第2話

「……もしもし……」


 携帯を耳に当て、恐る恐る応える。出てしまった……と、後悔したところでもう引けない。


 僕は静かに息を潜めて、相手の出方を待った。


『……キ、コ……ス……』


 最初こそノイズ音しか聞こえてこなかったけど、しばらくすると徐々に言葉を発し始めてることに気付く。


 ただ、言葉の体を成している……とは言えないが、それでも、何かを喋ってる……というのは分かる。女性……なのだろうか? 人の声と掠れた機械音が混じったような音声だ。


 不意に、僕は、まだ高校で話題になっていた頃の非通知電話の情報が脳裏を過る。


 確か、ノイズがヤバい、ずっと聞いてると耳が痛くなる、ずっと聞いてたらキーンという音が響いてくる、何か言ってるけどよく聞き取れない、あと……なんだっけ。


「ぅいっ! ……たぁ」


 突如、大きなモスキート音のようなものが流れてきたかと思えば、耳の中にチクリと刺すような電流が走ってきた。


 思わず携帯を手放してしまい、僕は放心したまま固いコンクリートの上に落ちたそれを睨めつける。


 落とした衝撃のせいか勝手に着信画面は消えていて、まるで何事もなかったかのように画面が暗転した。


「……えー……」


 思っていたよりもその電話は短く、相手の声量は小さかった。


 それにしても、電気と高音が鼓膜を劈いてくるなんて聞いてない。あれだけ騒ぎになった非通知電話なだけに裏切られたような、ただイタズラされただけのような……なんだか損をした気分だ。


 僕は落とした携帯を半ば警戒しながら拾い上げる。幸い、画面には損傷したような跡はなく、ただちょっとケースが汚れたくらいで済んでいる。噂には聞いていたけど……


「なんなんだ、一体……」


 まだ耳の中に流れてきた電気の違和感が残っている。僕的には、電話相手と何か話せると思ってたんだけど……。


『おかしなところはございませんか?』


 やり場のない喪失感を思っていると、目覚まし時計のように爽々さわさわした女性の声が聞こえてきた。


 しかし、ついと首を持ち上げてみたが、僕に話しかけてきてる人の影はない。気……のせいか。あれかなぁ……さっき耳をやられたから……。


『どうやら、問題なそうですね』


「え……?」


 二、三度瞬きした途端、鈍い黄緑色の瞳と髪をした女性がいきなり僕の目の前に現れ出る。


 朝、鞄に入れたと思っていた携帯がバスに乗って再度確認してみたら無かった時くらいの衝撃に、思考が止まった。


『……かなり混乱されてるようですね』


「え……えっとぉ……」


『申し遅れました。初めまして。私はアイ・リードという者です』


 とりあえず、さっきまでの声が空耳ではなく、彼女が僕に話しかけていたものなんだと理解する。それは分かったんだけど、だけど……いや、急にそんな淡々と自己紹介されても……誰?


