奴隷がいる村
mimiyaみみや
奴隷がいる村
土着信仰なのか、村人が四つ足で生活する「猫村」と呼ばれる村があるらしい。フリーライターのおれはそんな噂を聞きつけて、長野県の山間まで来ていた。
「見ろよ、一日一本しかバスがねえよ。片道切符だ」
バス停を見てはしゃいだ声を出したのは高校時代の同級生、高岡だ。普段は海外を飛び回り取材に明け暮れるおれが、ちょうど日本に帰ってきた日に空港で偶然にも再会したのだ。医学部に進んだ彼は、今は親の病院で悠々自適の三男坊医をしていたはずだ。会社に所属せず自分で自分の道を切り開いた自負のあるおれにとって、マネー・アンド・コネクションで生きてきた彼は好ましい存在ではなかった。
「今度、おれも取材に連れて行ってくれよ」
空港で高岡にそう言われたときは「今度な」と適当にあしらったのだが、その高岡から「猫村」の噂を聞き、こうしてふたりで足を運ぶこととなった。タイミングよく、オカルト雑誌の腐れ編集から「いいネタがあれば込み込みで十万は出せる」と言われていたし、高岡から「旅費はおれが持つよ」と言われたため、たまには人を連れての取材もいいかと思った。有り体に言えば、金がなかったのだ。経費なしで十万は非常に魅力的な話だった。グレゴリー・ペックはオードリー・ヘプバーンを連れてローマの町で取材に勤しみ、報酬はゼロ。おれは高岡を連れて長野へ行き、十万。似たようなものだ。
揺れるバスを降りる頃には午後四時を回り、山に囲まれているためか、たまたま今日がそういう日なのか、あたりは早くも暗くなり始めていた。
道路にはワーゲンのオフロードが停まっている。欧州ではありふれた大衆車だ。そのヘッドライトが付き、おれたちを照らした。中から声の大きな老人が出てくる。猫村の村長だ。
「おいだら、記者さんらかの。遠いところから、えれかったの。さ、乗れ乗れ」
高岡が驚いたようにこちらを見ていたので、「取材に行くんだ。アポ取りは必要だろ」と坊ちゃんに言ってやった。
「K村へはどれくらいかかりますか」
運転する村長にそう聞いたのは、高岡が間違ってでも蔑称とも取られかねない「猫村」と言わないよう、念押しの意味もあった。
「そったな、とばせば三十分くらいで着くがよ、こないだ飛び出してきた猫を轢いちまってな」
どっちの猫を? そう喉元まで出かかったがすんでのところで口をつぐむ。舗装もされていない山の中、村長は毎日この道を往復しているのだろう、踏み固められた轍をなぞるように車は進んでいた。山の中のワーゲン、村長の腕にはロレックス。藪を抜けると村があった。何の変哲もない村に、俺は驚いた。道路のコンクリートにはヒビが入っており、鉄筋住宅の古さは目についたが、おれはもっと原始的な、木造の家々を想像していた。
「へえ、電気も来てるんだ」
高岡のつぶやきに、村長は首肯した。すっかり日の落ちた道には点々と街灯が灯っていた。
「都市開発の計画が昔にあってよ、上田と松本をつなげようと国道を引っ張っとったんだが、八十二年だったか、大地震で頓挫して、新興住宅街として発展を見込んだ住宅会社が立てた家が残るだけよ」
車内から眺める無個性な家々は暗く、人の気配はない。村の奥に大仰な造りの屋敷があり、そのけばけばしさが唯一人間らしい建物だった。その建物に吸い込まれるようにワーゲンは停車し、おれたちは車を降りた。ふと道の向こうに人影が見えた。街灯の下に浮かび上がる影は、四つ足だった。二つの目でこちらをじっと見つめている。人影はやがてこちらを見るのに飽きたのか、歩いて道を横断し見えなくなった。四足での歩みは赤ん坊の”はいはい”とは違う、まさしく猫のそれで、その異様さにしばらく声が出なかった。
「誰ぞおったかね」
村長の声がすぐ後ろから聞こえた。
「ああ、人がいたようだが」
「この辺のものは夜行性での、会いたければもう少ししてから出歩くといい」
「いいのか?」
「そんために来たんでねえかよ」
