恋愛の医学

みしょうかん。

Rp.1・新日常

「ささっち、ウェーッス」


元気あふれる女の子の声とともに、後方から駆け足で近付く音がする。

返事をするより早く、背中にドーン、という衝撃をくらう。

「ぐはっ」

ささっちと呼ばれたこの男は佐々岡大樹(ささおか・ひろき)。朋学館高校の2年生である。別にいじめられているわけではない。これは少し元気が有り余っている女子の、いつもの挨拶なのだ。

だが彼の体躯は3メートルほど吹っ飛ばされ、カベに激突する。


「か、かんにん、ささっち!大丈夫?」

タックルをかました女の子の心配そうな声、そして救急車のサイレン……


ピピピピ…ピピピピ…ピピピ。


「朝か…」

彼は枕もとの目覚まし時計のアラームを止め、目をこする。

「なんか色々ごちゃ混ぜの夢だったな…」

ゴールデンウィーク直前の月曜日。ワクワクとブルーの入り混じった感情が、こんな夢を見せたのだろうか。

先日、似たような出来事はあった。しかしその時、彼は何とか踏みとどまり、別にケガもしていなかった。

激突してきた茶髪ショートカット女子の名は、水槇みずまきのえる。同級生で、バレーボール部の副キャプテンだ。美少女と言えなくもない風貌ながら、「万年ジャージ女」の異名があり、まるで色気はない。だが、その中性的な風貌のためか、女子からは「王子様」と呼ばれ、ファンクラブまで設立されているようだ。付け加えると大樹と互角の体格を誇っている。ケンカになったら負けるかも知れない。しないけど。


「おはよう、大樹。今日は起こされんでも自分で起きたとね。毎朝そげんやったら母さんも楽でよかよー」

朝からご機嫌なのは彼の母親・佐々岡浩美。お聞きの通り、九州は福岡の下町出身である。

「おはよう母さん。父さんは?」

寝ぼけ眼で大樹は尋ねる。

「それが昨日呼び出されて、そのまま帰ってきとらんと。ほんごと、忙し過ぎばい」

心配げに母はかぶりを振った。


「じゃ、行ってきまーす」

家を出て、彼の高校までは徒歩で15分といったところだ。いつもの月曜とは違ってGWが近いせいか、足取りは軽い。いや、やはり最大の要因は新しい友人たちが増えたことだろう。きっかけは単なる人違いなのだが、元気少女・のえるも実は、新たな仲間の一人だ。

「おおっす、佐々岡」「おはよう大橋」

自転車で追い抜いて行くクラスメイトに挨拶を返す。校門はもうすぐだ。

校門を入ってすぐに、後方から元気な足音が近づいてきた。


「ささっち、おっはよー!!」


あわてず、騒がず。大丈夫。シミュレーションは万全だ。大樹は落ち着きはらって迎撃態勢を整える。全身の力を抜き、柳の如く衝撃を受け流す…


ポンッ!


「!?」

だが、背中に受けたその衝撃は、想定していたものの百分の1、いや、千分の1に満たなかった。大樹は驚愕した。確かに昨日の日曜日、なまった筋力を取り戻すべく、久々に室内プールで泳いだのだが、その効果がここまでのものだろうか。いや、ひょっとして、気付かぬうちに武術の才能が開花し、受け身の達人になっていたのか?

……それはともかく、まずは返事だ。

振り返ると、そこには制服を着た長身の美少女が、手のひらと優しい微笑を向けて立っているではないか。

「え…誰?」大樹は思わず尋ねた。

「は?うそ、忘れるとかないわ。えっ、それともウチ嫌われてる?」

「その声に喋り方は間違いなくのえるだよなぁ。なんで制服着てんの?」

もともと大阪出身の彼女は、ディープな関西弁で喋る。だが大樹の知っているのえるは「万年ジャージ女」だったはずだ。

「ささっちこそ何言うてん。制服着て学校に来るのは当たり前やん」

あきれ声でやれやれポーズをする。言われてみればその通りだ。

「おーす、お前ら、こんなとこで突っ立って喋ってたら邪魔でしゃあないぞ」

二人に声をかけてきたのは、もう一人の新たな友人、野球少年・樫井悠星かしいゆうせい。のえると同じ中学校出身であり、学校一のモテ男である。大樹は彼と後ろ姿が酷似しているため、しばしば間違われていた。ちなみに、のえるにやられたタックルもそれが原因だった。

「お、悠星、おはよう。いやだって、見てくれよ、これ」と、無遠慮ぶえんりょに少女を指し示す。

「ただののえるやん。あれ?なんで制服着てるんや」

二度見する悠星に、自分の感じた違和感は間違ってなかったと安心する大樹だった。

「なんや、もう、二人とも…ええやろ、最近は先生に後輩たちの悪い手本にならんようちゃんとせえ、いうて注意されんねん」何も悪いことはしていないのに、とぶつくさ言い訳がましい茶髪の少女であった。




「おはよう、佐々岡くん」

教室に入ると、すでに隣に座って予習を始めている勉強の鬼、もとい才媛さいえんの姿が目に入る。近寄りがたい雰囲気を持つクラス委員の宗方円むなかたまどかである。真ん中分けできっちり編み込まれた髪型は、大樹の知っている限り、1ミリたりとも崩れたことがない。なおこのメガネ女子、成績もぶっちぎりの学年トップである。

「おはよう、宗方さん。これ、本当に助かったよ、ありがとう」

大樹は借りていた2冊のノートといっしょにコンビニ袋に入れたチョコ菓子の箱をこっそり渡す。週末なのに「もう全部頭の中に入ってるから」と気前よく貸してもらったものだ。ノートは借りた日の部分だけでなく、これまで自分の自信がなかった範囲までも利用させて貰った。お菓子1個では全然足りないくらいだ。

「どうってことない…けど、これは?」

「うん、ほんのお礼。あ、ひょっとしてきのこ派だった?」

「別に派閥には入ってないけど、気を遣わなくてもいいのに」

珍しく円は優しげな笑顔を見せる。


――どうやら、自分が変わると、もともとあった世界まで変わって見えるようだ。


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