 一見、その丁重な言葉遣いとは無縁だと思うくらいに奇抜な恰好の方だ。細い腕と脚にぴたりと張り付くような銀色の服とパンツは、帰宅ラッシュ時の大人達とはまるで対照的。


 唯一、腰に巻かれている黒い革ベルトが社会人らしさを醸し出していて、すごく失礼だけど、なぜかこの人がまだ正常であるかのように錯覚してしまう。すごく失礼だけど。


「え、あ、えっと……僕に話しかけてます?」


『はい』


 無機質に応える彼女。まあ、ですよね。完全に僕と目が合ってますし。


「あの……なんでしょうか……」


『電話に出ていただけましたよね。先ほどの』


「あ……え、もしかして……非通知電話の方?」


 いやいやいや、さすがに混乱しすぎだ。電話相手がいきなり目の前に出てくるとか……。


 確かに非通知電話をかけてくる相手と一言二言交わせるかなと期待してたけど、それが叶わなくてちょっとショックだったとはいえ……なにを訊いてるんだ、僕は。


『はい。その電話を通して、こうしてお訪ねに来ました』


 いやいやいやいやいや……なに言ってるんだこの人は。さすがに怖すぎでしょ。なんで非通知電話の相手が今目の前にいるんですか……。


『改めまして、アイ・リードと言います』


「……お訪ねに、来た……?」


 どういうことだ……としわの酔った眉間に指先をあてて目を細めると、彼女は少し悲しそうに眉尻を下げた。


『それは……そうですね。多少混乱するかもしれませんが、とりあえず説明いたします』


「あ、はい。お願いします」


 とりあえず、話はできる人らしい。いきなり変なことを言う人じゃなくて……いや、最初からずっと変なこと言ってるな、この人。


『まず、今私がいるのはあなたの頭の中です。脳内から、あなたに話しかけています』


「……」


 ダメだ……もう最初のその説明で既に僕の理解が追いつきそうにない。


 彼女はそう言ったが……でも今、こうやって対面してますよね? 脳内? どういうこと? もしかして、やっぱり俗にいう、変な人なんだろうか。


 比較的奇抜な恰好だが、服は小綺麗だからまだ真面まともなんじゃないかと思ったけど……口を開いたら残念と言われてしまう人なのか、ただ僕の理解力が乏しいだけか。


「頭の中に……あなたが……」


 僕は彼女の言葉を認めるように、ゆっくりと自分の鼻先を指差してから、その指先を彼女の方へ向けていく。


『正確に言うと、後頭部にある後頭葉の視覚野という位置に私がいます。あなたの眼に映っている私は、公道の上にはいません。試しに首を軽く振ってみてください』


 依然として何を言っているのかさっぱりだけど、とりあえず僕は言われるがまま試しに首を振ってみる。


『どうでしょうか?』


「……え……え?」


 おかしい。対面しているのであれば、僕がそっぽを向いた時に僕の視界から彼女は外れるはず……。


「え……どういうこと? なんで……」


『もう一度言います。今、私がいるのは、あなたの脳内です』


 もう……本当に意味が分からない。何度、何度首を振っても、振っても……振っても振っても……僕の視界には常に彼女のその全身が映っている。


 しかも決まって、僕の視界の左斜め前で、彼女は表情一つ変えずに両手を前で組んでいる。


 まさか意地悪で……と、今度は彼女の足元に注目しながら振ってみるが、彼女の膝は全く上がっていない。


 無理やり視界に入り込もうとしてくるとか、そんな幼稚なことをされているわけではないらしい。


 どれだけ不必要に、執拗に首を振ろうと、ずっと彼女は僕の視界の左斜め前に立ち尽くしている。


「脳内……え、どうやって……」


『先ほど、電話に出られた時、耳の中に電気が走ったと思います』


「……あ、あぁ……うん。あれか。ちょっとチクってしたやつ」


『驚かせてしまい、申し訳ございません。その電流は、私があなたの鼓膜を伝って脳内に移動した際に生じたものです』


「え、あ、そう……なんで? え、なんで!? なんで入ってきたんです!?」


 危うく軽々と首を縦に振ってしまうところだった。訊きたいことは山ほどあるけど、その全ての疑問を一瞬で訊き出せるような技術を僕は知らない。


 とりあえず、彼女がどうして僕の頭の中に入ってきたのか。それが、僕が明確に抱いた最初の疑問だった。


『話すことはまだたくさんありますが……まず前提として、私はある目的を持って、こうしてあいかい様のところに来たということを述べておきます』


「あ……たまたまとか、偶然入ってしまったとか……そういうのじゃないの?」


 てか……あれ? 僕、名前言ったっけ?


『いいえ。私は自ら愛田介様の元に赴きました』


 そう話す彼女の表情は真剣そのものだった。少なくとも冗談半分で言っているような様子ではない。


 まだ、彼女が脳内から話しかけているという事を信じ切れてないけど、ここまで話してきた事はあながち適当言ってたわけでもなさそうだ。


『今から話すことは偽りのない事実であると受け止めてください。でなければ、あなたは正しい判断を下せず、最悪……命を失います』


「……」


 ひりつくような彼女の語気は、しかし、ここまで未だ現実味のないことばかり聞かされたこともあってか、僕はうんともすんとも応じることができなかった。

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