第7話 見張り台の試練

 甲板に出ると、立ち働いている船員たちの好奇の視線が絡みついてきた。ヴァンジューはたくましい男たちの中でもひときわ身体が大きく、緑色のバンダナを頭に巻いた一人の船員に声をかける。


「ダント、こいつを見張り台に上げろ。主帆柱メインマストの上の方にだ」


 告げられた瞬間、ダントと呼ばれた彼も含め、場にいた全員がぎょっとした顔になった。


「ですが船長」

「お前がやらなきゃ俺がやるだけだ」


 にべもなく言ってから、ヴァンジューは声を張る。


「皆、聞け。シャニィは間違えてこの船に乗ったが、勇敢にも船賃代わりに皆と同じように働くと申し出てきた。海は男だろうが女だろうが、区別も容赦もしない。よってこの船に乗るにふさわしいか、これから〝試し〟を受けてもらう」


 彼はシャニィを見下ろしてから、そびえ立つ一番太い帆柱の上を指し示した。一段目の帆の少し上のあたりに一つと、はるか上空にもう一つ、小さな見張り台が見える。


「今からあの一番高い見張り台に連れていって、柱に縛る。お前はなんとかして抜け出して甲板まで降り、船員たちに捕まらないように船長室まで辿り着け。期限は日暮れ前までだ。落下したり、船員に捕まったら失格になる。もし果たせれば、お前がこの船で見習いとして働くことを認めよう」

「わかりました」


 シャニィが頷いたところに、おずおずと近づいてきた者がある。紫色のヘアバンドで前髪を上げた、中年の船員だ。


「あのぅ、ヴァン船長。さすがに女の子に、それはあんまり酷なんじゃないかと……娘がいる身としては、ちょっと見ていられないというか」

「ロート、お前の娘はまだ四歳だろ。こいつは成人している。そして本人が自分で選んだことだ。例外は認めない」

「はい……すんません」


 いかにも心配そうな目でシャニィを見て、彼はしょんぼりと引き下がった。


「準備はいいか?」


 ダントと呼ばれた大男が、シャニィに聞く。


「はい、いつでも大丈夫です」


 先導してくれるという意味なのかと思っていたが、頷いた彼はひょいとシャニィを肩の上に担ぎ上げると、そのままするすると組まれた縄を登り出した。


「かなり高くなるから、目をつむっているといい。落ちるのが嫌なら、なるべく動かないようにしてくれると助かる」

「はい」


 そう返事はしたものの、シャニィは目を閉じたりはしなかった。ダントの肩を支点に、腹のあたりで折れるようにして運ばれているので少し息苦しくはあったが、それでも生まれて初めて見張り台というものに上がるのだ。その景色を、見逃したくはなかった。


 人一人抱えているとは思えない速度で、ダントはぐんぐんと登っていく。ギィシギシと縄がきしり、耳元でひゅうひゅうと風が鳴った。港で見た時には圧倒されるほどに大きかった船が、高く上がれば上がるほど小さく頼りなくなり、代わりに四方八方から海が迫ってくるのだ。見渡す限りのきらめく波の中では、この船などごく小さな点に過ぎない。


 圧倒的な海が、そこにはあった。


「すごい、すごいわ!こんな景色、見たことがない……!」

「シャニィは高いところは平気なのか」


 あっという間に上部の見張り台にたどり着いてシャニィを下ろしたダントが、意外そうな顔をして聞いてくる。


「ええ。むしろ結構好きよ」

「ならよかった。でも、船が揺れた時に落っこちるといけないから、しっかり縛らせてもらうな。日暮れ前まで辛抱したら、ちゃんと下ろしてもらえるから」


 この目もくらむような高さから、自力で降りるのはさすがに無理だと思っているのだろう。彼はそう言ってシャニィを柱にくくると、するすると見張り台から降りていった。


 ———やっぱりこの服を着てきて正解だったわね。


 空を泳ぐ白い帆の群れの中に取り残されたシャニィは、人知れず笑って満足げに自分の足元を見た。ぱっと見はスカートに見えるのだが、その実態は動きやすいズボンなのだ。それも、様々な工夫を凝らした自慢の一品である。


 今、シャニィは気を付けの姿勢で帆柱マストに縛りつけられていた。なんとか身をよじって手を腰の辺りまで動かし、そこに仕込んであったものを引っ張り出す。


 指先ほどの大きさの、繰り出し式ナイフだ。


 刃物としては非常に小ぶりだが、それでも縄を切るぐらいはできる。シャニィは落とさないよう慎重に指先を動かして、少しずつ少しずつ縄を切っていった。


 縄を切り終えて見張り台のふちからそっと下を見ると、少し前までは見当たらなかった網のようなものがはるか下方に広がって張られている。一応、命まで取る気はないということらしい。


 ———どう降りるのがいいかしら……


 上からは船員たちの動きが見えたが、帆に阻まれて全てが見えるわけではない。捕まってはならないというのなら、彼らの動きを把握して、隙を突いて甲板を抜けなくてはならなかった。


 なかなか厳しい条件だが、少なくとも彼らはシャニィにそんなことができると思っていない。そこに絶対的な油断がある。道は必ずあるはずだった。


 ———とにかくまず、下の見張り台まで降りてみよう。


 シャニィは腹に力を入れると、ダントがそうしていたように組まれた縄の足場を掴み、見張り台の上から身を乗り出した。正確な数字はわからないが、十五メートルは軽く超えているだろう。あまりの高さにさすがに背筋がぞわぞわして、冷や汗が滲んだ。手か足が滑りでもすれば、一貫の終わりだと感じる。


