ヒヨさんはお風呂でご機嫌ななめ

 先生はずっと何かを考え込んでいる。こういう時には邪魔をしてはいけない。私は入浴しに行く事にした。


「お湯。お湯に入るから、ここで待っててね」

「ムマァァァッ」


 ヒヨさんはお湯が嫌いだ。一度、人がいない時にお風呂に入れたら、勢いよく飛び出して怒りの鳴き声をあげていた。それ以来、『お湯』と言うと私から離れてくれる。脱いだ服にくるまって、大人しく待っていてくれる。


 大きな浴槽にお湯がたっぷり入っている。私は鼻まで浸かって息を吐く。ぶくぶくと泡が上がる。


(あれ? 浴槽じゃなくて、ユブネって言うんだっけ? 忘れちゃった)


 宿によって入浴する場所の様子が違う。ここは、大きな浴槽のお湯に皆で入るけれど、前にいた村では壁に生えたじょうろの口みたいな所から一人ずつお湯を浴びていた。


「俺は風呂の入り方は教えてやれん。周りをよく観察するか、分からなければ誰かに教えてもらえ」


 大抵の女の人は親切に教えてくれる。私は宿に置いてある石鹸を使うけど、えっと、たまに面倒で使わなかったりもするけれど、親切な人の中には、自分のステキな香りがする石鹸を貸してくれることがある。


 今日お風呂にいたおばさんは、私の髪の毛を専用の石鹸で洗ってくれた。


「お嬢さん、数日前からいるでしょう? 綺麗な髪の毛が気になっていたの。娘が小さい頃は、こうやって洗ってやったもんだわ」


 私の髪の毛は金色で、腰まで伸びた三つ編みを解くと、さらさらと輝く。自分では特に何とも思わないけれど、多くの女性が憧れるステキさだと褒められる事がある。


 おばさんは丁寧に洗って軽く水分を拭ってくれた。嬉しくなって、お礼におばさんの背中を洗ってあげる。


(お母さんが生きていたら、こうやって一緒にお風呂入ったのかな)


 お父さんの事はあまり思い出さない。でも、お母さんのことは、いつでも何かにつけて頭に浮かぶ。


 部屋に戻ると、先生が熱心に紙に何かを書き込んでいた。まだ話しかけてはいけない。


 私は、髪の毛をもっと乾かそうと、部屋の中でぐるぐる回った。ヒヨさんが楽しんでくれたのか『ムッ、ムッ』と鳴いている。おばさんが使ってくれた石鹸の果物のような香りが部屋に広がる。


(目が回るぅ)


 寝台に、どさっと寝っ転がったところで先生がペンを置いた。


「こんなもんか」


 両腕を上に上げて身をよじり、身体をほぐしている。ふと何かに気付いたように周りを見回し、寝転がる私に目を留めた。


「ああ、石鹸の香りか。今日はずいぶん良い香りがするな」

「お風呂にいたおばさんに、特別な石鹸で髪を洗ってもらったんです。いつもより、つやつやすべすべします」


 先生は少し困ったように首をかしげた。


「そうだな、俺には女の子が喜ぶような物は分からない。そういう良い香りがするものとか、可愛い服だとか、色々あるんだろうな。⋯⋯何か欲しいものがあったら、ちゃんと言えよ」


 私は知っている。先生は町の服屋でも女の子が好みそうなものを聞いてくれていた。


「ありがとうございます。何か欲しくなったら言いますね」

「何でも買ってやるわけじゃないからな!」


 先生は私が魔獣に近い暮らしをしていた時から、他の人と違って一人の人間として扱ってくれた。私にも、ちゃんと感情があると思ってくれる人は少なかった。やっぱり私は、たまらなく先生が大好きだ。


「先生、何を書いていたんですか? ウリオンの事?」

「会えたな」

「会えましたね」


 少し離れてはいたけれど、顔の毛までしっかり見れる距離だった。私はただ圧倒されただけだったけど、先生はしっかり観察したようだ。


「色々な本に載っている姿絵とは少し違った。俺の記憶の中のウリオンとも少し違う。それが、ウリオンに共通する事なのか、あのウリオンだけの事なのかは分からない。そもそも、あれがウリオンだ、というのは見た目で判断しているだけで『ウリオン』とは何か、という議論はされていないしな」


 先生が書いた紙を見せてくれる。 


 毛の長さは均等ではなく、特に首回りが長く密集している

 狼に比べると体長に対して尾が長く、太い

 顔の大きさに対して、耳が大きく、上方に向かってそそり立っている

 瞳は大きく白目がなく黒一色

 体臭は感じ取れなかった

 猛々しい印象は受けず、何に興味を持ったのか、こちらを観察している様子に見えた


 他にも色々な観察結果が書かれている。


「先生⋯⋯これは、ウリオン?」


 犬のような絵が書き添えてある。先生の事は尊敬しているけど、これについては、ちょっとどうかと思う。


「俺は絵が苦手なんだ⋯⋯」


 私の言いたい事が分かったのだろう、先生は少し肩を落とした。


「先生、ウリオンが光っているみたいでした」

「ああ、そうだな。毛が月明かりを反射しているというよりは、ウリオン自体が発光しているかのようだったな」


 先生は机に向かい、何やら書き足した。


「姿を見せないウリオンが、どうして現れたんでしょうね。私たちが珍しかったんでしょうかね」

「ジュリエッタさんも珍しい、と言っていたな。祝詞を聞きに来る人自体が珍しいと言っていたから、石祠に巫女以外の人間がいる事が気になったのかもしれないな」


 縄張り。『魔獣をめぐる物語』の若者を思い出した。縄張りに踏み入り、ウリオンに嚙み殺された。巫女以外が石祠に来る事を快く思わなかったのかもしれない。


 恐らく先生も同じことを思ったのだろう。私たちは視線を合わせた。


「まあ、無事に戻れて良かったな」

「ですね」


 その晩、夢の中でウリオンに会った。


「お前の魔力が欲しい」


 ウリオンは静かに語り、私は交換条件を出した。


「あなたの毛を、ちょっとだけもらえませんか?」


 先生が調べたいと言っていた。ウリオンは『断る』と言い、ため息をついて去って行った。


 そんな夢だった。

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