妖怪・乳つつき
mimiyaみみや
第1話
夜の川端は黒く、街から沈みこんでいた。その中、ひときわ背の高い藪の中に、乳つつきは蹲っていた。警察犬に噛まれた右足の傷が熱く痛む。こういうときは、目を閉じじっと息を潜めるに限る。野犬に嗅ぎつけられないことを、あるいは人間に見つからないことを願って、彼は目を閉じた。
朝日が瞼を刺し、乳つつきは自分の生を知った。傷はまだ癒えない。今日は雨風をしのげるもっと安全な場所を探そう。かすかに呻いて、体を起こした。手の平で目やにを拭い、目を開く。視点が定まるのを待つ。
「あ、起きた」
少女が己を見下ろしていた。どこか生意気そうな黒い眉と大きな目の少女だ。乳つつきは自身の性に従い、少女の乳をつつこうとした。しかし右足に激痛が走り、再び蹲った。
「足、怪我しとるんやろ?」
少女のぶっきらぼうな問いに、乳つつきはこっくりと頷いた。「やっぱね」少女は鼻で笑ってそのまま去っていった。じきに大人がやってきて、棒で打たれるだろう。それで済めばよいが、野蛮な警官に見つかると、連れて行かれ、火あぶりとなろう。着重ねた衣服は垢と混じるうちに肌と癒着していた。枯れた己の体は良く燃えよう。いずれにせよこの足では、進むも退くもどうにもできぬ。しばらく寝るとしよう。
次に目を覚ますと、先程の少女が傍らでパンを食べていた。少女は上質なウールのワンピースを纏っていたが、気にする様子もなく湿った草の上に腰を下ろしていた。
「起きた?」
乳つつきが体を起こすと、少女はパンをちぎって乳つつきの手に握らせた。「ミルクもあるよ」と白濁した液体の入った瓶を顎で指す
乳つつきはミルクを一息に飲み込み、パンを貪った。少女は目を丸くしてその様子を見ていたが、乳つつきが食べ終わり、げっぷを一つすると、大きな目を糸のように細めてけらけら笑った。
「おなか空いとるっちゃろ? マリの分も食べていいけん」
マリ。乳つつきは少女の名を脳内で反芻した。
「あんさ、ここマリの秘密の場所やのに知らん人おって、マジビビったけん。まあでも、マリ優しいけんさ、許しちゃるよ。ここ夜は結構寒いやん? やけんもう一個の秘密の場所に連れてってあげる」
得意げに語る少女の言葉の意味を理解するのに、しばらく時間がかかった。
その日、乳つつきは古い鉄橋の下に居場所を移した。
次の日も、次の日も少女は乳つつきの元にやってきた。パンの他に、スープや果物を持ってくることもあった。ときには貴重な香辛料を使った肉料理もあった。少女には温かな家があるのだろう。多くの人間に守られ、不幸という言葉の意味など知らないのだろう。乳つつきは少女に僅かな興味を持った。
薬草を揉んだ湿布を何度か交換するうちに、足はすっかり良くなっていた。明日の夕暮れにはまた吹き抜ける風となって消えよう。
その日の夕刻、少女はなかなか帰ろうとしなかった。乳つつきのそばで執拗に髪をといていた。
「見て! マリの髪めっちゃ綺麗やない? 昔ママがさ、マリの髪は世界一綺麗ねって言ってくれたんよね。めちゃくちゃ不幸なことあってもさ、世界一のもの持っとったら許せるやん?」
少女の発した不幸という言葉の軽さに、乳つつきはニヤリと笑った。
「ねえ、オジサンさ、世界一のものある?」
乳つつきは自分が笑えることに戸惑い、少女の言葉にすぐに反応できなかった。
「なかったらさ、マリを世界一大事にしてくれる人になれば?」
少女はふざけた調子でそう言うと、自分の言葉におかしくなったのか、声を上げて笑った。そして土手を上って薄暗い街に消えた。乳つつきは、自分が人間ではないことを知ったら少女は同じことを言わないだろうと思った。彼女の無邪気な笑い声がいつまでも耳に残っていた。
次の日の夕暮れ、乳つつきはすっかり良くなった足で土手を上った。街の人は、彼のことを黒煙を吐き出す車ほどにも気に留めなかった。石畳の淵に足の指を掛け、それから風のように走りだした。途中すれ違う女性の乳をつつきながら走る、走る、走る。乳をつつかれた女性の短い悲鳴は、彼の起こす風に消えた。乳つつきは乳つつきであることに満足し、街の外れまで一気に走り抜けた。
夜の始まりのこの時間、道には娼婦が並び立ち、つつく乳には困らなかった。途中で乳つつきは立ち止まり、胸いっぱいに息を吸い込んだ。吐き溜めのような湿った空気が乳つつきは好きだった。
別れを惜しんできた道を振り返り、闇の中で膝を抱えしばらく往来を眺めていた。暗い街頭の下に並ぶ娼婦たちは皆、家族を殺されるか家族に捨てられた女たちだ。酔った男が女を品定めをし、廃ビルに連れ込むのを乳つつきはじっと見つめていた。
若い女は男たちから次から次に声をかけられるが、より若い女が次から次にここへ流れ込んでくるのを乳つつきは知っている。
ひとつのビルから女が出てきた。その女は暗い道の中で輝いて見えた。生意気そうな黒い眉に大きな目。普段と違い真っ赤な口紅を引いている。女は男に肩を抱かれていた。でっぷり太ったその男はこの街の警官である。女は慣れた様子で金を受け取り警官の赤らんだ頬に唇を押し付けた。警官が離れるとすぐにカイゼル髭の男が女に声をかけた。乳つつきは立ち上がった。不意に女と目が合う。女は目を見開き駆け寄ろうとする。カイゼル髭の男が女の世界一美しい髪を掴む。女がそれを振り払うと髭の男は女を後ろから蹴り飛ばし、唾を吐いて去った。
乳つつきは倒れた女に歩み寄った。頭を撫で、顔を上げさせる。つんと尖った鼻先を擦り剥いた女は、体を震わせ嗚咽を漏らし泣き出した。乳つつきは女の頬の透明な産毛が涙に濡れるのを眺めていた。
「もう不幸は嫌やん」
女が泣きながら、拗ねたように言った。
乳つつきは体の内側から湧き起こる衝動に身を任せ、両手を女の首にかけ力を込めた。女は事切れる寸前に、乳つつきの乳に微かに触れた。
乳つつきのつつくべき乳はもうどこにもなかった。
娼婦が通り魔に殺されたというニュースは、人々の関心を惹くこともなく流れ去った。
妖怪から人間に堕ちた男は、今も街に生きている。
妖怪・乳つつき mimiyaみみや @mimiya03
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