おれたちは客間に通され、宿泊滞在費として三日分の「お気持ち」を(高岡の財布から)支払うと、「おれは朝が早いで寝るが、キッチンや風呂は自由につかってくれてかまわねえよ。出かけるときは戸締りは忘れてくれるな。聞きたいことがあったら明日にしてけ」と言って村長は部屋にこもってしまった。おれは拍子抜けし、キッチンにあったレトルト食品を食べると、高岡と街に出た。中央通りは真っ直ぐに伸び、街灯のおかげで遠くまで見通せる。どの家にも明かりは灯っていなかった。先ほど見かけた四つ足の人影の異様さが頭に残り、一歩踏み出すのに躊躇していた。
「なあ、行こうぜ」
高岡に促され、おれたちは歩き出した。
「この間はゆっくり話せなかったけど、どうよ」
「どうよって?」
「フリージャーナリストなんだろ。うまくいっているのか?」
「余計なお世話だよ」
「悪い」
「お前はどうなんだ?」
高岡のどこか思い詰めた表情にピンとくるものを感じ、おれはそう尋ねた。
「座ろうぜ」
道の脇にはバスの停留所らしきものがあり、ベンチが据え付けられていた。ふたりでそこに腰をかける。キッチンから持ち出したワンカップ二本とスルメの袋を渡すと「気がきくな」と高岡は小さく笑った。停留所名すら白紙のバスの時刻表を眺めながら、しばらくだまって酒を飲んでいた。酒がまわらないと話ができなくなったのはいつからだろうか。おれはふとそう思った。
「実はおまえのこと、飛行機で見つけたんだよ」
高岡がぽつりと言った。
「いつ?」
「空港であった日」
「トルコ航空?」
「シリアにいたんだ」
彼が何を言いたいのかわからず、おれは黙って先を促した。
「おれの家は代々町医者をしててさ、おれも医大に入ってさ、確約された人生ってやつを歩んできたんだよ。そんで、立派に親の病院に就職ってわけだ」
「自慢か?」
おれは茶化すように言った。高岡の声色は自虐のそれだった。きっと、レールの敷かれた人生に嫌気が差して、お気楽に紛争地にでも行って自分探しでもしていたのだろうと予想した。高岡には世間知らずのお坊ちゃんでいてほしかった。
「おれは医者にはなれなかったんだよ」
高岡は酒を煽って続けた。
「だれにも言ってなかったが、大学は中退したんだ。同期や教授からおれは『猫ちゃん』って陰で言われていてな、二回留年してようやく『コネちゃん』をもじったあだ名だと気づいたよ。頭の出来が悪かったんだな。親父や兄貴たちに『これも仕事だ』つって受付と雑務の仕事をもらってさ。おまえらには医者になったふりしてさ。それでNPO団体に履歴書を送ってさ。紛争地で子供にワクチンを注射したりしてたんだよな。大学時代は実習でおれとペアになったやつは嫌そうな顔をしていたが、向こうでは、まあ、子供は泣くもんだが、それでも感謝されてな。充実してたよ」
辞めたのか、とは聞けなかった。おれがトルコから帰る頃、新聞に、シリアでの内紛が激化して兵士たちが水平撃ち――つまり、人を撃ち始めたという記事が載っていた。そこには残ったボランティアへの賞賛と、撤退した多くの者への嘲笑が綴られていた。
「結局、戻ってきちまって、元の猫ちゃんさ」
「同じだよ」
フリーライターで世界を飛び回っていると言えば聞こえはいいが、実際には組織に馴染めなかっただけに過ぎない。しかしフリーの世界は思っていたよりずっと過酷だった。信用がものをいうこの世界では、締め切り、締め切り、締め切りの連続で、それをこなしてようやく雀の涙ほどの収入。大きなチャンスが巡ってこないうちに落ちていく体力。ケツに火のついた自転車のペダルをこぎ続けるのも限界を感じていた。「自由」や「夢」と書かれた服の裏地は「劣等感」や「焦燥」でできていて、ペダルを踏む度におれの体に傷をつける。そしておれは誇りと言い換えた意地によってその服を脱ぐことができないでいる。
「そっか」
ふと後ろに気配を感じ、振り返ると、若い女がゆっくりと歩いてきていた。四つ足である。センチメンタルな話をしたからか、恐怖はなかった。
