始章

第9話


 「あはは。

  じゃ、わたしは御邪魔虫だね?

  またね、純一君。」



 突風が去った後も、由奈は、動けずにいた。

 小刻みに肩が震え、CDを落としそうになっている。

 

 まずい。

 これは、病む。

 由奈の壊れやすい心が、めちゃくちゃになってしまう。

 

 「由奈。」

 

 「!

 

  な、なにっ……」

 

 ……あぁ。

 この顔、原作で見たことある。

 不安が、渦を巻いて由奈を飲み込んでいる。

 振られる予感、純一の心が離れていくことを、由奈が、感じてしまう瞬間だ。

 

 そんなこと、ない。

 ありえない。

 

 冷静に。

 できるだけ、柔らかい声で。

 

 「はは。

  CD、持ってきてくれたんでしょ?」

 

 「!

  う、うんっ……。」

 

 何事もなかったように、CDを手に取る。

 梨香の華やかなフレグランスなど、薫っているわけがない。

 

 俺は、由奈から醸し出される空気の重みを払うように、

 店内に薄く流れるジャズの調べを止め、

 備え付けられているCDプレイヤーに歩を進めた。

 

 おそらく、こういう時のため。

 マスターが、啓哉と梨香のために備え付けたに違いない。

 

 夜の店の中で、イジェクトボタンの打刻音が、やけにはっきりと響く。

 俺は、をしつつ、淡々と由奈のCDを手に取り、セットした。

 

 イントロのワンフレーズを聴いた瞬間から、

 全身に、稲妻が走った。

 

 俺は、この瞬間まで、

 あの眼鏡毒吐き野郎の才知を、舐めていたのだろう。

 

 緻密な、計算し尽くされた楽器編成と、

 滑らかなメロディだけが耳に残るように行き届いた整音。

 奥行と広がりを感じさせながら、

 耳触りな要素を切取り尽くした、シンセサイザーの華やかな調べ。

 

 俺が知っている白川由奈の曲では、ない。


 俺の世界で、これほどの緻密さで編曲ができるのは、

 小村雅美か、古橋毅史くらいのものだろう。

 

 気づくべき、だった。

 ゲーム世界の薄っぺらなデモ音源のような曲が、

 現実の市場で圧倒的な覇権を握るわけはないのだと。

 日本の音楽市場が、なぜ女性アイドルだけになり得たのかを。

 

 その上に。

 

 粗削りながらも、華やかさと揺らぎを兼ね備えた、

 豊かな倍音に満ちた一流のボーカリストの声。

 

 声優アーティストの精一杯のパフォーマンスも、

 リアルの白川由奈を現出させることは、できなかった。

 

 それは、そうだ。

 これは、表現できるものなんかじゃない。

 

 俺の世界に、こんな声の歌手はいただろうか。

 瑞々しさに満ち溢れながら、こんな奥行きと豊かな倍音を持ち、

 切なさを柔らかく包み込むように歌えるアーティストは。

 

 そう、か。

 やっと、わかった。

 

 ここは、実力派アイドルが、現実になった世界なんだ。

 

 俺の世界は、アイドルとニューミュージックが泰然と分かれていた。

 上手とは言えない歌をコケティッシュな容姿で可愛く聞かせるのがアイドル、

 緻密に組まれた世界水準の楽曲を、容姿を度外視して、

 鍛え抜かれたボーカルで聞かせるアーティストに分かれていた。


 その越境例はまったくないわけではなかったが、

 この、世界は。

 

 沢埜啓哉と、沢埜梨香。

 

 二人の天才によって、

 アイドルが、アーティストを、呑み込んでしまったのだ。

 アーティストという言葉の持っていた象牙の壁の質感を、

 陳腐なトイレタイルに堕さしめてしまった世界。

 

 唖然とした。

 

 音楽的技術の芸術的とも呼べる高さと、

 針の一穴を通し続けるような緻密さに。

 

 と同時に、沢埜啓哉が、

 自らが作り出した環境に辟易しているのも、痛いほど分かってしまう。

 アーティスト志向があるなら、

 必要に迫られて作り上げてしまった状況は、ある種の無間地獄を意味する。

 壊せないマイ〇ラの建物に永久に住まわされるようなものかもしれない。

 

 なるほど。

 あの野郎が、を欲するわけだ。

 

 それを脱する一縷の望みを、

 白川由奈の、透明感と倍音を併せ持った奇蹟の声と

 無限の広がりを感じさせる表現力に賭けていることも、

 痛々しいまでに伝わってきてしまう。

 

 自家撞着と微かな希望をエッセンスにしながら、

 フレージングひとつまで隙のない細密な構成で、

 由奈の声の魅力を、その欠損部分までをも知り尽くし、最大限に引き出している。

 

 いつの間にか、曲が終わった。

 

 「……どう、だった?」

 

 歌詞を、全然聴いてなかった。

 ただ、無意識に下音を割って分析的に聴いてしまっていた。

 

 それくらい、衝撃だった。

 

 「……もう一度、聴いていいかな。」

 

