【3】明智十兵衛光秀
ヴァルデュギートは知る
麓に広がる町は、
そこに、
庭園に配された奇岩のいくつかを残し、先ほどの戦火で焼け落ちていたけれど。
山城入道、号して
この地方一帯──
井ノ口の居館はその政庁であり、日常の居所でもある。
稲葉山に設けた軍事拠点──稲葉山城に入るのは、戦時に敵を迎え撃つ場合に限られるが、つい先ほど、その迎撃戦で決定的な勝利を収めたところだ。
いまは
「──
大将首である。
つまり敵軍の最高指揮官を討ち取った
「確かに弾正忠か」
「間違いねえ、生け捕りにした
「
「色白の美形揃いは織田の一族の特徴なんじゃ」
幾人かが
入道と称する通り、頭を青々と剃り上げている。
目と眉と、口髭は『ハ』の字を描いている。
口そのものは『ヘ』の字で、その下に
細面で鼻筋は通っているのだが、なんとも癖のある顔立ちだ。
これが斎藤道三であった。
首を運んで来た兵が片膝をつき、折敷の上の首を掲げてみせた。
道三は目を伏せて
そして顔を右に向け、左目の端で首級を
兵は立ち上がり、左回りして道三に背を向け、引き下がろうとする。
そこを道三は呼び止めた。
「三宅藤兵衛と申したのう。
「は……されば」
藤兵衛は道三に向き直り、あらためて片膝をついて答えた。
「
それを聞いた諸将が感嘆の声を上げた。
「何という十兵衛の知恵働きよ」
「いかにも、
「こりゃあ、一番手柄は十兵衛かのう」
「弾正忠の首を
「十兵衛のおかげで我らも家運が開けるわ、ありがてえことじゃ」
諸将が
静かな微笑で、賞賛を受け流している。
美濃国の本来の国主の一族、
もともと土岐一門は分家が多く、その中でも明智家は先祖に功績があって家格が高いが、光秀自身はそのまた分家の生まれだ。
実力で美濃一国の支配者に成り上がった道三に臣従することに、さほど抵抗はない。
年齢的にも数え年で二十歳であるから、いまは自身の才能を周囲に着実に印象づける段階である。
いずれは自ら一国の主に──さらには諸国を束ねて支配する『天下人』になろうという野心は、その端正で柔和な面立ちの裏に隠している。
さて、よい頃合いであろうと見切りをつけて、光秀は道三に呼びかけた。
「──されば、御屋形様に御願いの儀がございます」
「む……なんじゃ」
道三は眉をひそめて問い返す。
気難しそうな顔つきの主君であるが、実際のところも難物だった。
実力で美濃の支配者に成り上がったがゆえか、
それでも主君として仰ぐ以上、光秀は道三を立てなければならない──いまは、まだ。
光秀は
「この機に乗じ、
「勝幡じゃと……? 狙いは
さすがに道三は勘働きが鋭い。
光秀は「はっ……」と顔を伏せたまま告げた。
「弾正忠は尾張中の兵を
「ふうむ……」
道三は低く
敵の総大将、織田弾正忠信秀を討ち取る大勝利にもかかわらず、先ほどから道三の機嫌が良さそうに見えないのは、その信秀を討った伏兵は光秀が独断で配置したものだったからだ。
伏兵は光秀が自身の領地の守りを
籠城策といっても、道三は持久戦の末の引き分けを狙ったわけではない。
開戦前の軍議で道三は、充分な勝算があるのだと諸将に向けて披露した。
──尾張の奴輩は、この稲葉山のような山の上の要害の攻め方を知らぬじゃろう。尾張は山が少なく、城といえば小さな丘の上か、土塁を築いたところに建てるかであろうからのう。
ならば、味方は堅牢な稲葉山城に籠もって時機を待ち、不慣れな山中での城攻めで敵が疲れ果てたところで反撃に転じよう。
そのためには山の要所要所に設けた
容易に曲輪を失陥して敵の士気を上げ、味方の戦意を損なうことがあってはならない。
籠城する兵は五人でも十人でも多いほうがいい。
──ゆえに、皆の衆が
そう諸将に告げて、道三は頭を下げてみせたのだった。
命令ではなく要請というかたちになったのは、諸将がもとから道三の家来であったわけではないからだ。
彼らは
成り上がり者の道三は譜代の家臣を持たない。
ために軽輩な身分でも働きのよい者があれば目をかけ、
ともあれ、兵を一人でも多く集めて城に入れようと、道三は頭まで下げたのである。
ここで光秀が、尾張勢の退路を断って確実に
伏勢を置くために兵を分けて城の守りを弱めたのでは本末転倒だと、道三に叱責されるところまで想像できた。
伏せ置く兵は光秀が自身の領地の守りを犠牲にして用意するとしても、その兵があれば城に入れろと道三は求めているのだ。
絶対的自信家の道三にとっては
だから光秀は独断で伏兵を配置した。
独断専行であろうと手柄さえ立ててしまえば諸将は光秀を称賛するだろうし、そうなれば道三も光秀の軍規への違背を
諸将に対する道三の立場は、そこまで強くない。
しかしながら光秀の伏兵の策も、機を見て籠城から反撃に転じた道三の采配があればこそ成り立った。
