彼女との「一章」

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 なんの変哲もない、いつもの放課後。俺は毎日のように図書室に入り浸っていた。誰もいないこの部屋は俺だけの空間で、遠くから聞こえてくる野球部の声と、廊下の奥から流れる吹奏楽部の演奏だけがかすかに人を感じさせる。


 もはや習慣どころか習性となった読書。親指のチカラを緩めると、ページがカーテンと共鳴しハラリと揺れる。春風に運ばれて桜の花びらが机に落ちる。


 ふとその花弁の横にあるプリントに視線が動く。「大学希望アンケート」終礼で渡された未来への片道切符は、行き先不明でどこの駅に繋がってるか分からない無茶振りっぷり。


 文理選択も終わり、いっそう大学を意識し始めた学校は、まだ人生の四分の一にすら差し掛かっていない俺たちに無理難題を押し付けてくる。


 氷室ひむろ れんと、名前だけ書いたプリントを見ながらため息をついた。


 アンケート用紙から視線を逸らすと視界に猫のキーホルダーがついた学生鞄が視界に入った。俺は気に求めずに本に視線を戻し、読書を再開する。文字を追うごとに彩る景色、図書室が戦場にも舞台にも宇宙にもなる。改めて本の素晴らしさを実感する。


「ねえ、君って氷室 あおいさんの息子だよね?」


 突然の声かけに現実に引き戻される。驚きつつ顔を上げると、前屈みになってこちらを覗き込む少女の姿があった。さっきの学生鞄はこの人の物らしい。


「そうだけど、君は?」


 驚きを隠しながら努めて冷静に返す。丸メガネのレンズ越しに薄墨うすずみ色の瞳が光る。


「私は綾波あやなみ しおり、綾波のあやに綾波の波、綾波栞の栞だよ」


 明るいトーンの声でほんのり甘い匂いを漂わせながら、彼女はべーっと舌を出す。ちょっと腹立つな。


「俺は氷室 蓮、虎尾春氷こびしゅんぴょうぴょう芝蘭之室しらんのしつ しつ泥中之蓮でいちゅうのはすはすだ」


 俺の渾身の自己紹介に綾波さんはうわぁ……と距離をとる。やってることは変わらないはずなんですが。


「それで氷室ぴょうしつくん」


「誰だよそいつ」


 俺の割り込みを「ふふっ」と笑い飛ばして続ける。細いが大きな瞳が特徴的な目と、高く聳え立つ鼻立ち、桃色の唇にお淑やかな胸。見た目だけで言うなら第一印象はおとなしい子と言った感じだ。


「お願いがあるんだけどいい?」


「無理」


「ありがと! 氷室くんのお父さんに合わせて欲しいの!」


 会話が成立しないタイプの人間だ。俺は閉じていた本を机に置き、綾波さんと向き合う姿勢をとった。丁重にお断りさせていただく。


 俺の意思を受け取ったのか綾波さんも背筋を伸ばした。お父さんに会いたいという一見ぶっ飛んだお願い。ただ俺から言わせて見ればもう何回このお願いをされたか分からない。そして、毎度のようにこう答える。


