酒場にて

mimiyaみみや

第1話

 厚い扉を押し開けて、男が一人入ってきた。身なりの整った初老の男。革靴の底に打ち付けたスティールで板張りの床を鳴らしカウンターの端に座る。カウンターテーブルの中程には飲み終えたグラスがありノートが広げられていた。椅子にはトレンチコートが掛かっている。誰も座っていないが、トイレの小窓から灯りが漏れている。先客がいるらしい。

「何を飲ませてるんだ?」

 置いてあるグラスを顎でしゃくり、カウンターの内側に座る店主に声をかける。店主は薄暗い店内にも関わらず、濃い色眼鏡をかけていた。

「ただのアイスティーさ」

「タダとはずいぶん気前がいい」

「若者へのサービスだ」

 若い男がトイレから戻ってきて憤然と「お会計」と言った。


「悪いな、貴重な客を追い出しちまって」

「いいさ。どうせもう来ない。どこで聞いたか『ここでは本物の酒を出すんでしょ』なんてにやついた顔で耳打ちしてきやがる客だ」

「出すのか? 『本物の酒』」

 男は喉の奥でくつくつと笑った。

「禁酒法を知らんのか?」

 店主も口の端で笑う。

「もう十年か」

「あんたが来なくなってからも、な。」

「仕事でな。酒、あるんだろ?」

「もう入れてある」

 店主がカウンターに置いた比重の小さいその液体を口元に近づけるとアルコールが鼻を刺す。男は舐めるようにちびりちびりとやり始めた。

「まずいな」

「『本物の酒』はとっくに尽きてるからな」

「酔えるならなんでもいいさ」

「いつ戻ってきたんだ?」

「先月だ」

「仕事はもういいのか?」

「会社を追い出されてな」

「乾杯しよう」

 

 かかっていたジャズトラックに聞き入っていたが、やがてそれも終わる。

「なにか聞くかい?」

「後ろの単車、まだ動くのか?」

 男の後ろには中型のバイクが飾られていた。

「動く。動くが走らせる人間がいない」

「エンジン音を聞かせてくれ」

「物好きなやつだ」

 店主は店の奥からホースを引っ張り出し、燃料を入れ始めた。

「最近いつ動かした?」

「昨夜だ。毎晩店じまいと共に燃料を入れ、しばらくフカした後に燃料を抜く」

「物好きだな」

 店主の動きに淀みはなかったが、ホースに空いた小さな穴から燃料が流れ出していることに気づいた様子はなかった。男は店主の色眼鏡を見る。視力はどの程度残っているのだろうか。揮発したアルコール臭が店に漂っていた。

 店主がエンジンをかけると、ブルルン、ル、ル、ル、ルと小気味良い振動が伝わってきた。

「燃料はなにを使ってるんだ?」

「酒と同じさ。混ぜもんばっかのまずいもんを食わせている」

「ガソリン車なんて、今では余程の金持ちしか持てねえが、需要はある。売れば高いぞ」

「しかもこれはカワサキの銘品プーカだ。オークションにかけりゃ死人がでる」

「墓に持ってくつもりか」

「ああ、棺に入れてくれ」

「燃えねえよ」

「俺は、よく燃えるだろうな」

「俺たちは血管をアルコールが流れてるからな」

「いや、俺はお前と違ってずいぶん枯れた。店の床や柱と一緒だ。アルコールが染みて、それが抜けて、中からスカスカになっちまった。骨や内臓がな」

 先程溢れたバイクの燃料は、蒸発したのか染み込んだのか、すっかり見えなくなっていた。

「脳味噌だけはマシみたいだな」

「酒で常に満たされてるからな」

 店主は自分のグラスに二杯目を入れた。燃料ホースとよく似たホースで液体を注いでいる。男もグラスの中身を煽り、注いでもらう。

「タバコはあるかい」

「やめたはずだろ?」

「やめたさ。だが、ここに来ると吸いたくなった」

「まずいぞ」

「この店の理念は『お客様の満足の為に』じゃなかったか?」

「昔の話だ」

 そう言って差し出された紙巻とライターを受け取る。

「麻の葉っぱはもうやってないのか?」

「今はリネンなんてねぇよ·····」

「·····だからって化繊を入れてねぇだろうな?」

「よく燃えるぞ」

 男はライターを握る。その手は酒に震えている。手首に筋が浮かび、着火スイッチに力を込めた。

 咥えた紙巻でライターの火を吸う。


 男がこの店に初めてきたのは大学生の時だった。自分のことは棚に上げ、やけに若い店主だと思った。男は合コンで知り合った女を連れていた。店主はなにも言わずとも、男の酒を薄めに、女の酒を濃いめに出した。

 この店に通うようになって、常連と話すようになった。そして様々な裏メニューがあることを知った。タバコに追加するハーブやシュガー、酒に追加するアイやパイン、エム、エル。アサガオと名付けられたカクテル。スモークバナナチップス。その他合法違法を問わず時代に合わせた様々な薬物。

 ハイになったりローになったり、あるいは連れを眠らせたり。男は週のうちに何度もこの店に通い、隣に建つモーテルに女を連れ込んだ。

 一流と言われる企業に就職してこの街を離れるまで、その生活は続いた。


 タバコの火が指を焼いて、男は我に返った。

「マスター、ハーブ入れただろ?」

 火を揉み消しながらそう尋ねた。

「いや、タバコと裏に生えてた野草を混ぜてあるが」

「変なものを吸ったせいで飛んじまった。昔の夢を見たよ。楽しかった時代のさ」

「マッチ売りの少女はマッチ売りの少女だから話になるんだぜ」

「タバコ飲みの爺さんってのも寓意があると思わないか?」

 男は震える手でグラスを掴もうとし、倒してしまった。店内のアルコール臭が一層強くなる。ハンカチでその酒を拭い、次にすぐ隣の小窓を拭いた。長年積もったヤニや汚れで見えなかった外が、ぼんやりと見えるようになる。半地下にあるこの店からは往来の足元だけが見える。当時のモーテルはもうない。

「おまえが来なくなってすぐ、カラオケ屋になったが、今は立体駐車場だ。カラオケ屋でも、駐車場でも女を連れ込むには困らないが、今はそんな男はいなくなっちまった」

 

 突然店内が静まり返った。バイクのエンジン音が消えていた。店主は一度だけエンジンをかけようとしたが、徒労に終わった。

「寿命だ」

「バッテリーのか?」

「バイクの、だよ」

「そうか」

「先に死んじまうなんて考えもしなかった」

「一緒に焼いてやるよ」

「ああ。この店が棺だ」

 男はグラスに新しい酒を注いでもらい、店主と何度目かの乾杯をした。

「この店も俺も、よく燃えるだろうな」

 そう言ったきり店主は黙った。カウンターの内側の椅子に腰掛け、深く目を閉じていた。昔の夢を見ているのか死んでいるのか。

 男はゆっくりと店内を見渡した。満たしていたものが抜けてスカスカになった床や柱。店主。男はかつての職場や家族を想った。

「俺もよく燃えるだろうよ」

 男は独りごち、タバコを咥え、火をつけた。煙を大きく吸い込み、目を閉じる。

 火のついたタバコは吸わずとも時間とともに短くなる。

 長く伸びた灰が傾いだ。

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酒場にて mimiyaみみや @mimiya03

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