なのに諸将の称賛が光秀に集まるのは、自尊心の強い道三には腹立たしいであろう。
狭量にして
だが、それはこの際、問題ではなかった。
光秀はどうしても『この戦い』で織田信秀を討ち取りたかったし、それを果たせばさらに、織田家を徹底的に叩いておきたかったのだ。
道三の決断を待つ間に、三宅藤兵衛は敵将の首を運んで幔幕の外へ静かに出て行った。
やがて、道三は言った。
「三万と号した敵の猛攻に、味方は耐えに耐えた末ようやく勝利を得たのじゃ。兵どもは皆、疲れ果てておろう。また尾張勢は
じっと光秀を見据えて、
「ゆえに、我が旗本から出せるのは三百までじゃ。そのほうの組下で城に籠もりし者が百五十。ほかに弾正忠を討った伏勢がどれだけおるかは知らぬが、それでやれると申すなら任せようゆえ、
稲葉山城に籠もっていた兵が、味方についた諸将の配下を含めて四千余りであった。
敵は南の尾張国から攻め込んだ織田信秀と、北から攻め寄せた越前国主、朝倉
信秀は道三が追放した美濃の前国主、
孝景も同様に、頼芸の甥で自身にとっても縁続きの土岐
頼純の生母は朝倉家の出身である。
道三を討ったのちは信秀と孝景は、美濃を南北で分け合い、頼芸と頼純をそれぞれ飾り物の国主として据える目論見であったろう。
一方、美濃国内の領主の多くは道三が不利と見て、所領に引き籠もって静観するか、頼芸ないし頼純支持を唱えて道三の敵に回った。
他国の織田や朝倉が口実はどうあれ美濃に攻め入ることを快く思わない者は道三に味方したが、彼らと道三直属の兵を合わせて、ようやく集まったのが四千だった。
ところが、結果は道三の大勝利である。
稲葉山の北に布陣した越前勢は、騎乗の侍衆を主体として華々しく
彼らに積極的に稲葉山を攻める考えはなく、尾張勢の勝利がほぼ決したところで漁夫の利を得るべく参戦する
模様眺めを決め込んでいた領主たちは、これで再び道三に
頼芸や頼純を支持して道三に敵対した者は、一族郎党殲滅される覚悟でなければ、頭を丸めて道三に
頭を下げたところで道三は、一度は
だが、それはこれから先の話であって、いま道三の手元にある兵は限られていた。
味方は大勝利といっても二万を相手の奮戦で、籠城した四千のうちに数百の死傷者が出ていた。
──いや。
そうだとしても、この機を逃さず勝幡を落とすつもりが道三にあれば、自身の直属の兵を光秀に預けるだけではなく、諸将にも与力を求めて、より多くの兵を動かすだろう。
光秀が伏兵とするため領地から招き寄せた者は、およそ百五十。
城に籠もった兵と合わせて三百となるが怪我人も出ており、またその手当てをする者も留め置くとなると、すぐに動ける配下は二百ばかりだ。
これに道三から借り受ける兵を合わせて、およそ五百。
勝幡は尾張方の重要拠点で、堀や高塀、
それを守る兵が手薄であるとしても、こちらの兵も五百では、容易に落とせるものではない。
寄せ手の数の少なさは城方も見てとるであろうから、彼らにとっては終わりの見える戦いで、戦意を奮い立たせて猛反撃して来るだろう。
道三は光秀自身の献策を逆手にとり、
乾内記は道三が抜擢した馬廻衆の一人で、槍の名手といわれる大男だ。
しかし光秀に同行させるのは城攻めを助けるためではなく、道三が預けた兵の損害を抑えるように監視させるためだろう。
いざとなれば光秀の采配を無視して、兵を引き上げてもいいくらいに言い含めるかもしれない。
そして光秀が失敗すれば、道三はあらためて自らの采配で勝幡を攻めるだろう。
織田信秀を討たれた尾張方は体勢の立て直しに時間を要するであろうから、勝幡を落として津島湊を奪うにしても、それで間に合うと道三は考えるだろう。
だが、それでは遅いのだ。
なぜなら尾張には、まだ世に知られていない『織田信秀以上の怪物』がいることを、光秀は『知っている』のだから。
そのとき、居並ぶ諸将のうちで、
口髭を豊かに蓄えた、落ち着いた物腰の武人である。
「それがしが与力いたしましょう。それで兵は七百余り」
「
福々しく丸い赤ら顔の、気のよさそうな男である。
道三は眉をしかめて「むう……」と
光秀は初めから日根野や竹腰と話をつけていたのであった。
道三が諸将に勝幡攻めの与力を命じなければ、彼らが自ら与力を申し出てくれるようにと。
そうして勝算を立てていたからこそ、勝幡を攻めることを進言したのである。
道三は苦々しさを隠さぬ
「……いまの我らには大事な一千じゃ。無駄に損じるでないぞ」
「は……!」
光秀は道三に深々と頭を下げてから、
「日根野殿、竹腰殿、よろしくお頼みいたしまする」
与力を申し出た二人にも謝意を伝えた。
「……うむ」
「おう、ともに手柄を立てさせてもらおうぞ」
日根野と竹腰は、頼もしく請け負った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます