【6】日ノ本の酒

 

 

 

「いやあ、日ノ本のお酒、美味しすぎるでしょ」

 

 ヴァルデュギートは、ぐいぐいと盃を重ねていた。

 那古野城内、客殿の座敷である。

 ぜんの料理を全て平らげたのち、ひたすら酒をらい続けている。

 

「気に入ってもらえたなら、よかったです……」

 

 犬千代は笑顔を引きつらせた。

 彼は苗字を前田まえだというが、元服前なので諱はない。

 だが、もしもその『犬千代』という幼名を明智光秀が聞けば、のちに加賀かが藩前田家百万石のいしずえを築く『前田利家としいえ』になるはずの人物だと気づくだろう。

 また、信長に近侍していた赤い髪の少年──勝三郎は、苗字を池田いけだ、諱を恒興つねおきといった。

 母親が信長の乳母を務めていたため、信長とは乳兄弟の間柄となり、勝三郎自身も幼少期から信長に仕える側近中の側近だ。

 のちに『池田恒興』は信長の最有力家臣の一人として、主君の没後の織田家のあり方を決める『清州きよす会議』に柴田勝家しばた かついえ羽柴秀吉はしば ひでよし丹羽長秀にわ ながひでとともに参加することになる。

 ちなみに岡山大学附属図書館が所蔵する太田牛一自筆本の『信長公記』は、『池田恒興』の子息で初代姫路藩主となった輝政てるまさに、牛一自身が献上したものだ。

 それはともかく──

 ヴァルデュギートの接待は、初めのうちは犬千代がしゃくをしていた。

 ところが客人の飲むペースが早すぎて、酒の用意が追いつかなくなった。

 台所にあった京の銘酒の『やなぎ』や日常酒の濁醪どぶろくは、あっという間に呑み尽くされて、やむなくヴァルデュギートには手酌で任せ、犬千代は酒樽を置いてある土蔵と客殿とを行き来して酒を運んだ。

 信長が配下の兵をこぞって出陣したため城の守りが手薄となり、犬千代以外の小姓たちは、その穴埋めに当たっている。

 ヴァルデュギートの相手は犬千代ひとりで務めていたけど、それにしても。

 

 ──ドラゴンって、蟒蛇うわばみの同類なんだろうか……?

 

 そう思わざるを得ない飲みっぷりだ。

 犬千代が酌に使っていたのは『銚子』であった。

 後世、小型の徳利を同じ名で呼ぶようになったけど、もとの『銚子』は柄杓ひしゃくに注ぎ口をつけたような形状で、給仕役が客にしゃくをする際に用いられた。

 一方、ヴァルデュギートは『提子ひさげ』で手酌てじゃくしている。

 上部に持ち手、側面に注ぎ口がついて土瓶どびんに似ており、本来は『銚子』に酒を足すための道具である。

『提子』から直接、盃に酒を注ぐのは品のないこととされるけど、ほかに同席者がいるわけでもないし、気にしても仕方がないと犬千代はあきらめた。

 もちろん、日ノ本の習俗を知らないヴァルデュギートは気にするわけもない。

 

「それにしてもヴァル殿、いくら飲んでも乱れないのですね」

 

『提子』に酒を入れて土蔵から運んで何往復目かの犬千代は、感心半分、呆れ半分に言った。

『提子』は二つ用意してあって、一つでヴァルデュギートが手酌で飲んでいる間、もう一つに犬千代が新しい酒を補充して来たのだ。

 ヴァルデュギートは、にっこりとして、

 

「乱れるって? ああ、酔っ払うってこと? 人間用のお酒では、カラダが暖まって気持ちよくはなるけど、ヘベレケまでいかないよ。『ドラゴンころし』レベルだと、さすがにヤバいけど」

「それ名前だけで危なそうですね。ドラゴン用のお酒ですか?」

「うん、昔、とあるドラゴンが、人型のときだけじゃなくてドラゴンの姿でもお酒を楽しめるようにって造り始めたのが広まったけど、ウチの酒は強いぞ、いやウチはもっと強いぞ、じゃあ飲み比べるかみたいなノリで、どんどん強烈な酒が造られるようになって。人間は匂いをいだだけでイチコロだと思うよ」

