海の底の鼠
中田中
第1話【電話】
ごぼ、と気泡がまた吐き出された。
水が肺に侵入してくる。
纏わりつく重さを振り切ろうと腕や脚を動かし暴れても、自分がゆっくりと、しかし確実に沈んでいくのが理解できた。
見開いた目には何も映らない。光が届かず、黒く塗り潰されている。
空気が足りない。呼吸ができない。
どっちが上で、下だったのか。
身体の感覚がなくなっていく。
閉ざされた五感に、痛みだけが満ちる。
針を突き刺されたような鼓膜の痛み。
はじけ飛びださんばかりの眼球の痛み。
右手に穿たれた穴から、血が流れ出ていく痛み。
叫ぶ。手を伸ばす。
そしてまた、死に近づく。
呼吸ができない。
したい。できない。したい。できない。したい。できない。
寒い。
▲
銀玉と命が融けていく音が聞こえてくる。
ここで働けば、毎日耳が壊れそうになるまで聞かされる音だ。
一円で打てるパチンコ台が立ち並ぶ通路を見渡すと、近くの台に座っているスーツ姿の男が、千円札をサンドに押しこみ新たなパチンコ玉を産み落としている。
男の顔に深い皺が刻まれるのが見えた。ハンドルを握り潰さんとばかりに力の込められた手の色が、白く変わっている。
この男は憶えている限りでも、二時間で八千円はスっているだろう。
八千円。俺の今日一日の稼ぎよりも高い額。それをこの男は、台に銀玉をジャラジャラと食わせるために使っている。
いつか勝てるという希望的観測なのか。それともただの破滅願望なのか。
店の売り上げに貢献するくらいならば、いっそのこと俺に恵んでくれないだろうか。溝に捨てる余裕があるのならば、未来ある若者に投資した方がよっぽど国のためになる。
そんなことを夢想しながら、灰皿に溜まった吸い殻をゴミ袋に集めていく。漂ってくるニコチン臭が鼻を刺激し、咳き込んでしまった。
パチンコ屋で働き始めて半年も経過した。
この仕事にやり甲斐や矜持を持ったことは、半年間一度もない。
他のバイトよりも多少だが時給が良かったので、試しに受けたらあっさり採用された。バイトが短期で辞めていき、慢性的に人手不足と知ったのは出勤初日だった。
何度も辞めようと考えた。だがこの中途半端な地方都市の更地に建つのは大きなパチンコ屋くらいで、高校中退の俺に選択肢は無く、パチンコ屋より稼げる仕事も少なかった。
灰皿を取り換えていると、耳のインカムから首を絞められた鶏のような声が飛びこんできた。
「早坂さん。五番通路で客同士のトラブル」
店長だった。書類仕事がどうとか言ってホールに出てこない癖に、監視カメラの映像は四六時中チェックするのが趣味の覗き魔。
そして、俺を嫌っている。こちらが何かをしていると見計ったかのように、面倒くさい仕事を必ず押しつけてきては、前の仕事が終わっていないと文句ばかり宣ってくる。
見てくれだけは良い制服の襟元に引っ掛けた、インカムのボタンを押し込んで返事をする。
「今当番の作業中です。他の人に行って貰ってください」
「早坂さんが一番近いんですよ。いいから行ってください」
「……承知しました」
「急いでくださいよ」
お前が行けよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
吸い殻が溜まった容器を片づけて五番通路に向かった。
パチンコ台が向かい合う通路に入る際は、一礼するのが原則だ。馬鹿らしいルールだと思うが、無視すれば接客態度が悪いだのと説教を食らうので、無心で四十五度まで頭を下げる。
「失礼します」
過剰な爆音に負けないよう声を張り上げる。
毎日、開店前に並んでいる老け顔の女がこちらを睨みつけて来たが、無視して速足で通り過ぎる。タバコときつい香水の臭いが鼻についた。背中ごしに舌打ちが聞こえた。
五番通路の真ん中で、二人の男が向かい合っていた。
どちらも皺の深い、頭が薄い老人だった。緑のジャンバーか作業着か。それくらいしか違いを見出すことが出来ない。
加齢臭なのか風呂に何週間も入っていないのか、微かに不快な体臭が漂っていた。昔、社会化見学で覗いた豚舎の悪臭を思い出した。
こちらに気づいた作業着が、唾を飛ばしながら怒鳴ってくる。歯が何本か抜けているのが目を引いた。
「こいつが俺の出玉を盗りやがった。ちょっと外出てる間によ!」
ジャンバーが負けじと声を荒げた。
「盗ってないって言ってるだろ。大体ちょっとどころじゃない、一〇分は戻ってこなかった。おおかた煙草でも吸ってたんだろーが!」
「何でいなかった時間がわかんだよ。やっぱり気にしてたんじゃないか。お前が犯人だ! 窃盗だ!」
「うるさい、殺すぞ!」
ジャンバーが腕を振り上げて威嚇すると、作業着が突然床にしゃがみこんだ。頭を抱えて丸くなり、店中に響き渡る奇声をあげる。
「人殺し! ひとごろしいいいいいいいいいい!」
「あんだ、このキチガイが!」
「ちょ、落ち着いてください!」
作業着の背中を踏みつけようとするジャンバーを慌てて止める。
その拍子に、ジャンバーの肘打ちを頬に食らってしまう。痛みでよろける俺に追い打ちの唾が飛んできた。
「あんだ、その目は。お前が鈍臭いんだろうが!」
悪びれる様子も無いジャンバーに睨みつけられる。
「警察だ! 警察を呼べ! こいつは逮捕だ!」
「黙れキチガイ! 殺してやる!」
作業着はここぞとばかりにがなり立て、ジャンバーは更に逆上する。
その後も罵詈雑言の応酬は止まらず、暴れるジジイ共から二、三発パンチを貰いながらも警察を呼び、店の外に追い出すしかなかった。
責任者であるはずの店長は騒動が終わるまでホールに顔を出すことも無く、殴られた顔をアイシングで冷やしている俺に文句を垂れるばかりだった。
月末の会計処理と残務に追われ二時間も残業し、店を出たころには帰宅する気力すらも地に落ちていた。
外はうっすらと雨が降っていた。
五月にもなると北海道にも春の陽気が訪れるが、この辺りは一年の半分ほどは天気が悪い。心無しか肌寒かった。
ため息をつきながら車に向かおうとすると、ポケットのスマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。電話に出ると大きな掠れ声が聞こえた。
「平田だ」
一瞬、頭が真っ白になる。
忘れたかった名前だった。思い出したくもない記憶が脳裏に蘇ってくる。
深呼吸。
冷静を保つよう努める。一拍置いて出した自分の声は、少し震えていた。
「……どうしてこの番号を」
無意味な質問。情報の出処を探ったところで意味は無い。現にこうして連絡を取ってきている時点で捕捉されているのだ。
それでも聞かずにはいられなかった。
引っ越しを繰り返し、交友関係は絶ったはずだが、どこかで漏れたのだろうか。
「友だちってのは多い方が何かと得だよな?」
電話越しの声がせせら笑う。
「実は話があるんだが……会えないか」
そう気安く言って近くのショッピングモールを集合場所に指定してきた。ここからなら車なら二〇分もかからない距離。
「……今日は、調子が悪くて」
「お前に断る権利があるとでも思ってんのか?」
寒気がする。傘を取り落としていることに気づいたが、拾う気にならない。
「一応言っておくが、逃げられると思うなよ?」
一方的に電話は切れた。
足に力が入らない。亀裂から雑草が生えた広い駐車場をよろよろと横切り、車に鍵を挿し込んだ。雨が幾分強くなったようだった。
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