 「う、うん。」

 

 俺はやっと、由奈が緊張し続けていたこと、

 張り詰めきった涙腺を堪えていたことに気が付いた。

 

 できるだけ、優しく。

 弾力のある由奈の頬に、手を当てる。

 

 少しびくっとした由奈は、目を閉じると、

 涙を溢れさせながら、俺の手に、頬を委ねてきた。

 ……あぁ、このシーン、特典映像であるやつだ。

 

 改めて、

 CDのプレイボタンに目を向け、

 慎重に、それを押す。

 

 ……イントロの段階からわかっていたが、

 あの不朽の浮気ソング、『Assorted Love』ではない。

 そもそも、すれ違いなんか歌っていない。

 

 歌詞としては、正本敬や、神崎菫流の無内容な日常詩。

 街に差し込む朝日、白いカーテンのたなびき、

 はじめて手にしたフライパンと、ハムエッグの焼き加減。

 トーストの音の響きと、階段を降りて来る優しい貴方。

 

 これほど無内容に見せかけた歌詞なのに、

 ひとつひとつの言葉は、メロディと由奈の声に嵌るように緻密に選び抜かれ、

 伸びやかな倍音がぴたりと嵌る職人芸。

 

 ……でもって。

 

 これは、完全な、俺へのあてつけだ。

 

 新居に入った由奈を迎える啓哉。

 それ以外の何物でもない。


 豊かに広がりを持ちながら繊細さを感じさせる由奈の声に、

 シンセサイザーが粘りつくようにまとわりつき、

 そして、実に細密に合体し、四肢を舐め廻すように交歓する。

 鮮やかな公開自慰行為としか言いようがない。

 

 ……なんて、やっかいな奴だ。

 

 自分の持て余した情欲すら相対化し、

 ポップスとして禁欲的に成立させてしまう乾いた天才ぶりには、

 人格に鼻をつまみつつも敬意を抱かざるを得ないが。


 「……

  タイトルは?」

 

 「まだ、決まってないって。

  仮歌A、だって。」

 

 は?

 ここまで一分の隙もなく完成させといて?

 

 「よくあるんだって。

  梨香ちゃん、言って……っ。」

 

 梨香の存在を、思い出したのか、

 身体がびくりと震えている。

 

 やっぱり。

 これは、見たんだな。

 

 俺の手の中で、うまく笑おうとして、笑えないでいる由奈。

 心の中の純白の和紙に堕ちた一滴の墨汁が、波打ちながら広がっている。


 ……やれやれ。

 だけでこうなるんだったら、

 本番見たら、路上にダイブしてしまうわな。

 こんだけメンタル弱いのに、アイドルになんてなるって言うから。


 あのオトコの陰鬱な才気と粘り気は、

 この際、どうでもいい。


 藤原純一の彼女は、白川由奈だ。

 そして、いまの由奈に、

 俺が言うべきことは、たった一つしかない。


 

 「おめでとう。

  凄くよく頑張ってきたんだね。」

 

 

 息が止まる音だけが、耳朶に響く。

 委縮していた蕾が満開に開くような笑顔と、

 

 「純一君っ!!」

 

 梨香の残り香などなかったかのように、激しく抱き着いて来る由奈。

 堪えきれず再び溢れだした涙と、解かれた笑顔を胸の下に抱きながら、

 俺は、指通りのいい由奈の髪を撫で続けた。



*


 急がなければならない。

 原作はもう、はじまってしまった。

 崩壊へのカウントダウンは、俺が思ったより、ずっと早かったんだ。

 

 御崎さんの件を、じっくりやっている暇はない。

 奏太はもう、役に立たない。

 ここまで卑屈になってしまったのは計算外だが、

 もともと、原作でも結ばれようがない関係だった。


 一番近くにいたから、縁を結んでやろうと思ったのが間違いだった。

 人格の矯正なんて傲慢だ。無理なもんは無理だ。

 幼馴染で友達でバイト仲間だ。奏太とは、それだけでいい。


 にしても。

 

 「?」

 

 なんでこう無駄に可愛いんだろうな、コイツは……。

 目も二重でぱっちりとしてるし。

 

 あぁ……、

 コイツ、女に生まれれば幸せだった……のか?

 

 「どうしたの、純一。

  ボクの顔なんてじっと見て。」

 

 ……そういうのは気づくんだよな。

 って、そういえば。

 

 「お前、文月真美に会ったことあるか?」

 

 「ん?

  だれ、それ?」

 

 「あーと、ツインテールした背のちっちゃい子。

  御崎さんが家庭教師で教えてる筈なんだけど。」

 

 「んー?

  あー。あの子かぁ。

  ボク、苦手だな。」

 

 瞬殺。

 関心がないものにはまったく食指が動かないのは奏太らしい。

 が、いよいよ情報源としてまったく役に立たない。


 コイツは俺のお助けキャラじゃない。

 そういうものには、なりえっこない。

 原作でも、そうだったじゃないか。


 俺が、自分で、動かなければならない。

 迅速に。速やかに。適切に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る