5 命の重さ
5 命の重さ
初めてその力に気づいたのは、学校で百メートル走のタイムを測っていたときだ。地面を蹴り、腕を振り、全力で前へ前へと駆ける十数秒の短い時間。そのときに感じた、百パーセントのその先の感覚。百二十パーセントの力が湧き上がる感触。
陸上競技未経験の生徒としては相当な好タイムだったらしいが、そんな結果よりも私の心を捕らえたのは、全力疾走の間身体を駆け抜けたあの感覚だった。
普通の人が単に全力を出し切るということと、自分のこの感覚が別のものなのではないかと考えたのは、あるドキュメンタリーを見たのがきっかけだった。
中東のとある国で独裁政権が打倒された際、革命に手を貸していた傭兵集団を特集したものだった。集団の創設者はクリストファーと名乗る青年で、彼を語る上で欠かすことのできない要素がルミナスと呼ばれる不思議な力だった。
およそ十年前にネットの怪しい噂として広まり、オカルトとして一笑に付されていたルミナス。それが今少なくない人間に信じられ、畏怖の対象になったのは彼の影響だった。
ルミナスの存在を、自分がその力を使えると主張している者は、概ね次のようなことを語るらしい。全力で身体を動かしたときに、自分の身体の奥深くから湧き上がるように、そして同時に周囲の空気から取り込んでいるように感じられる力。それによる運動能力の向上。そしてその力の源になるエネルギーを感じられる、五感とは別の第六感のような知覚。
それはあの百メートル走以来、何度も公園で全力疾走して確かめた感覚と同じものに思えた。
あるとき勇気を出して、そのことを両親に打ち明けてみたことがあった。
「ルミナスってあるでしょ? 私、あれが使えるみたいなの。あれが自分の身体の中にあるのがわかるの」
父と母は顔を見合わせると、困惑半分理解半分といった苦笑を見せながらこう説いた。
「ロゼリア、なんていうか、そういう感覚はね……あなたくらいの歳の子にはよくあることなのよ。自分には他の人間と違う、特別な力があるように信じたくなるのは」
「特殊な力なんてなくたって、人間は誰もが一人ひとり特別で、かけがえのない存在なんだよ。それにもちろん私たちにとっては、君は誰よりも大切で、何よりも特別な存在だ。それじゃあ足りないかい?」
そう言われてしまうと、もうそれ以上主張することはできなかった。思春期を迎える少女の一時的な思い込み扱いされたのは不満だったが、私の感覚・力を証明できる方法は何もないように思えたし、理解できるのは同じ感覚を持っている人だけだという気がした。
母の教育方針でネットの閲覧が制限されていた私には、気軽にルミナスについて検索することもできなかったし、親の目を盗んでまで情報を集めようとは思わなかった。
あの感覚の正体の答え合わせはできなくなったけど、当時はそれでもかまわなかった。得体の知れない力への恐怖もあったから、是が非でも探求して使いこなそうとまでは思わなかった。
だがここに至って、私は何よりも力を必要としている。ただの人間には出せない並外れた力を。
誰にも教わることなく、この力を磨かなければならない。それがどんなに困難でも、ルミナスの存在は私にとって正に光明だった。
クリストファーはルミナスの使い手の中でも突出した、人間の常識を超えた力で仲間たちを勝利に導いたという。私が彼と同じ力を使えるなら、ただの女の子には到底不可能なことだってきっとできる。
ただの幻想だとしても構わなかった。私は強くなれる。その希望はそれからの長い月日の中で私を支え続けることになった。
私と一緒に誘拐された子供たちには、新しい名前が与えられた。〈痩せたハイエナ〉。〈狂ったサイ〉。〈山を飛び越える者〉。〈百発の銃弾〉。中には知らない単語も混じっていて、発音だけを覚えたそれらの名前の意味を理解するのはもう少し先のことだったが。
一方で私に付けられた名前は何だったか。ただの白。それも現地の言葉ではなく、英語でホワイトと呼ばれるようになった。単語一語を呼び名にすると紛らわしいからだろう。
反政府ゲリラ〈徴税人〉の少年兵にして、ボス専用性奴隷のホワイト。これが新しい私の身分だった。
だが一瞬だってロゼリア・ライヴリーという本当の名前を忘れたことはなかった。訓練で銃を手にしたとき、今この銃口をくわえて引き金を引けばこの地獄から解放されるのだということが頭を過ぎったとき、
私だけではなく、他の女の子たちだっていっそ死にたいと思うことは毎日のようにあったと思う。だが誰も死にたいとか死なせてとか口には出さなかった。実際に言葉にするという一線を超えてしまったら、いよいよ本当に生きていけなくなると思ったのかもしれない。だとしたら、こんな境遇でもどこかで死にたくない、生きていたいという思いもまた確かにあったことになる。