「ハハハ、本当に猫みたいだ」
高岡は笑ってスルメを女に投げた。女は地面に落ちたそれに鼻を近づけ匂いを嗅ぐと、器用に食べてみせた。ベンチの横をすり抜けて歩いていく女を、おれたちは自然と追っていた。女の歩みは緩やかで、淀みがなかった。Tシャツとストレッチの効いたデニムはすり切れている。女は壁に体を擦り付けるように歩いていた。
街灯の明かりの届かない路地裏を縫うように進み、あるところで女が立ち止まった。暗闇に目をこらすと、地面が一斉に湧き立ったように見えた。四つ足の人間たちが一斉に腰を浮かせたのだと気づいた。男も女も、若者も老人もいた。おれは一歩後ずさる。目の前にいるのは確かに人間であるが、明らかに何かが欠けていた。「なーお」「なーお」と村の者たちは鳴いた。フッフッと短く警戒心を伴った呼吸音を響かせおれたちの周りを練り歩き、気づけば囲まれていた。
「なあ、これ、取材どころじゃないよな」
震える高岡の声におれは冷静さを取り戻し、ワンカップの瓶を壁に投げ「逃げろ」と叫んだ。瓶の割れる音を号令に駆け出す――必要はなかった。音に驚いた村の者が散り散りに四散して見えなくなったのだ。静寂が訪れた。
「ライターってこういう危険なこと、多いのか」
「食人村でおれは『カチャ』って呼ばれてたよ」
「意味は?」
「ごちそう」
ハハっと高岡が笑い、ようやく一息ついた。そうだ。村人が猫だからと言って死ぬわけではないのだ。暗い路地を右に左に進む間、おれは自分にそう言い聞かせていた。ふと脇に最初にスルメをやった女がいることに気がついた。思わずぎょっとしたが、高岡がごく自然にスルメをやり、なんだ、餌に釣られただけか、と思った。酒に思考が鈍っていた。
「あんた、言葉は話せるのかい」
そう聞いてみたが、女は何も言わなかった。大通りのベンチまで戻ると再び腰をかけた。女は器用におれの膝に乗ってくつろぎ始めた。おれは右手で女の背を撫で、左手でタバコに火をつけた。もう二匹の村人が歩いてきた。おれたちと同年代の男女だ。おれがスルメを投げてやると二匹とも器用にそれを食べてみせる。ふと、何を思ったか高岡が「なーお」と声真似をしてみせた。そして手をつき向こうの男女の元へ向かって歩き始めた。膝の上の女は小さくいびきをかいて眠っている。向こうの男女はいぶかしそうに高岡を見ていた。「なーお」高岡は再び言った。さきほどより様になっていた。「なーお」「なーお」男女が口々に鳴いて高岡に体をすり寄せた。村人が集まってきていた。「なーお」「なーお」どこから現れたのかベンチを囲むように数十の村人が密集していた。先ほど囲まれたときとは違い、心は穏やかだった。高岡も「なーお」と村人たちと体をすりあわせている。膝の女はまだ眠っている。村人は駆け回って追いかけっこに興じたり、羽虫に飛びついてみたり、まさに猫であった。何かに腹を立てた猫が近くの猫を叩き、たたき返し、すぐに忘れたようにじゃれつく。本能のままに生きていた。膝の上の猫がベンチを降りた。おれはすぐに地べたに手をつき歩き回った。様々な猫にすり寄られ、踏まれ、叩かれ、たたき返し、「なーお」と鳴きあう。それは人間のしがらみからの解放だった。腹を見せて地面を転げ回る。心地よかった。
ふと目の前の高岡と目が合った。照れたように笑い合い、おれたちは立ち上がった。
「帰るか」
「そうだな」
「現地の文化を真似て親睦と理解を深めるのも、取材だ」
「そうだな」
次の日、おれは朝早くに目を覚ました。リビングでは村長が出かける準備をしていた。
「一緒に来るかい」
そう言われ、おれはワーゲンに乗り込んだ。村長と村を巡り、餌箱に餌を入れていく。村人たちはここから勝手に餌を食べられるようになっているらしい。水飲み場を掃除し、そこかしこで眠っている村人を観察する。村人は皆番号のついた首輪をはめていた。たまに首輪がない者がいると、村長はその者に首輪をはめ、注射を打つ。
