耳なし洋一

差掛篤

第1話

時は平安時代末期。

長門国赤間関壇ノ浦。

現在の山口県下関市、北九州と山口県に挟まれた海峡のあたり。

ここで源平最後の戦い「壇ノ浦の戦い」が終わった頃のことである。


一人の武士が落ち武者の後を追っていた。

名は北浦と言い、壇ノ浦の合戦に参加した源氏側の武士であった。


北浦は合戦の後、荒れ狂う壇ノ浦から陸地に戻り、四散逃走した平家の残党を追い討ちしていたのだった。


一人の残党を見つけ、北浦はひたすら後を追った。

そしてとうとう、伊崎という内海に面した灌木地で、残党に追いつき対峙した。

残党は平家の本拠があった彦島という南部の島に逃れるつもりであった。


灌木の中で、平家の残党は刀を捨て命乞いをした。

「頼む!助けてくれ。武士の恥だが、わしには大事な女房と幼子がいる。奴らを助け、落人として隠匿の生活を送らねばならない。どうか見逃してくれぬか」


北浦とて妻子があり、気持ちが分からないではなかった。

北浦は情が沸いてしまい、しばし斬るのをためらった。その一瞬のスキをついて残党は懐に忍ばせた小刀で斬り掛かってきた。


北浦はすかさず、一太刀で斬り捨てた。

血に塗れた落人は「おふく…吉丸…許せ」と妻と子の名前を呟きながら絶命した。


その壮絶な最期を目にした北浦は、良心の呵責に耐えかね刀を捨てた。

武士の身分を捨て、落人を斬ったその地に掘っ立て小屋を建て、百姓として生きた。


北浦は斬り捨てた落人を供養しようと、家の敷地に小さな祠を作り、ひたすら冥福を祈った。

だが、落人は北浦を憑り殺そうとしたのか、たびたび亡霊となって現れた。


「北浦、北浦」と亡霊は木の陰、家の陰、文字通り草葉の陰から呼びかけ続けていた。

だが、祟りを恐れた北浦は、ついに老齢でその人生を終えるまで決して返事はしなかった。


北浦亡き後…

北浦家にとって、平家の怨念を一身に背負うのは一族の業となっていた。

北浦の子も、孫も、子孫も、平家の亡霊に追われるようになった。


いつも暗がりや陰から、不気味な落人が姿を見せ、その時の子孫たちの名を呼んでくるのだった。


事の発端となった武士の北浦は、亡霊に祟られない唯一の方法を自分で編み出し、子孫に口伝していた。


それは、供養を続けながらも、徹頭徹尾亡霊を「無視」することであった。

武士の北浦が老齢で人生を全うするまで、落人の霊は後を付け回したが、ついに祟り殺すことはなかったのだ。


もはや罪深き殺生をした宿命…一族はそうあきらめざるを得なかった。


時代はとうとう現代を迎えた。

北浦家には一人っ子の男児が生まれ「洋一」と名付けられた。


洋一も例にもれず、亡霊の姿が見えた。

小さなころから、自宅の階段を上がる具足姿の足が見えたり、暗がりから「洋一。洋一や」と呼ぶ声が聞こえた。

声のする方向を見ると、襖の向こうの暗がりから…落ちくぼんだ暗闇のような目を向ける月代頭の男が見えたりした。


だが、洋一は幼少のころから一族の言い伝えを守った。

それは亡霊に殺されたくない一心からだった。

声も出さず、反応もせず、ただ無視をしたのだった。


さらに洋一は父や祖父に連れられ、平家の供養を怠らなかった。

自宅の祠はもちろん、みもすそ川や壇ノ浦を望む神社、平家ゆかりの寺社仏閣など常に滅亡した平家の冥福を祈った。


洋一が供養に手を合わせるとき、大勢の具足姿の武士や女官たち、鬼火などが彼を囲んでいるのが見えた。

そして、口々に不気味な声で「洋一、洋一やい」「洋一、返事をおし」と呼び掛けてくるのであった。


幼い洋一にとって、亡霊に常に呼びかけられる生活は想像を絶する苦痛と恐怖がともなった。

洋一は泣きじゃくり、自分の目をつぶし、耳を千枚通しで突き刺してしまおうかと何度も悩んだ。


だが、そんなときは一族の口伝と、父や祖父といった亡霊とともに生きてきた先人たちが慰め共感してくれたのだった。


「大丈夫だ。決して供養を忘れず、返事をしなければ害はない」

と励まされもした。

だが、「返事をしてしまったらどうなるかわからない。昔、目の見えない琵琶法師が、亡霊だとわからず返事をしてしまい、憑りつかれたという話もある」


