モスグリーン

@rabbit090

第1話

 溺れていしまいそうな気持ちはもちろんあった。

 「石橋さん、これよろしくね。」

 先生は、いつも私を探し出し、こうやって用件を言いつける。自分が生徒と関わりたくないからって、私を利用するのは、とても卑怯でよろしくないやり方なのでは、と思っていた。

 でも、「分かりました。」とだけ言い、私は先生から次の授業で使うプリントを受け取りそのまま教室へと戻り、皆に配った。

 誰も何も言わない、私が色々な先生に用件を言づけられることも、たぶん誰も知ってなどいない。当たり前であるかのような顔をして、私が配ったプリントを、見つめている人がいる。

 「うわあ、マジかよ。」

 「何でこの時期に?面倒くさいなあ。」

 確かに、私は席に着き、じっくりとプリントへ目を通した。

 こんな時期に何で、というみんなの気持ちはよく分かる。が、それも致し方ないことなのだろう。

 私たちは高校三年生で、もう進路もほぼ決まっており、あとは卒業するだけという時期に差し掛かっていた。

 が、そう簡単にはすまないらしい。

 私は大学への進学が決まっていたし、この数少ない登校日だって来ていない生徒が結構いる。

 「これさ、やっぱり杏ちゃんのことだよな。」

 「そりゃそうでしょ。やっぱり、杏ちゃんのご両親が片付けたくないんだろうね、みんな卒業するからって、彼女が体調を崩したのは、私達のせいだって思っているらしいから。」

 「はあ…、でもさ。あいつって、自分が変だったんだろ?妙に絡んできたり、だから粗雑に扱ってただけで、俺も親に話したけれど、それはその子が悪いんじゃない?って言っていたよ。」

 「うん、だって杏ちゃん。一人になりたくないからって、無理やり仲間に入ってきたり、ちょっと嫌だった。」

 そう、皆は口々にそれを言い連ねている。

 私も、こっくりと頷くしかなかった。

 杏ちゃんは、おかしな子だった。

 という印象は、私が誰よりも強く持っているのだろう、と思う。

 高校に入った頃、私はダンス部に入部した。ダンスが好きだったというわけではないけれど、中学からの友人に誘われ、見学に行きそのまま、という流れだった。

 のに杏ちゃんは、私をターゲットと決めていたのだろうか。

 のらりくらりと彼女の関心を避けている私を、彼女は察しようとしなかった。

 いや、できなかったのだ。彼女には友達がいなかった。だから、そう、誰かから何かを言いつけられることの多い私を対象にして、そういう関係を築きたかったのだろうと思う。

 けれど、この感想も抱いていられるのは今だけだった。

 私は目の当たりにするのだ。

 これから、だって、

 「杏ちゃん。」

 私は緊張を隠せない、がそれでもいいと思っている、だって私たちはそれほど親しくなかったのだから。

 「あ、さえ…、え、北島さん。」

 「あ、はい。」

 さえ、さえと呼んできていた彼女は、私を名字で呼び捨てた。

 なぜか、心の芯がぐらっと揺れた。

 どうしよう、何で私が、この子のために家を訪れなくてはならなかったのか、と今はとても後悔している。

 見たくないものが今目の前に、ふらっとしながら何とか生きているような、そんな様子で立ちすくんでいる。

 私は、言いようのない不快感を感じ、早く逃げ出したくてたまらなかった。

 のに、

 「こんにちは。」

 玄関の奥から、不機嫌そうな、でも確固とした意志を持ったという感じの声でその声は響いた。

 瞬時に、あ、この人杏ちゃんのお母さんだ。と察した。

 一度もあったことはなかったけれど、奇麗な人だった。

 少し、見とれていると、

 「あなた、杏のお友達?」と言われ、

 「あ、はい。まあ。」

 と何とも言えない関係性を、どう表現すれば正しいのか分からなくて適当に答えてしまった。

 だけなのに、「じゃあ、最低ね。あなた、この子がこうやって、言い方は悪いけれど、壊れてしまったの分かってるでしょ?」

 「え?」

 私はいきなり放たれたそのセリフの真意がつかめず、阿呆のような顔をして、口を開けていた。

 「だから、教師に何言われたのか知らないけれど、来ないで。」

 と言い、戸は閉められた。

 ちらと杏ちゃんの顔を窺ったけれど、彼女の顔色は、青ざめ表情は揺らがなかった。

 私は、この状況を整理する術が見当たらなかった。

 私はただ、クラスのみんなが行きたくないというから、代表として、杏ちゃんに学校の資料を届けに来たのだ。

 先生が、こういうのは教師より、同級生が行く方がいいだろ、って言っていたから。

 わたしだって本当は生きたくなかった。

 私にとって杏ちゃんは理不尽の塊だった。

 なのに、攻撃対象はいつも私で、悪いのはいつも私で、この理不尽を背負うのもやっぱり私で、いたたまれない気持ちだけがそこにあって、私は帰って、地面が揺れていることに、やっと気づいた。

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