「父さんには合わせられない。理由は俺が嫌だから」


 俺の父さんは超が五つは付くほどの有名小説家。ペンネームを知らない人は滅多にいないほど名が知られている。


 父さんに合わせて欲しいという人は少なからずいる。俺は物心ついた時からそうだったし、それが嫌だったので公表はしていない。だから本来、綾波さんはそれを知らないはず。


「どうして俺の父さんのこと知ってるんだ?」


「知らない人いないでしょ。初版は数日で売り切れ、今や三十作越えの超ベテラン作家じゃん」


「そうじゃなく、なんで子供が俺って?」


 父さんを大々的に褒められ、照れながらも本来の質問をする。綾波さんは手を顎に当てている。あざと可愛いって感じがする。


「勘かな? 氷室って苗字少ないから賭けって言った方が正しいかも」


 綾波さんは俺に賭けで話しかけてきたってことか? 俺は呆れのあまり「は?」と疑問符が口から漏れる。


「で、そんな賭けをしてまで俺の父さんに会いたかったの?」


「そう言うこと、賭けに勝ったと言うことでお願い! この通り!」


 机に置いていた俺の手に白い手が差し伸べられる。細くて品のある指、薄ピンクの手のひらに、触れば折れてしまいそうなほど薄い爪がそっと手に触れる。


「どの通りだよ」


 手を引っ込めてツッコませてもらう。変に上がった心拍数を抑えながら改めて綾波さんを見た。


 やはりと言うべきか、サラサラで艶のある黒色の髪の毛、入洞色の白みがかった肌は水のように透き通っていて、同じ生物か疑いたくなるほどだ。


 整えられたまつ毛は大人しさを感じさせるし、奥まで澄んだ大きな瞳は無邪気さを醸し出している。


 俺の手のひらで覆えそうなほど小顔でメガネでも美貌が隠しきれていない。


「そんなマジマジと見ないの」


 思った以上に見惚れてしまって変態にしか言われないタイプの注意を受ける。頬を赤ながら照れる綾波さんはモデル顔負けと言っても過言じゃない。


「ダメ?」


 綾波さんの上目遣いに俺は沈黙を選択する。反応が変わったせいか押せば倒れると踏んだ綾波さんは後押しのようにパンっと手を合わせる。


「一生のお願い!」


「それはもっと仲のいい奴に使う言葉だ」


「だねっ」


 柔らかくはにかむ彼女のレンズ越しに見える瞳が、どこが暗く感じたのは気のせいだろうか。彼女は今も綺麗な瞳で俺を見つめ続けている。


「綾波さんは父さんのファンなの?」


「ファン……そうだね、熱狂的な大ファンかな? 全作何回も読み直したし!」


 父さんの作品の中身を思い出しているのか今にも回想が始まりそうな顔を横目に、本当に父さんと合わせていいのか吟味する。


 小説家さんはナーバスな人が多いと聞くが、父さんは至って普通だと思う。でも、読者とは一定の距離を保ちたがっているのは知っている。


 この手のお願いは基本断るようにしているのだが、綾波さんはどこか違う気がした。そんな第六感とすらも呼べない勘が余計に悩ませる。


 目を瞑って懇願する女性を前に、きっぱり断れる心を持ち合わせていなかった。


「まあ、いいよ。話はしてみる」


「やった! これでこの世に未練は無いよ!」


「大袈裟な……」


 立ち上がったかと思えば、俺の声と同時に着席する。案外賑やかな人なのかもしれない。


「大袈裟かどうかは氷室くんが決めることじゃないね。でも本当にありがとっ、夢が叶うよ」


「はいはい、でも期待はするなよ。まだ決まったわけじゃないんだから」


 俺がかけた保険に、綾波さんは「はーい」と小学生みたいな返事をした後、にっこりと笑顔を向けた。お淑やかに上がった口角が心臓のリズムを上げる。


「そうだ、氷室くんって、人はいつ死ぬと思う?」


 思い出したように質問してくるが、脈絡がない上に初対面に聞くことじゃない。


「難しい話するな……普通に自分の意思で動くことが出来なくなったらじゃないか?」


 脳死や植物状態を死と捉えるかは人それぞれだろうけど、そこまで細かく答えなくてもいいだろう。


「ふーん、そっかそっか。やっぱりそうだよねー」


 妙に納得した顔をしながら、綾波さんは本を開く。この人会話広げないタイプだ。あの質問で続く話ないことってあるんだな。


 俺も読んでいた本を手に取り、読書を再開する。もう二度か三度読んだ物語なので走り読みせずゆっくりと視線を動かす。それと一体化したように時間もゆっくりと流れている気がした。


 俺の正面一つ左の席についた綾波さんは、白い指でページの上を可憐に滑らせる。比喩するなら白鳥の舞とでも言うべきだろうか。ガン見するのは悪いと思っていても、眺めてしまう。


