あの日の悲劇をもう一度

@K_ishiyama

第1話 悪夢

「速報です。昨日※※国に突如現れ周囲の人々に襲いかかった謎の生物について、政府が声明を発表しました。政府によりますと、エニグマと名付けられたこの生物についての詳細は一切分かっておらず、引き続き当該政府との連携を密にしながら調査を続けていくとのことです」


 鳴海なるみ隼人はやとが何となしに眺めているテレビの奥で、アナウンサーが張り詰めた雰囲気を発していた。

 エニグマと呼ばれることになったらしいは、突然人間が変化したものだ。強靭な体を持つ上に襲われた人や動物までもエニグマ化させてしまうため、某国でエニグマ化が発生して以降、瞬く間に街一つを壊滅させ、今も殲滅には至っていないようだ。


「万が一エニグマ化が発生すると無差別に周囲の人間や動物に襲い掛かり、まるである種の感染症のように一気にエニグマ化が拡大していきます。※※国では邦人も巻き込まれたことが確認されており、その後の消息が途絶えています。もしエニグマ化した人を見かけても決して近付かず、すぐに警察と消防に連絡を——」


 テレビの音がブチッと途切れる。隼人が振り向くと、彼の母がリモコンを握り電源ボタンを押したところだった。昔気質な彼女が昼食のために電源を落としたのだ。


 エニグマの事件では既に占領されてしまった街を取り返すため、一師団まで持ち出す話すら出ているという。まるで物語のような話だ。

 現在世界を席巻する話題をまだ聞いていたかった隼人だが、母に文句を言っても無意味であることはこの十八年間で既に身に染みている。ここで反抗するほど彼は馬鹿ではなかった。


「隼人。あなた、これから出かけるんでしょう。夕飯までには帰ってきなさいよ」

「分かってるよ。——ごちそうさま」


 いつもの母の小言を聞き流し、手早く昼食を済ませて家を出た隼人。こんな時勢にも関わらず気をつけなさいの一言もない母は未だにエニグマを遠い世界のことと捉えているようだ、そう思った隼人だが、すぐに自分も人のことを言えないと思い直した。何せ隼人も、危機感の欠片もなくこれからデートに出かけるのだから。


 デートの相手は近所に住む同学年の水瀬みなせ早苗さなえ。高校入学時に出会ってから数ヶ月、猛アプローチを受けた隼人が恋に落ちるのはすぐだった。付き合い始めてからほぼ一年、それほど経っても倦怠期に陥る兆候はなく、我ながら仲良しカップルといえるのだろうと隼人は考えている。


 そそくさと家を出た隼人が待ち合わせ場所の公園に到着して少し、おっとりとした、悪く言えば少し気の抜けた雰囲気の少女がそこにやってきた。淡い色のワンピースを着た彼女が早苗、隼人の恋人である。


「隼人くん。ごめんね、待った?」

「今来たとこ。まだ時間前だから大丈夫だよ」

「ふふ、ありがと」


 早苗の柔らかな笑みに心が和らいでいくのを隼人は感じた。自然と笑みが溢れ、それを見た早苗も嬉しそうに再び微笑む。


「ねぇ、隼人くん。楽しみだね」

「……そうだね」


 デートの恒例とも言えるこのやり取りを済ませた彼らは手を繋ぎ、例の如く他愛ない話をしながら駅に向けて歩き出す。


 ——それが、今までのデートであったならば。


「エニグマだ! 逃げろ!」


 その声に隼人が振り返ると、先ほどまで遊具で遊んでいた子供が一人もがき苦しんでいた。顔を手で覆って呻き声を上げるその手が、顔が異形と化していく。爪は伸び、鋭くまるで悪魔のように。口は裂けて三日月のように。

 そう、ニュースによれば、この後に起こるのは——エニグマ化。


 その思考が纏まると同時、エニグマの顔が不気味な笑みに包まれた。まず被害にあったのは最も近くにいた子供の親、次は別の子供だった。瞬く間に襲われ、その顔が絶望に染まる。

 目の前で異形と化していく多くの人々。それを見ても、隼人と早苗は何もできなかった。呆然と立ち竦む彼らに異形が迫り、その口を開け————


 隼人は横から突き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。


「ア゛ア゛ッ!」


 恋人が苦しむ様を隼人は呆然と眺めるしかできなかった。噛みつかれた肩を抑えて仰け反った早苗。徐々にその小さな手で覆いきれなくなるほど変色が広がっていく。


「逃げ、て…………」


 その言葉を最後に、早苗の言葉は途絶えた。綺麗に切り揃えられていた爪が釘よりも鋭く、輝いていた瞳孔から光が消えていく。


 そしてとうとう早苗はその腕を大きく振りかぶり、隼人に向かって————




 隼人は飛び起きた。全身がじっとりと汗ばみ、頬には一筋の涙も伝っている。


「夢、か……」


 自身に言い聞かせるように声に出す。

 隼人がこの夢を見たのは一度や二度ではない。隼人の生活が百八十度変わったあの日の夢。立ちすくんでいた自分の身代わりとなった恋人がエニグマと化し、自分だけが生き残ったあの時の記憶。あれから半年以上が経った今でも、忘れることはできなかった。


 世界は、一瞬で崩壊した。初めは多少抵抗していた人類も、一月ひとつきと経たずエニグマに押され始め、生活圏を奪われた。エニグマに一人倒されれば次はその人がエニグマとなり人を襲う。理性を完全に失くしていても、家族や友人だったを殺さなければならないことは、着実に人類の心を蝕んでいった。

 エニグマ化は人間以外にも起こった。市街地に住む野生動物やペット、田舎では森から元は動物だったエニグマが溢れ、次々と街を飲み込んでいった。

 街は荒れ、法は意味を成さず、国家は滅亡した。運よく生き残った人々が塀を築き、安全圏を作るまでに人類の過半がエニグマと化した。


 それまでに人類が知り得たことは大きく三つ。

 一つ、エニグマ化は突然起こるものと襲われて起こるものの二つがあること。

 一つ、エニグマとなると肉体は強靭となるが知能は低下すること。

 ……そして一つ、エニグマが現れると同時に特殊能力を得た、少年少女が存在すること。

 救世者、メシアと名付けられた彼ら彼女らは人類の安全圏構築に大きく貢献し、あれから半年以上が経った今でもエニグマ討伐の最前線を担っている。


 ベッドから体を起こした隼人の頭に、あの時エニグマ化した早苗から自分を救った男の言葉がフラッシュバックする。


「テメェに惚れてる女に、テメェを殺させる気かっ!」


 何の因果か、隼人にも特殊能力、異能が備わっている。異能の名前は操水そうすい、あらゆる液体を操る強力な異能。これを武器に隼人は今日もエニグマの征伐に赴くのだ。

 あの時の悲劇を、二度と繰り返さないために。

 苦しみ、もがきながら変わり果てた姿になっていく早苗を呆然と見つめていた自分と決別して。




 ……今度こそ、大切な人を守り抜くために。

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