幼い洋一は震えながら顛末を聴いた。

「その琵琶法師はどうなったの?」

父は言う

「亡霊から隠れるために体中にお経を書いた。だが、両耳だけ書き忘れてしまったんだ…亡霊は琵琶法師の耳だけが見えて、その耳を…」


【耳なし芳一】

聞きなれた怪談であるが、実際に平家の怨念を背負う北浦家にとっては、恐ろしい史実でしかなかった。


そうして、枕元に落武者が円を作って呼びかけてくるという夜を数え切れぬほど過ごし、洋一は青年となった。


青年になった洋一は、この怨念渦巻く海沿いの街から抜け出そうとした。

学校を出て、就職のため都会へ向かう。


だが、なぜかそのたびに高速道路が崩壊したり、線路が災害によって破損したりで都会へたどり着けなかった。


必ず長門国赤間関…つまりは山口県下関市に戻ってきてしまうのである。


洋一は意を決して、船を借り、海洋から都会を目指した。

穏やかで晴れた日に、この忌々しい街を抜け出そう。

洋一はそう決心した。


そして、出発の日。

船が本州と九州を結ぶ関門橋の下…つまり壇ノ浦を通ったときである。

突然空は暗雲が立ち込めた。

雷が鳴り、壇ノ浦の水面はいつにもまして、激しく時化(しけ)はじめた。

竜巻が水に入ったような巨大で激しい渦が現れ、洋一の乗る船を今にも飲み込みそうだった。


すると、渦の中から黒々とした巨大なタコが現れた。

洋一は、かつて彦島に人を引きずり込む巨大なタコがいると聞いたことがあった。

タコの周りには、従者のように、船の倍以上はあろうかという巨大な平家ガニが、おどろおどろしい憤怒の甲殻を見せつけながら多数ひしめいていた。


「洋一、洋一や」渦の中から雷鳴のような声で大タコが叫んだ。

「貴様は我々の話を聞かねばならん。わしらを見て、返事をせい」

荒れる波と、粘性を帯びて黒光りした大タコの腕がおぞましくうねっている。

大タコの目は赤く、不気味な光を放ち洋一を見つめている。


黒雲は、赤い色の血に染まったような色に変わっている。

赤い空が恐怖にひきつる洋一の顔を赤く染めた。

船の操縦士たちには見えていないのだろうか。

「すごい時化(しけ)じゃあ。引きかえさんにゃあ」と騒いでいるのみである。


「洋一、洋一。返事をせい、返事をせい」

大ダコが恐ろしい声で叫び続ける。

その声は、雷鳴や地鳴りを超え、ここ関門海峡に備えられた音の狂ったスピーカーとも言える轟音で響いた。


洋一は船室に駆け込み、耳を抑えて震えていた。


そして、洋一は悟った。

俺はもうこの亡霊の地から逃れることはできない。

血族の運命は変えられない。

ただ、呪い殺されぬよう、この地で慎ましく供養とともに生きなければ…と。



洋一は結局、下関で漁師として働いた。

明け方に、平家の声かけを浴びながら船を出す。

空の白む中、船幽霊や平家ガニ、大ダコ、果ては苔生した化け鯨も洋一の姿を探し、海面から顔を出す。


亡霊や怪物がひしめく海で網を手繰る。


洋一は次第に亡霊達に慣れていった。

驚かされることはあるが、当たり前のこととして見過すようになっていった。


洋一は妻を娶らなかった。

自身が幼い頃、亡霊達に思い悩まされた事から、この様な辛い目には合わせまいと妻も子も持たないことにしたのだ。


孤独に生きる洋一。

だがその内に、洋一の心をある好奇心が支配するようになった。


「亡霊と話をしたらどうなるだろう」と。


一族の話では「取り殺される」との口伝だった。

果たして本当だろうか。


長い間、亡霊とともに生きた北浦家の中でも、取り殺された者がいるという記録は存在しない。


何代も経て、ひたすら話しかけてきた亡霊達…

彼らに耳を傾けると、一体何を口にするのだろう。


恨みか、呪言か…彼らが世代を超えて北浦家に執着する、その心を知りたかった。


不穏な、だが抗いがたい好奇心が洋一を虜にした。


洋一は大人になり、壮年を過ぎた。

日々慎ましやかに暮らし、亡霊を無視し、供養に励んだ。


これも、最期の目的のため。


洋一は、自分が年老いて死期を迎えた時、彼らに返事をしようと決めたのだった。


洋一は妻を取らず子もいない。