 キーンコーンカーンコーン––––


 校舎に鳴り響くチャイム。グラウンドでは野球部が最後の挨拶をしている。俺も本をカバンにしまい、綾波さんに軽い会釈をしながら図書室から出た。


 もう大半が下校し終えた廊下はどこか寂しげで、日中のうざったい騒ぎ声も物悲しい。まだ空は青く、日が地に着く前には帰れそうだ。門を抜けるとより一層風が強くなる。


 前には中学生の男子が横一列になってゆっくりと喋りながら歩いている。遅いな、なんて恨みながらも、追い越すことはせずついていく。


 中学生の時も俺はだいたい1人だったな。本を読んで、本を読んで、気晴らしに走って、また本を読む。そんな私的にはこれ以上ない日々だったはずだ。


「あっ、氷室くんもこっちなんだ」


 振り返ると綾波さんが空をバックに手を振っている。どうやら止まれと言うことらしい。


「うん、俺はこっち。綾波さんも?」


「そうだよ。地下鉄ですぐそこなんだ」


 「へー」と相槌を打ち、止めた足を進め始める。さっきのような最低限の会話。これくらいの方が俺は楽でいい。変に気も使わなくて済む。


れいさんってどんな感じで小説書いてるの?」


 冷さんとは父さんのことでペンネームは如月きさらぎ れいである。本名も調べたら出てくるが世間一般では如月冷で通っている。つまり、本名が氷室 葵なのは知る人ぞ知るということだ。


「どうだろ、出版社に通うこともあれば家で書いてることもあるかな。カフェとかで書くようなタイプではないけど」


「そんな感じするねー」


 斜め上を見ながら噛み締めるように反芻はんすうしている。これだけ思ってもらえるなら答えた側としても嬉しい限りだ。


「すごい楽しみ。どんな質問しよっかなー」


「まだ会えるって決まったわけじゃないからな」


「それを通すのが氷室くんの仕事でしょー」


 父さんと会えないという不安は無いように見える。もしかしたら会えるまで毎日アタックされるかもしれない。綾波さんなら本当にやりかねないな。まだ会って数時間だけど。


「はいはい……」


 適当な返事。会話と言うのも烏滸がましいが、綾波さんと話しているといつのまにか中学生の足の遅さも気にならなくなっていた。


 その後は2人、無言で歩く。一方的にそう感じているだけかも知れないが、気まずさは無かった。気づけば駅に着いていて、成り行きで同じ車両に入る。


 帰宅ラッシュの前兆か空いてる席は一つしかない。席を譲り、吊り革を掴む。綾波さんはカバンを膝に置き、本を読み始めた。


 俺はまたも無意識に見惚れてしまう。長くて細いまつ毛に整った鼻筋、苗字のように綺麗に流れる黒髪。


 ただ、一つ。俺と会話していた時とは違う印象があるとするなら、綾波さんの文字を追う瞳の奥に、悲しさと切なさがあった気がした。


「ばいばいっ、しっかり聞いといてよね」


 念押しには小さく手を振ることで応じ、まだ温もりのある一つの空席に目をやった。俺の駅はここから三駅ほど。


 実在しない誰かの視線を気にしたのか、高校生特有の自意識が発動したのかは分からないが、俺は吊り革に掴まりながら家に帰るのだった。





「父さん、今日話した子に父さんのファンがいるんだけど会いたいって言ったら相手してくれる?」


 質素なリビングの戸棚からマグカップを取り出しながら父さんにさりげなく聞く。


「どうした?蓮はそう言うの嫌いだっただろ?」


「そうなんだけど……」


 父さんにコーヒーをれつつ首を縦に振る。でも約束は約束だ。ダメもとで話ぐらいはしてやろう。


「俺は別にいいけど、常識的な子なんだろうな?」


 同じ学校の父親に会いたいなんて言う奴が常識的であってたまるか、と言いたいところだが、ここでそれを否定して仕舞えば話は終わってしまう。


「それなりにはあると思う」


「そうか、蓮がそこまで言うならいいぞ。今回だけだけどな。なんか心変わりがあったのか?」


 いつもなら絶対にそんな話をしない俺に疑問を持ったのだろう。覗き込むように聞いてくる父さんにコーヒーを渡して牽制する。


「別に……なんでもない」


「そうか、なんかあればまた母さん呼ぶからな」


「アレも別に何も無いんだって」


 俺が少しでも落ち込んでいる気がしたら父さんは母、つまり俺のおばあちゃんを家に呼ぶ。理由はよく分からない。父さんなりの気遣いなのだろう。


 とりあえず許可は貰ったのでミッションクリアだ。これで綾波さんに……あの人は一体何組なのだろうか?学年すら知らない。ここに来て人を知ろうとしない癖が出てしまった。


 明日聞けばいいだろうとそう思い、コーヒーパウダーの入ったカップを閉じる。しかし、次に彼女に会えたのは、2週間以上後の事だった。

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