僕の奇妙な冒険
浅里絋太
父のこと
父のこと 前編
父の命日である八月十四日の付近になると、夢の中に父が出てきたものだ。
いや、父が出てくると、命日のことを思い出した。そっちかもしれない。
僕の父は、僕が高校二年生のときに亡くなった。
「物置に、小石載せた?」
と、ある土曜日の朝に母が言った。
母は若かった。いまでは白内障を患った老婆だが、当時は若かった。人生の時間というものは、本当に残酷で不思議で、優しくもある。
――物置の小石。
僕の家の脇には、アルミ製でベージュ色の、高さ一メートルくらいの物置が置かれていた。
そこに、前日と翌日と、二日続けて小石がひと握りぶん、置かれていたらしい。
それに、鳥のふんが妙に多く落ちていたらしい。
僕は「しらないよ、そんなの」と答えた。僕のクソ親父は、仕事が休みで、趣味の海遊びにいく支度をしていた。僕は反抗期だったからか、「行ってくるでなァ」という父に対して、ただ、あいまいに、ああ、などと答えて、高校に向かった。
この日だ。
このときだ。
父と最後に言葉を交わしたのは。
ある瞬間に人生の潮目が変わる。
宿命には、だれも抗うことはできない。
死体が運ばれてきたのは、午後三時半くらいだった。
その日、授業は午前で終わりで、僕は居間でテレビを観ていた。
電話がかかってきたのはそのときだ。
「お父さんが、海で溺れたの。ヨットで……」
それは、地元の総合病院にいた母からだ。
僕は電話を切り、テレビに戻った。クソ親父が邪魔すんなよ、くらいに思って。
そのあとまた、電話があり、父が息を引き取ったことをしった。
僕はぽかんとして、またテレビを見はじめた。
やがて、車がきて、家のドアが騒々しく開いて、叔父さんがきた。
「おい! なにやっとるだ! お父さん、ここに運ぶで、片付けろや」
そう言って、また戻っていった。
僕は立ち上がって、テレビを消して、ソファに座った。
二人の叔父さんが、重たそうな白い布団を両端で持って、乗り込んできた。救急隊員みたいに。状況が逆だが。死人を運んできているわけで。
布団には父がふてぶてしい顔で寝ていた。顔や体が白かった。
僕は震える体を動かすことができず、父の顔を見つめていた。父の鼻に、綿みたいなものが詰まっていた。水死だから水が出てくるのか。わからない。全体的に膨れている感じがした。
叔父さんがどなっていたが、話の内容はなにも記憶にない。
通夜をした。
僕はずっと泣かなかった。
その日の夜、僕は静かな居間で受話器をとった。父のことを高校の先生に報告すべきだと思ったからだ。
いつもの、男性教師の声がして、僕は声を出そうとした。
父が……。
から、言葉が出てこなかった。不思議なことだ。
心や脳が、現実を拒んでいた。
死んだ、と言えない。どうしても喉や口が動いてくれない。
僕はへらへらと笑って、あのですね、と言葉を継いだ。
先生が「結局なんなんだ」と言った。
僕はついに言った。
涙というものは、体を支配するためにあるのかもしれない。喋るには涙が必要だった。
僕は父が死んでから、はじめて泣いた。
涙を流しながら、振り絞って、「父が、水の事故で、死んじゃいました。先生……」
先生はしばらく黙り、やがて、いちど、僕の名を呼んでからこう言った。
「なにか力になれることがあったら、必ず言ってくれ」
葬式をして、線香のにおいの染み付く生活を経て、少しずつ、僕は父の死を理解していった。
父の死とは、ダメな、クソ親父の、最後のクソ行為だった。
いつか殴ってやろうと思っていたのに。それは叶わなかった。
父が浮気をし、隠し子がいるのは、僕はしっていた。それだからこそ、僕は父を憎み、蔑んでいた。そんなやつのために、なんで泣けるのかが、しばらくわからなかった。
父が水の中で窒息してゆく時間が、短かったらよかったな、と思った。そうしたら、苦しむ時間もわずかだったはずだ。
少しだけ、父のことを可哀想に思った。
線香のにおいの日々において、ふと、泣けてくるときがあるとしたら、父が水に沈む中での、苦しみのことだった。苦しかったかい? と遺影に聞くが、その遺影を見ると、僕は、こいつは死んで当然のやつだな、と思った。
この死には、奇異なことが絡んでいた。
もちろん、物置に落ちた小石についても奇妙だが、それ以外にもある。
因縁というものは、どこからはじまっているのだろう?
ずっと昔から……。あるいは、生まれる前から……。
少なくとも、この一連のできごとには、大工であった父の、ある仕事の現場が絡んでいた。
人は呪いや祟りで死にうる。
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