 

 にこにこしながら語るヴァルデュギートは、胡座をかいている。

 座敷に案内された最初に、日ノ本で椅子はあまり用いられず宴席では床に腰を下ろすのだと教えられると、遠慮なくそうしていた。

 しかしミニ丈ワンピース姿で胡座などされると目のやり場に困るので、犬千代は陣羽織を持って来て彼女に渡していた。

 

「御食事のときに御召し物を汚さないよう、こちらを膝にお掛けください」

 

 そう言って犬千代が勧めると、ヴァルデュギートは首をかしげ、

 

「ボクの服は変化へんげの術で着てるように見せかけてるだけだから、汚れは気にしなくていいんだけど」

「いえ、その……日ノ本の風習ですから」

「そうなの? じゃあ、遠慮なく借りておくね」

 

 にっこりとするヴァルデュギートに、犬千代は思わず、どきりとさせられた。

 この娘、正体は翼の生えた金色の馬のような姿で、神獣であろうかあやかしなのか、とにかくヒトではないらしい。

 でも、その笑顔はとても明るく、まぶしかった。

 陣羽織は勝三郎が今回の出陣に着ていかなかった予備のものを犬千代が勝手に借りて来たのだけど、ヴァル殿に膝掛けにしてもらうためだと言えば、勝三郎も怒ることはないだろう。

 ヴァル殿の輝く笑顔を見れば、誰だって怒りなんて吹き飛んでしまうはず。

 

「……ところで、ヴァル殿。実は、そろそろお酒が終わりなのです」

 

 犬千代はヴァルデュギートのそばで膝をつき、彼女のかたわらに『提子』を置いた。

 土蔵にあった酒樽のうち、四つばかり空になっていた。

 まだ酒が入った樽もいくつかあるけど、全てを空にするわけにいかない。

 出陣した者たちが帰還すれば、慰労のために酒を振る舞うことになるのだから。

 するとヴァルデュギートは、またにっこりとして、

 

「そっか。じゃあ、いま持って来てもらったお酒で最後だね。本当に美味しかったよ、ありがとう」

「いえ、お喜びいただけてよかったです」

 

 犬千代は苦笑する。

 酒がないと言って素直に聞き分けてくれるなら、もっと早くそう伝えておけばよかった。

 

「……いやあ、でもさあ」

 

 と、ヴァルデュギートは膝掛けを無造作に脇にけると両脚を伸ばしたかたちで座り直し、犬千代はまた、どきりとした。

 でも脚を伸ばしたままでいてくれるなら、ひとまず目のやり場に困ることはない。

 オンナが太ももを露わにするのは品がいいことではないけど、庶民の娘が川で洗濯をしたり、海で海藻や貝類を拾うときを考えれば珍しくはない。

 むしろヴァルデュギートの艶やかな褐色の脚は、よく日焼けした働き者みたいで好ましい。

 そう思っていたら、ヴァルデュギートは、

 

「最初に出してくれたお酒……『ヤナギ』? あれは見た目通りに澄んだ味で美味しかったし、そのあとの『ドブロク』もコクがあってよかった」

 

 などと他愛もないことを言いながら、投げ出していた両脚を無造作に広げた。

 人型でいることに慣れていないのか、どうにも無防備にすぎる。

 犬千代は慌てて目をらし、

 

「その……ヴァル殿、日ノ本の風習では、食事が終わっても女人にょにんは床に座っている間、足腰を冷やさぬように布を掛けたままにしているのです」

「そうなんだ? ボクは暑いのも寒いのも全然平気だけど、風習というなら従っておくね」

 

 ヴァルデュギートは素直に陣羽織を膝に掛け直し、にっこりとする。

 

