第7話

「暑いな……」


 三奈はため息交じりに呟く。プールが外と繋がっているので外気が取り込まれているのだろう。エアコンの効きが悪い。三奈はバッグを開くとすっかり常温となってしまった飲みかけのコーラのボトルを取り出した。

 蓋を緩めても炭酸が抜ける音すらしない。それでも一気に飲んでしまうには惜しくて少しずつ口に含む。そのとき、ふいに視線を感じた。松池の方へ視線を向けると、彼女はじっと三奈の持つコーラのボトルを見つめていた。


「……あげないからね?」


 言ってみると、彼女はきょとんとした表情を浮かべてから笑った。


「取りませんよ。でも、大事に飲むなぁと思って。それ、もう炭酸も抜けてるんじゃない?」

「いいでしょ、別に。先生には関係ないじゃん」

「まあ、そうだけど」


 彼女はそれでも笑みを浮かべたまま、小さく息を吐いてプールへ視線を向けた。そして沈黙する。

 三奈もプールを眺めながらペットボトルを横に置いて、膝に頬杖を突く。イルカたちが遊び始めたのか、パシャッと水しぶきが上がった。


「先生ってさ」


 このまま無言で座り続けるのも気まずくなりそうで、三奈は口を開いた。

 一際大きく水しぶきがあがり、同時に軽い悲鳴が響く。どうやら近くでプールを見ていた客が水を浴びたらしい。楽しそうな笑い声が聞こえる。

 ちらりと横を見ると、松池が問うような表情で三奈のことを見ていた。


「……本当に付き合ってたの? あの人と」


 瞬間、すっと彼女が息を吸い込んだのがわかった。そしてそのまま「うーん」と柔らかく微笑む。


「うん。そうだね。どうだろ」

「なにそれ」


 三奈は眉を寄せる。


「違うの?」


 すると松池は「違わない」と、どこか遠くを見るような目で言う。


「そう、わたしは思ってるけどね。どうなのかな」

「でも好きだったわけでしょ?」

「うん。大好き」


 彼女は即答すると少しだけ頬を染めて笑みを浮かべた。その言葉は過去形ではない。そのあまりにも無垢な笑顔は本当にあのクールな松池なのかと疑いたくなるほどに幼くて、可憐だった。

 なるほど、と三奈は思う。これが彼女のファンクラブがあの人と彼女の関係を容認していた理由なのだろう。彼女のこんな笑顔は、きっとあの人のことを想っているときにしか見られないのだろうから。しかし、そんな彼女の笑顔を見て三奈はさらに眉を寄せる。


「どこがいいの、あんなやつ。鈍くさいし、地味だし。先生とは釣り合わなくない?」


 思わず吐いたその言葉に松池は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに「まっすぐなところがね、大好き」と言った。恥ずかしげもなく言う彼女の表情は恋する乙女そのもので、そんな純粋に素直な言葉を言ってのける彼女に対してさらに苛立ちが増す。


「……なにそれ。ぜんぜん意味わかんない。単純なバカってこと?」


 すると松池は悲しそうに笑った。


「まあ、単純ってところは確かにそうかも。すごく優しいからね。サチは」


 あの人の名を彼女は噛みしめるように呼んでいた。そして悲しげな表情のまま「高知さんは?」と言った。


「なにが」

「御影さんのどこが好き?」


 当然のように現在進行形の質問を投げてくる。もう三奈が抱くその気持ちには行き場がないと知っているくせに。三奈はイライラしながら「顔」と答えた。


「え、顔?」

「悪い?」

「悪くないけど。そっか、顔かぁ。たしかに綺麗な顔してるもんね、御影さん」


 フフッと笑って彼女は優しい口調で「一目惚れ?」と首を傾げた。


「……なんで先生にそんなこと言わなきゃいけないの」

「知りたいなと思って」

「何を」

「高知さんが、どうして御影さんを好きになったのか」

「なにそれ」


 そのとき、松池はふっと表情を消した。そして無表情の顔をプールへと向ける。


「――サチが、どうして御影さんを好きになったのか知りたくて」


 苛立っていた気持ちが一瞬にして消えてなくなった。無表情な彼女の横顔は陶器のように綺麗で、そしてどこか危うい感じがする。


「先生?」


 思わず声をかけると彼女は「出会ったのは、わたしの方が先なのに……」と呟いた。それはまるで自分の言葉のようで三奈は彼女から目が離せなかった。


「だから知りたいの。高知さんがどうして御影さんを好きになったのか。それがわかれば、このやり場のない気持ちをどうにかできるような気がして」


 松池は言葉を切ると、どこか不安そうな様子で「ダメかな」と呟いた。


「生徒に対してこんなこと言って、先生としてダメだなっていうのはわかってるんだけど。でも高知さんならーー」

「わかってくれる、とでも?」


 三奈は松池を睨んだ。松池は不安そうな表情を俯かせて口を閉ざした。

 そこに座る彼女の姿は悲しそうで、寂しそうだった。そしてきっと心の中は惨めさと嫉妬に覆われているのだろう。

 まるでもう一人の自分を見ているようだと、三奈は思った。そしてそんな彼女を見つめていると心がなぜか冷静になっていく。


 ――どうして、美桜のこと好きになったんだっけ。


 何かに誘われるように記憶を探る。プールで二頭のイルカが仲良く一緒にジャンプした。そして少し離れたところで一頭がひとりぼっちでジャンプしている。そんな光景を見つめながら三奈は「一年のとき――」と過ぎ去ったあの頃の記憶を呼び起こした。

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