第13話

 経験したことがないあまりの痛みに、アイビーは声も出せず、頭を抱える事も出来ずに転げ回った。情けない、と思う間もない。喉から漏れるのは掠れた声だけだ。

 次第に周囲の音が遠くなっていく感覚がした。次に床が喪失し、宙に浮かんでいるような浮遊感が全身を包む。その最中も、頭痛は激しさを増していた。

 涙が、涎が溢れだして止まらない。止めたくても、自分の意思ではどうにも出来なかった。ただ、ひたすら頭痛に耐えるしかない。

 す、と冷たい感触に目を見開く。ヘデラがまた頬を撫でてくれていた。途端に気分が落ち着き、氷が解けるようにして頭痛が消えていく。

「今、なにが――」

 起こったの、と口を開きかけたアイビーは、自分の中にこれまで無かったものが存在していると気が付いた。

 ああ、これは――

「さて、最後のチャンスだ、トクス」

 舌打ち混じりに吐き捨てた男に意識を引き戻され、アイビーは我に返った。頬を撫でてくれたヘデラは音も無く離れ、男のそばへと戻っていく。

「ぼくに協力しろ。そろそろ苦しい思いから解放されたいだろう?」

「っ……」

 トクスは男を睨みながら、力強く首を振った。その途端、男の顔からすっと表情が消える。幻滅した、と言わんばかりに。

「じゃあもういい」

 男が緩やかに右腕を上げる。

 何をするつもりなのか分からないが、このままでは彼が危ない。それは確かだ。アイビーは咄嗟に「待って!」と声を張り上げた。

「ねえ、あなたは本当に何をしようとしているの? 何のためにシェアトを襲ったの!」

「シェアト?」誰だっけ、と苛立たしげに、それでも男は冷静に考えるように瞑目し、「ああ、最後から二番目の奴か」と腕を下ろした。

「なんでって、決まってるじゃないか。ぼくの目的を達成するため、ただそれだけだよ」だけど、と男がアイビーに向き直る。心外だと言いたげに続けられた一言は、すぐには信じられなかった。「あいつ、まだ死んでいないみたいなんだよね」

「死んでないって……シェアトが」

 彼がまだ、生きている。

 胸中につかえていた懸念が、ふっと軽くなるのを感じた。だが、それをかき消す様に男は言葉を連ねる。

「全く、誤算だったよ。ファザ町に戻ったら襲い掛かってくるし、あれはとても驚いた。結局あいつ、どこに行ったか分からないし、仕方なく予定を変更したというわけだよ」

 襲い掛かるって、誰が。シェアトが? あの温厚な彼が? アイビーは一瞬目の前が眩んだ。

「どうしてそこまでして、シェアトを殺す必要が……!」

「だって、檻だから」

 当然だろうとばかりに首を傾げられ、アイビーは愕然とした。

 男が言っている意味は相変わらず分からない。ただ、彼はシェアトを探し出し、殺すつもりでいるということだけは確かだ。

 何とかしてここを脱出しなければ。生きている事は分かったものの、重傷であることに変わりはないのだ。そう思うのに、今の自分には何もできない。

 アイビーが何も言ってこないことで興味を失くしたのか、男が再びトクスに目を向ける。

「ひとまず、ヘデラを元に戻すより先にお前だ、トクス。ぼくに刃向かった罰を受けてもらわないとね」

 男の腕が、再びゆっくりと持ち上がる。このままでは、トクスの身が――

「駄目よ」

 凛とした声が、広い空間に響く。ヘデラだった。彼女は男の腕に手を伸ばし、諌めるように何度も撫でた。

「虐めてはいけないと言ったでしょう」

「ああ、そうだったね。ごめん」

 ヘデラの指摘に、男は驚くほどあっさりと応じ、腕を下ろす。トクスの安堵の吐息が、アイビーにまで聞こえてきた。

「ヘデラ。君だって元の自分に戻りたいだろう? 大丈夫! すぐに戻してあげるよ」

 男はヘデラの体を包むようにして抱きしめ、慈しむような笑みで続ける。

「そうしたら、ねえ、見てほしいんだ。ぼくが強くなったって、証明したい」

 男はヘデラの額に口づけを落とし、より強く抱きしめた。

 二人は一体どういう間柄なのだろう。少なくとも、男にとって彼女はひどく大切な人なのだろう。

「だから今から、君と、そこの女を燃やそうと思う」

「え?」

 今あの男は、何と言った。

 燃やす、と。誰を。ヘデラと、アイビーを。

 驚きに目をみはるこちらなど気にした様子も無く、男は笑顔のままヘデラを見下ろした。

「不安かい? 大丈夫さ! もう君から離れたりなんかしない。君が蘇るまで、ぼくはそばで……え?」

 ここまでは聞こえてこないが、ヘデラが何かを訴えているらしい。男は困ったように受け答えているが、「安心して!」と笑って彼女の両肩に手を置いた。しかし、彼女は首を振ってまた何かを訴える。その繰り返しだ。