 ———余計なことは考えない。目の前の縄だけを見る。今進める一歩のことだけを考えるのよ。


 目を閉じて自分に言い聞かせ、シャニィは大きく深呼吸をする。そして慎重に一歩ずつ、甲板へ向かって降り始めた。


 一歩進んでは次の一歩を足先で探り、わずかずつ、でも確実に高度を下げていく。上の見張り台が遠くなっていくにつれ、少しずつ辺りをみる余裕が出てきた。


 風に立つ無数の波はきらきらと太陽の光を返し、どんな宝石よりもまばゆく輝いている。それが見渡す限り一面に、悠然と広がっているのだ。なんと解放感に満ちた途方もない美しさだろうか。


 感嘆しながら下の見張り台に辿たどり着いたシャニィは、床の感触にようやく落ち着いた心持ちになり、大きくため息をついた。見張り台のふちから顔を出してそっと下を覗いてみると、一体いつから見ていたのか、こちらを見上げているトルックと目が合う。彼はにや、と笑うと船首の方へと姿を消した。


 ———しまった。降りるのに必死で、そこまで気が回らなかったわ……もう少し怖がったりしてみせて、油断してもらいたかったのに……


 シャニィはどう船員たちの間を掻いくぐるかを考えながら下をうかがったが、彼らが帆柱マストの下に待ち構えに来る様子はない。どうやらトルックは見逃してくれるつもりらしかった。そうこうしているうちに、何やらヴァンジューが指示を出している声が聞こえ、船員たちが何人か下を通りすぎて船首の方へと集まっていく。


 ———チャンスだわ……!


 足を踏み外した時のために主帆柱メインマストの下方に張られている網は、両隣にある帆柱に結ばれている。恐らく落ちた時の衝撃でたわむ分を考えて、網はそこそこ高めの位置に張られていた。船員たちの目に触れずにできるだけ船首から距離をとりたいシャニィは、主帆柱メインマストから下に降りるのではなく、網の上をつたって隣の帆柱を目指すことに決める。


 シャニィが見張り台から降りていって網に取りつくと、上空にいた時には聞こえなかった船員たちのやりとりが聞こえてくる。


「それにしたって船長、あの一番高い見張り台はないですよ。せめて低いとこにしてやったらいいのに」

「働くっていうなら、そんな甘いことは言っていられないだろうが。今日は波が穏やかだからまだいいだろ」

「別に本当に見習いをやるわけじゃないんでしょう?ならいいじゃないですか、あんなか弱そうな子をおどさなくたって。おい、トルック。お前もなんとか言ってくれよ」

「えー?ああ、大丈夫大丈夫。シャニィさんなら問題ないっスよ」

「お前、なんでそんなに軽いんだよ」

「いや、なんでって言われても、大丈夫なもんは大丈夫だからですよ」

「だから、その謎の根拠はどこから出てくるんだって」

「そりゃ、まごうことなき現実からっスよ。なにしろそのか弱いシャニィさん、俺たちの隙を突いて……絶賛脱出中ですし?」


 トルックがそう笑いを含んだ声で言ったのと、網を渡りきったシャニィがトン、と甲板に降りたのはほとんど同時だった。


「「「「は?」」」」


 すっかり楽しくなってきたシャニィは、船首から唖然としてこちらを見ている人々に満面の笑みで投げキッスを飛ばしてから、甲板の上を一目散に駆け出した。彼らが我に返って追いかけてくる前に、船長室まで降りなければならない。


「嘘だろ!?本当に自力で降りたのか!?」

「俺、結構しっかり縛っておいたんだが」

「っていうか速っ、足速っ!」


 どよめく船員たちと、のんびりしたトルックの声が聞こえてくる。


「いやぁ、スカートかと思ってけど、あれズボンなんスね。準備がいいなぁ。シュラウドも入りたての見習いよりよほど早く降りてたし、やりますねぇ」

「お前、気づいてたんなら早く言えよ!」


 ヴァンジューの怒鳴り声がした。


「すいません。見かけによらず猿みたいに身軽だなって感心してたら、言うの忘れたっス」

「見えすいた嘘を……待たんか、この小猿———っ!!」


 唯一追いかけて来たヴァンジューを懸命に振り切り、シャニィはなんとか船長室へと駆け込むことに成功したのだった。



 * *



「約束は約束だからな。お前はこれから帰港するまで、この海賊団ヴァラジットの見習いだ。しっかり励めよ。……リーリアと名乗ると、俺のように知っている奴がいないとも限らないからな……ここでは家名はリーと名乗れ。海賊船にさらわれた令嬢なんて噂話で、人の口に乗りたくないだろう?」

「わかりました」


 シャニィが頷くと、彼はトルックの方を見た。


「お前も、さっき聞いたシャニィの事情は黙っておけ。こいつは夫になる海軍軍人の船に乗ろうとして、港に慣れなくてうっかり間違えたシャニィ・リーだ」

「了解っス、ヴァン船長」


 それからヴァンジューは、ふいに思い出したように付け加える。


「キナルトラス号の方はお前が来なくて大騒ぎになってるだろうから、砦に伝書鳥を送って事情を知らせておいてやる」

「この船、伝書鳥がいるんですか?」


 シャニィが驚くと、トルックが頷いた。


「この仕事の最中だけ、砦から預かっているものなんですよ。普段は乗せてないやつですから、運が良かったっスね」

「本当ね。ヴァン船長、重ね重ねお心遣いありがとうございます」


 さらったと勘違いされるとこっちが迷惑だからな、と肩をすくめた彼は、ドアの方を顎でしゃくるとトルックに命じる。


「船内の連中に、新入りとして面通ししてやれ」

「はい。じゃ、いきましょうか、おドジなシャニィ・リーさん。まずは厨房ギャレーかな」


 こうして、シャニィの見習いとしての日々が始まったのだった。

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