸を整えながら声を出す。舞は「あそこ」と震えながら指を指さしたのは、園内の自動販売機の横にいる人だった。ちょうど影が差していて顔が分からない。


「舞、とりあえず、ここを離れよう」と僕は、舞に一方的に言って、舞の手を取って引き返し始めた。すると、遅れて舞は赤く潤んだ瞳で「うん」と小さく頷いたのが見えた。一瞬、過去に見た顔と近似感を覚えたが、即座に頭の隅に消えた。


 それから、倒れていた自転車を拾い、ちらっと振り返る。すると、すでに人影は見えなかった。いや、暗くて確認できなかった。


 僕は自転車の後ろに舞を乗せて近くの喫茶店へと向かった。その間、ずっと舞は無言のままだった。ぎゅっと僕の背中にしがみつく舞の体温が温かく感じた。


 どうか警察に二人乗りを見つかることがありませんようにと願いながら、僕はペダルを漕いでいた。


 そんな僕ら二人を青白くきれいな月光が照らしていた。


 いつの間にか、空に雲は無くなっていた。

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