月の舟

梅林 冬実

月の舟

湖畔にて


黒い森の奥深くには、小さな湖がある。

静かな湖面に浮かぶ三日月は、金色に輝く舟であるかのように僕には感ぜられた。

気が付くと僕は名もなき湖畔にいて、湖面に揺れる月の舟を眺める。

 それに横たわる美しき聖母。慈愛に満ちた瞳に映る僕は、一体どんな表情を浮かべているのだろう。瞳の奥に僕を留めながら、聖母はなんという想いで僕をその胸に抱くのだろう。微笑みを湛える真紅の唇は、僕に祝福を与えてくれるだろうか。

「あなたと共にありたい」

そんな風に伝えられたなら、僕はどれほど濯がれるだろう。その頬にその胸にその唇に、この想いを委ねられたなら。

そっと目を閉じ、月の舟の残影を目の奥に、心に焼き付ける。欲火に狂いそうになる夜に月の舟を眺めることで、滾る想いに焼き尽くされそうになる心と体を逃れさせるためであろう、僕がここへやって来るのは。

 湖が湛える清水は、聖母の涙ではないだろうか。月の舟に横たわり、夜の静寂に耳を澄ますと、思い出したように水鳥が小さく嘶くから、聖母はまた一つ涙を落とす。深く静かな湖に、音も立てずに。

いつしか崩れ落ちていた体を漸くうつ伏せにして、僕は畔に頬ずりした。草は蒼く香り、土は冷たく、そして優しかった。僕は何故だか泣きたくなって、思わず土に顔を埋めた。深い眠りに落ちた聖母の、それはまるで胎内であるかのように僕を抱くものだから、不思議な感傷に見舞われたのかも知れない。

 胎内で小さく呼吸していた僕を、聖母は慈しんだであろう。慈しみ尊び、自身を裂いてこの世に生まれ落ちた僕を、大切にその胸に抱き、優しく口づけしたであろう。

僕は今ここにいて、この想いに身悶えながら、時折吹く柔い風にあたり、森の深潭で息をひそめる水鳥の存在を耳で探り、月の舟を僕の記憶に、焼き付けている。

月の舟に横たわる聖母の御胸に顔を埋めて、夜の闇が僕らの全てを飲み込んでしまうことを、三日月を抱く漆黒の空に哀願するのだ。闇に閉ざされゆく声がいつしか叫びに変わっても、抗えない静寂に飲み込まれていくことを知りながら。

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月の舟 梅林 冬実 @umemomosakura333

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