 まるで、ダメだと言っているように。

 不意に彼女の視線が男から外れ、アイビーに向けられる。刹那、頭に何かが流れ込んできた。

 ――ああ、そう、確か、あの男の名前は。

「「シャガ」」

 アイビーと、そしてヘデラの声が重なった。

「「どうして――」」


「「どうして、待っていてくれなかったの?」」


 声の高さも、音量も、何もかもが重なる。自分で言っておいてアイビーは驚きを隠せず、発した言葉の意味も理解しきれてはいなかった。

 ヘデラが何かしたのか。真相を求めてアイビーは彼女を見遣り、ぎょっとした。

 彼女は無表情のまま、静かに涙を流して男を――シャガを真っ直ぐに見つめていた。対する彼に目を遣ると、シャガもまた動揺したように、よろよろと後ずさっていた。

「待つって、なにを。だって、君は、五年前に! だから、ぼくは――」

 シャガが何かを叫ぼうと大きく口を開いた。が、それを遮るものがあった。

 橙色に燃える、分厚い炎の壁だ。

 どこから出現したのかとアイビーが驚愕する中、シャガの悲鳴が炎の向こうから聞こえてくる。まさか燃えているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。

 何が起こっているのか状況を掴みかねていると、「動かないでください」と耳元で囁く声があった。ハッとして顔を上げると、縄から解放されたであろうトクスがしゃがみ込んでいた。

「あなた、どうやって縄を、」

「燃やしました。それが一番手っ取り早かったので」

 燃やしたって、どういうこと。そう訊ねようとした時、焦げ臭いにおいが鼻を突き、手首の辺りがじわりと熱くなる。かと思うと、次の瞬間には体が自由になっていた。

 手の自由を確かめるように何度か指を動かし、「ねえ」と彼を見上げる。

「あなた、あの男の――シャガの弟、よね。ということは、つまり」

「その話はあとで」

 少し我慢してください、と彼はシャガがそうした様に――今度は胸の辺りに顔が来るように――アイビーを担ぎ上げた。よく見ると、長い袖に包み込まれていた彼の右腕が露出している。

 そこには、一対の曲がった角を持つ男と、それを取り巻く炎と思しき刻印が認められた。

「あなた……〈幻操師〉なの?」

「ともかく、地上に逃げます」

 トクスは息を整えて静かに右腕を上げ、

「わっ!」

 直後、彼のそこが炎に包まれた。その熱さにアイビーは思わず顔を逸らしたが、本人は熱を感じていないのか平然としている。彼が左から右へと腕を薙ぐと、炎はシャガとヘデラ、アイビーとトクスを隔てる壁のごとく地面に線を描き、燃え上がった。

「トクス、お前っ!」シャガは咆哮に似た叫び声が壁の向こうから聞こえてくる。「またぼくの邪魔をしたな!」

 シャガに返答することなく、トクスは身をひるがえして駆け出した。その最中も腕は炎に包まれたままで、時折振り返りながら炎の壁を形成していく。

「熱くないの?」

「平気です。お気になさらず」

 彼は至って涼しげに答える。実際トクスの腕は炎に包まれているというのに焼け爛れていないし、言葉に嘘はないのだろう。

「あっ!」何かに足首を掴まれ、アイビーは引きずり降ろされた。顔面を強かに打ち付け、口腔に血の味が広がる。足首を見ると、異様に伸びたシャガの腕がアイビーを捕えていた。炎の壁を突破してきたせいか、巻き付けられていた包帯が焦げ、転々と燃えている。包帯に包まれていた腕には、刻印と思しき紋様が幾つも見受けられた。

「放して、放しなさいって、ひゃっ」

 一層力が加えられたかと思うと、次の瞬間には引きずられていた。来た道をずるずると引き戻され、アイビーは無我夢中で地面に爪を立てる。だが、シャガの力の方が強い。

「顔を伏せて!」

 指示された直後、熱が頭上を通り過ぎる。トクスが炎を放ったのだ。アイビーを掴んでいたシャガの手は直撃を受け、蛇のように地下へと消えていった。

 あまりの執念に顔が青ざめる。立ち上がろうとしたが腰に力が入らない。その間にアイビーは再び担ぎ上げられていた。

「兄さんは炎を恐れているので追ってこないかと思っていたんですが、まさか腕だけとは。少し壁が薄かったかも知れませんね」

 喋りながらもトクスは冷静に炎を操り、壁を作り上げていく。

 地上に向かって走りつづけ、やがて光が見えてきた。外は夜明けを迎えているらしい。トクスは転がるようにして地下から聖堂へと飛び出し、なおも走り続けた。自分で走れる、とアイビーは何度か訴えたが、彼が下ろしてくれる様子はなかった。

 荒れ果てた聖堂から外へと走り、トクスは仕上げとばかりに聖堂の周囲を炎で取り囲んだ。能力を使うには体力を消費すると言っていたはずだが、彼の顔に疲れは浮かんでいない。いや、それを感じる余裕さえないのかもしれない。

 さらに逃げようとしていた時、ざ、と複数の足音が聞こえ、背後で止まった。敵だと感じたのか、トクスは反射的に振り返り、問答無用で炎を繰り出そうとする。が、「ああ、違う」と彼は安堵しながら腕の炎を消した。

 アイビーが目にしたのは、広場で氷漬けにされた者たちと同じ鎧を身に着けた軍勢だった。

 彼らは警戒するように盾や剣を躊躇いがちに構えていたが、トクスを認めると腕を下ろした。これからどうするのか彼に問おうとしたが、聞くよりも先に、彼は指揮官と思しき男を見定め、アイビーを下ろしてから近づいていった。

 トクスと男はしばらく睨みあうようにして対峙していたが、

「御無事でしたか」

 険しい表情ではあったものの、どこか安心したように先に問うたのは男だった。

 アイビーがそっとトクスに並び、両者を交互に見比べていると、

「ああ。ひとまず先に彼女の保護を、」

 頼む、と掠れた声を最後に、トクスは力が抜けたように地面に倒れ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る