「病気の防止と、妊娠防止だ」
村長はそう言った。おれは逐一村長の行動をメモにとっていた。大変に興味深かった。
「ひとつの仮説を立ててみたんだが」
帰りの車内、おれはそう言ってみた。村長の反応はない。
「この土地には姥捨ての伝承があるよな」
「伝承だ」
「ポーランドの好事家が日露戦争の頃のこの地方の風土記を持っていたよ。食糧難の時代、飢えた人間は口減らしのために老人を殺して、時には生きたまま捨てていたことが、はっきりと書かれていた。そしてそこには、育てられない生まれたばかりの子供も・・・・・・捨てていたって」
「そうか」
「昨日、村人に会ったよ。人間とは思えなかった」
おれは昨夜の村人の顔を思い出していた。人間とは思えない、何かが欠けた顔。
「知性が欠けていたんだ。この集落は、赤ん坊の頃に捨てられた人間が、代々子をなしてできた集落なんじゃないか?」
「わしが来た頃にはもう、こうだったでよ」
本当に知らないのか、その表情からはうかがい知れなかった。しかし、それはどちらでもいいことだった。フリーに転身して十年目にして、初めてチャンスの到来を予感していた。
家に戻ると、高岡が「あったよ」と言った。それは村長が村人のための年金や助成金、各種手当てを着服している証拠の数々だった。
「そうか」
村長の顔色に変化はなかった。
「それより、今日のわしの仕事は、きちんと覚えたか?」
昼食のパスタを茹でるための湯を沸かしていると思ったら、村長が失踪した。何も持たず、ワーゲンに乗って買い出しにでも行くかのように消えた。
おれには二つの道があった。この事実を公表して、ライターとしてのチャンスを得る道と、この村に残る道と。
「なあ、この村で暮らさねえか」
そう言ったのは高岡の方からだった。
「この村人のためには注射ができる人間がいた方がいいだろ」
そうしておれたちは猫村で暮らし始めた。リヤカーを引いて毎朝の餌やりと掃除、物資が減ると隣の村から食事や薬が届けられる。配達の人間は「村長、代わったんですね。息子さんですか」と気のない様子で尋ねただけだった。たまに首輪がない村人がいると高岡が注射を打つ。じゃれついてくる村人の相手をしてやる。金なら使い切れないほど毎月振り込まれる。のんびり過ごして、食うのには困らない。猫村はこの世の楽園かに思えた。
健康的で非文化的な生活はすぐに崩れ去った。
高岡が夜な夜な部屋を抜け出していることには気がついていた。時には朝まで帰らず道で体を丸めて眠っていることもあった。おれはそのたびに高岡を起こし「猫ごっこも大概にしろよ」と小言を言って、高岡はそのたびに照れたように「いやあ」と言っていた。言っていたのだが、ある日、同じように声をかけたところ、高岡は「なーお」と鳴いてそっぽを向いた。毎日見ていたからわずかな変化に気がつけなかったが、高岡の顔からは完全に知性が抜けていた。「なーお」彼は再び言って肩甲骨と骨盤を揺らした完璧な四足歩行で歩いて行ってしまった。
「なあ、本当にいいのか」
「なーお」
以前彼に教わったとおり、高岡に不妊注射を打ち、おれは一人になった。
今日も車で猫たちに餌をやり、掃除をし、注射を打つ。不妊注射を打っているのに猫が増える理由、それは人間生活に疲れた者がこの村にやってきて居着くからだと知った。おれは人間の尊厳を保つため、昔憧れていたクラシックカーに乗り、腕にはやはりロレックス。その文字盤を見ながら規則正しい生活を送っている。時には町に繰り出し、若い女がいる店で豪遊する。そうすることでようやく猫になる誘惑から逃れていた。しかし朝には必ず帰り、餌やりからのルーティーンが始まる。
とどのつまり、人間らしい生活とは、社会の奴隷になるか、猫の奴隷になるかの選択でしかないのだ。
今日もまた、人間から解放された猫が増えていた。
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