「ゴメンね、ボクはこの国の風習にうといから、不作法があったらすぐに教えてね」

「あ……はい、こちらこそ、いろいろと押しつけてるみたいで恐縮です」

 

 犬千代は苦笑交じりに頭を下げてから、『提子』に手を伸ばした。

 

「では、あらためて酌をさせていただきます」

「いやいや、気にしなくていいよ。これでお酒が最後なら、自分のペースで大事に飲むよ」

 

 ヴァルデュギートは自分で『提子』を手に取り、盃に酒を注いだ。

 

「日ノ本のお酒、ホントに気に入っちゃった。急いでねぐらに帰らなきゃいけない理由もないし、しばらくこの国にいようかな」

 

 くすくすと笑って、

 

「でも、サブローの城に居座って、毎日タダ酒を飲ませてもらうわけにもいかないから、身の振り方は考えないとね」

「…………」

 

 犬千代は黙って微笑んでおく。

 ここは「はい」とも「いいえ」とも言えない。

 信長が自ら招待した客であるから充分に饗応きょうおうしなければならないけど、一晩ごとに酒樽を四つも空にされるのも困る。

 そのとき──

 座敷の外が、騒がしくなった。

 

「……ちょっと、様子を見て来ます」

 

 犬千代が立ち上がり、座敷を出ようとしたところに、別の小姓が駆け込んで来て鉢合わせになった。

 相手は間近から犬千代に向かって叫んだ。

 

「勝幡から早馬ぞ! 美濃方が夜討ちを仕掛けて参った、ただちに殿へおしらせせねばならぬ! 使いの者は手傷を負うておるゆえ、犬千代は手当てを!」

「承知した!」

 

 犬千代が答えると、相手の小姓はすぐまた座敷を飛び出して行く。

 犬千代はヴァルデュギートに向き直り、頭を下げた。

 

「ヴァル殿、お聞きの通りです。次の間にとこを整えておりますので、膳はこのままで、よろしいようにお休みください。敵も、この那古野まで攻め寄せて参る余力はございませんでしょうから」

「サブローに知らせるなら、ボクが行くよ」

 

 ヴァルデュギートは言って、立ち上がった。

 自分でも何を言っているのだろうかと、頭の片隅で考えながら。

 ドラゴンが人間同士の戦争に関わるなんて意味のないことなのに。

 でも、そうしようと思い立ってしまったのだ。

 自分では日ノ本の酒に酔ったつもりはなかったけど、意外と回っていたのかもしれない。

 

「どこに飛んで行けば、サブローに会える?」

「これより北、川のこちら岸に軍勢が集まっておりますから、おわかりになるはず」

 

 犬千代の答えに、ヴァルデュギートはうなずく。

 

「北に飛んで、川のこっち側だね。わかった」

 

 ヴァルデュギートは座敷から庭に出た。

 夜空に月が銀色に輝いている。

 それに照らされたヴァルデュギートの全身が、ぼうっと、金色の光を放った。

 着衣が溶けるように薄らぎ、裸身が透けて見えたかと思われた、次の瞬間。

 その場に、ドラゴンが出現した。

 馬より一回り大きな体躯。

 全身を包む黄金色の鱗。

 獅子のように雄々しく地を踏む四つのあし

 背には二対の、蝙蝠こうもりに似た被膜状の翼。

 顔は蜥蜴とかげや蛇に似て、しかし、それよりもなお憤怒ふんどたたえている。

 神獣──

 そう思うしかないと、犬千代は感じていた。

 龍が、ぎろりと琥珀色の瞳を犬千代に向けた。

 

『──行ってくる、サブローのところへ』

 

 声はヴァルデュギートのそれだった。

 だから間違いなく、彼女が姿を変えて、この神獣になったのだ。

 

「……よろしく、お願いします」

 

 犬千代が頭を下げると、龍はうなずき返したようだ。

 顔を空に向け、翼を羽ばたかせ、ふわっと宙に浮かび上がる。

 そして──

 グンッ──と、一気に速度と高度を上げ、飛び去った。

 

 

 

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