子孫に害をなす心配もない。

北浦家最後の末裔なのだ。


返事をして、平家に取り殺されようが、恨み節を言われようが構わない。


亡霊の影に怯え続け、人並みの幸福を享受できないまま生きてきた北浦家の末裔として、事の顛末を見届けねばならない。


洋一はその執念で生き抜いた。



そして、洋一はとうとう年老いて不治の病にかかった。

洋一の身体は痩せ細り、病床に寝たきりとなった。もはや身体は弱りきり、自由に動かない。


だが、死の恐怖より、洋一には待ち望んだ瞬間が来た喜びが大きかった。

心置きなく返事が出来る。

なんなら、長年に渡り付け狙ったことを文句を言ってやると決心していた。


そして洋一は、ある時死期を悟った。

自分は持ってあと数日だ。


いよいよ返事をすることにしよう。



その夜。

いつになく病床の周りには亡霊達がいた。

病に伏せる洋一をぐるりと取り囲んでいる。


彼らの間から窓の外を見ると、血のような赤い空と壇ノ浦が見える。

海面には亡霊達が船に乗り、大ダコたちも顔を出している。


「洋一よ、貴様もそろそろだ。返事をせよ」ある亡霊が声をかけた。


洋一は目をつむり、そっと念仏を唱える。

そして亡霊を見据え、口を開いた。


「はい。なんでしょう」


途端に亡霊達は暗い穴のようだった目を見開き、不気味な歓声を上げた。

窓の外は雷鳴の如き咆哮が聞こえた。

亡霊達の興奮が嫌でもわかった。


「よくぞ返事をした。洋一」と亡霊。


洋一は動じずに、不遜に言い放った。

「さあ、用件を言うがいい。取り殺すなら好きにすれば良い」

もとより死の淵にいては、反抗するほどの気力も体力も残っていない。


「そんなことはせん」亡霊達は首を振った。

「貴様も、貴様の先祖も永らく我々を無視し続けた。我らの姿を見ようとせずにな。だが貴様が返事をした今、我らの言葉を伝えることが出来る」


「言葉とは、恨みか?」

洋一は、不敵に言い返す。


ところが平家の亡霊は悲しげに首を振った。「貴様ら北浦家は我々が呪い殺そうとしていると思っているようだが…それは違うのだ」


「違うとは?」


「我らは、北浦家を恨んではおらぬ。むしろ、逃げ出そうと斬り掛かったのはこちらだ。それにも関わらず、北浦様も貴様ら子孫も我らを延々と供養し続けた。我らはその慈悲深き心に痛み入った。」


平家の亡霊が話すと、周りの亡霊達もさめざめと泣き始めた。


「そこで、北浦様に供養をやめるよう伝えたかった。そして、北浦様が落人のために建てた祠の下に夥しい財宝や神器を埋めた。子々孫々と財に困らず、幸福に生きて行けるようにな…それを伝えたかったのだ」


「なんだ…と…」

洋一はあまりの衝撃に言葉が出なかった。


「だが、我ら亡霊は返事を貰わねば話ができぬ。永い月日を、北浦様の慈悲に報いようと…声をかけ続けたのだ」


洋一の思惑は外れた。

呪われた一族として一矢報いるつもりだった。


だが実際は、途方もない時間を、一族共々徒労に費やしてきたのであった。


「一族や…俺の人生は...無駄だったってことか」洋一は気を失いそうになりながら、声を絞り出した。さながら亡霊のような声だった。


「もはや誰も掘り起こすことはできまい…せめて、最後の末裔である貴様さえ『耳』を貸してくれればな…」亡霊は悲し気につぶやいた。「さらばだ。哀れな『耳なし洋一』よ…」


亡霊はそう言って背を向け消えていった。

他の亡霊たちも次々と消えてゆく。


洋一は、ただ困惑してその消える背中を見つめる事しかできなかった。


亡霊も大タコも消え、赤く染まった天も、常日頃の空模様となった。

下関らしい、うす暗い曇天へと変わったのだった。


洋一は絶望の叫び声をあげ、もがき狂おうとした。

だが、もはや死を間近に控え、声すら出ず、もがこうにも身体は微動だにしなかった。




【おわり】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

耳なし洋一 差掛篤 @sasikake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