彼女たちにとって最も耐え難い時間は言うまでもなく男たちの慰みものにされる時間だったが、厳しい訓練にも時折涙を見せていた。そこが私との違いだった。私にとって、訓練は苦痛の日々の中で唯一辛いだけではない時間だった。復讐という目的を叶えるための積み重ね。自分を高め、未知の力を研ぎ澄ませる充実感。たとえ体力の限界で吐きそうになっても、足がボロボロになっても、それは無駄ではないと思える時間だった。
だが鍛えた力を復讐に使う前に、憎くもない相手と殺し合うことになるとはわかっていた。政府の軍隊か、別の反政府ゲリラか、とにかく個人的な恨みのない相手と戦う日がいつか来ると覚悟はしていた。しかしそれは、同じように銃を持って自分たちを殺そうとしてくる敵のはずだった。正確に目標を貫けるようになった銃口は、同じように銃口を向けてくる敵の兵士を狙うものだと思っていた。
自分が拉致された正にそのとき、〈徴税人〉が無抵抗な集落を略奪、虐殺したというのに、自分が同じことをさせられるとは考えもしなかった。つくづく自分は視野が狭くなっていたのだろう。
訓練が始まりひと月経った頃。その日は前日から、拠点の移動のためテントや組み立て式の簡易小屋の撤収作業を行っていた。川までの距離が遠く水の確保が不便なため、拠点を移動するという話は以前から出ていた。
全員であらかじめ決めていた新拠点に移る道中、〈徴税人〉は小さな集落を襲った。兵士たちは、捕らえた住民の一部を一列に並べてひざまずかせた。
そしてまずは四人の新入り少年兵たちの
順に拳銃を手渡された彼らは全員が数秒から十数秒だけ逡巡したが、引き金を引けない者はいなかった。震えて懇願し、嗚咽を漏らす男女と老人が、背後から頭を撃ち抜かれて血や脳を撒き散らすのを、私は膝を震わせ、歯を鳴らして見つめていた。悪寒と息が止まりそうな緊張感の中で、目を逸らすことさえできなかった。
「これでおまえたちも一人前の男だ! 今度はおまえたちの番だ! ホワイト!」
少年たちの次に前に出るよう促されたのが私だった。五人の新入りの少女たちの中で最も優秀だったからか、或いはボスの女だからなのか。銃を渡された私の前に跪いていたのは、三十代か四十代くらいの男で、涙を流しながら目を閉じ、顔を俯けていた。私は彼が息子らしき十歳くらいの少年と引き離されるところを目撃していた。その少年が他の捕らえられた子供たちと一緒に私たちの背後で一連の虐殺を見せつけられていることも知っていた。
「お父さん!」
少年の甲高い叫びが鼓膜を震わせた。子供が見ている前で、父親を殺さなければならないのか? もし撃たなかったら? そのときは私が殺されるのだろうか? 新人の少年兵たちは全員課題をクリアしたから、できなかった者がどうなるかはわからない。だがここで撃てなければ兵士失格の烙印を押されるのは間違いないように思えた。兵士になれないと判断されれば始末されるのだろうか。それともただの性奴隷として生かされるのだろうか。私はボスのお気に入りだ。もうそれは自覚していた。撃てなくても殺されることはないのではないか。しかし二度と戦闘訓練に参加させられなかったら、力をつけて復讐を遂げることはできなくなる。一生繋がれるだけの身になるかもしれない。いや、それよりもやはり殺される確率の方が高いのではないか。横から私を睨みつけている兵士に頭を撃たれ、並べられた村人と同じように頭の中身を撒き散らして死んでいくのだ。両親の仇も討てず、毎日犯され続けた恨みも晴らせずに。そしてその後は? 別の誰かが男を撃つことになる。どうせ男は助からないし、男の子供は父親が射殺される様を見ることになる。私と男の二人が死ぬか、男一人が死ぬか、それだけの違いしかない。
渡された拳銃を構え、項垂れる男の頭頂部に向けて動きを止めた数秒間、様々な思考が頭を駆け抜けた。
――誰もが一人ひとり特別で、かけがえのない存在。父の言葉が脳裏に浮かんだ。
それを振り払うように、引き金にかけた指に力を込めた。
「うああああああ!」
銃声の後、背後から少年の悲鳴が襲ってきた。男の身体が崩れ、血溜まりが広がる。不思議なことに、もう私の身体は震えていなかった。涙も流れなかった。ただ心に空虚が広がっていくようだった。
たとえ信仰を捨てた魂でも、何が罪かは知っている。罪悪感は騙すことができない。罪の意識は炎となって魂を焼く。
それでも立ち上がらなければならない。強くならなくてはいけない。そのためにもっと良心を捨て去らなければ。もっと神を遠ざけなければ。どんな罪深い行為にも耐えられるように。
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