第93話 再会、そして過去
期限である二週間は無情にも過ぎようとしていた。どのような判断を下したのか、首相である曽根林太郎直々に謝罪があったものの、それ以降は何を連絡してものらりくらりと返答されるのみ。大規模侵攻は止められる――――もしくは規模縮小――――どころではなく、リゲイナーズの言葉に従って徐々に気勢を増しているように思えた。
研究所では、当たり前のように沈んだ空気が流れている。一度恐怖を目の当たりにしたことがある日和にとっては何よりも恐ろしいようで、日を負うにつれて顔色が悪くなって行くような気がした。確かに、あの規模の魔物の大群がこの人口密集地に襲い掛かったらと思うと、背筋が冷えるものが有る。
しかし以前に感じていたような焦燥感は、何故だかは分からないが、自分の中から段々と姿を消していた。危機が迫っている、そう分かっていても、懸念事項が頭の中に浮かんでくるだけで、感情的にはどうもなれそうにない。
何よりも日和の情動が心配ではあったから、それが原因で他の事が見えなくなっているだけなのかもしれないが。
「…………儘ならないな」
兵吾さんがテレビを前にして呟く。周囲にいる研究員たちは、無言の肯定を返した。
彼らは既に、研究資料として魔物が大量発生した映像を目にしている。その分、規模や様々な可能性についても見当が付いているのだろう。それ故に彼らからは、研究所の外から向けられているような批判を投げかけられることはなかった。
因みに、その映像に関しても既に公表してある。研究結果が纏められた資料と共に。まぁ、フェイクだのとして素気無く切り捨てられたわけだが。確証性バイアスだか何だかには、その害を直接的に被る者としては遠慮して欲しいものだった。
そろそろ、この場から逃げ出した方が良いのではという思いすら抱いている。今の今まで口に出したことはないが。
何せ、侵攻が実行されるのは都心の南部であるわけだが、この狭い都心では――――全体ではなくとも一部は――――一瞬で魔物に呑み込まれてしまいかねない。現在の日本の中心であるここが呑み込まれたら情勢は一気に傾くであろうとは言え、今から危険に晒されるかもしれない場所にいつまでも留まる道理はないだろう。
しかしそう考えると、この研究所の人々を連れて行くのは言うまでもないとして、姉、日和の家族、欲を言うならば研究員の親族、そして彼らの知り合い…………。言うまでもなく、候補を絞れるわけがない。向こうに行って暮らす場所を提供できるかと言われたらそれも保証できないというのに、田舎に逃げようなどと気軽には提案できなかった。
その上、既に時間がない。もう既に、作戦の開始は翌々日に迫っているのだから。
「出来る限りのことはしましたし、後は何があろうと知らないというスタンスも、取れるには取れるでしょうけどね」
研究員の一人が呟く。
その言葉の裏に、こちらを顧みない世間への恨み辛みのような感情や、だからと言って切り捨てきれる訳ではない苦々しさが垣間見えて、煮詰まった情緒に心臓の拍動が遅くなったような気がした。複雑な感情と一言で切って捨てられはしないほど、対処しなければならない思いが彼らの胸中を渦巻いている。
…………何もできないという状況が、ここまで体を強張らせるものだとは思ってもいなかった。無駄に考え過ぎてしまうせいで、頭に身体が追い付いていないような気さえする。
どうしようにもない状況で、ただただ思索の渦へと沈んで行った。
姉の車に揺られて、街の景色が流れて行くのを眺める。先ほどまでは見えていたビル群もいつの間にか姿を消していて、長いアスファルトの道と背の低い建物だけが周囲を満たしていた。
「本当に日和ちゃん置いて来て良かったの?」
「…………まぁ、そんな大事な用事でもないし」
姉に頼んで研究所を出て来た時、日和から責めるような視線を向けられはした。それでも、ただ様子を確認しに行くだけとはいえ、何となく、これから戦場となる場所に彼女を連れて行く気にはなれなかった。
普段は柚餅子や他の魔物がいるが、今は自分以外に彼女を守れるものがいない。その状況で火器に溢れた場所を訪れるというのは、どうにも受け入れられなかった。
数十分もしないで、目的地に辿り着く。
今回の大規模侵攻の舞台となる地。集まっているのは何も作業のために姿を見せている企業の者達だけではなく、リゲイナーズの応援をするためにここを訪れている一般人も大量に見られた。姉は車で待っているらしいので、車を泊めた場所だけ何となく覚えてから、人がまばらに
ここに来たのは、何でもない、この計画の後のことを考えてだった。
侵攻が恙なく終わり、予想に違えず魔物が発生したとして、その後にどうすれば良いかを。
勿論、こうも広い場所を自分一人で抑えきれる訳がない。俺が居れば平和が守れるだの、そんな烏滸がましいことは想定もしていなかった。
しかし幸いにも人の居住地からは一キロ程度は離れている。例え魔物が発生し始まったとしても、直ぐに人が襲われ始める訳ではない。この場に残っているだろう
しかしいつも通りの量が発生するのであれば、如何せん魔物の数が多すぎる訳だが。
加えて、それにも増してより厄介なのは、魔物が発生するのが
それまで
これは前述の通りではあるが、その余った魔力というのは、行儀よく洞穴の中に留まってくれるわけではないのだった。
地表に魔物が発生するということは、それだけ魔物が襲い掛かってくる方向を絞れなくなり、通常ではあるはずの
数キロの範囲に渡って魔物の奔流を抑えようとするのが、どれだけの難題かは想像に難くないだろう。
理想は魔物を森の奥へと追い込んでしまうことだが、
餌を求める魔物が、近くに街がある状況で耐えられるかどうかなど、考えたくもなかった。
希望の無さをまざまざと実感しつつ、
ふと、視線を上げる。目の前で、歓声とも悲鳴ともつかない声が上がっていた。
ぱっ、と人垣が何かを避けるように遠くから分かれて行く。自分もそれについて動こうとすれば、静止するよう指示する厳しい声が上がった。周囲の集団と共に、動きを止める。
徐々に騒然とした気配が近づいて来た。
視界が開ける。
目の前に立っていたのは、見慣れた四人だった。その手に持たれた銃が、何故かこちらに向けられている。先頭に立っている若い男は、何故か青白い顔をしていた。
その表情を見て、思い出す。いつかの銃創のことを。
「なぜここにいる」
彼らの後ろでは、律儀にカメラが構えられているのが見えた。周囲に出来ていたはずの人垣は、彼ら四人が銃を構えているのを見て焦ったように逃げ出して行く。しかし十分離れた場所からは、こちらを食い入るように見つめる者達がいた。
何かを言おうと、口を開こうとする。乾いた唇が張り付いて、掠れた喉からは何の音も出てこなかった。
「なぜ、ここにいる?」
若い男が再度質問を口にした。以前の力無げな様子はなくなっていた。付き添う者達が出来たからだろうか。
―――――――――――――――――――
路傍の自家用車の中で、淳介の姉、彩羽は静かに瞳を閉じていた。耳の奥では弟の声音が未だに残っている。少し不安を帯びたような、それでいて芯のある声を。
脳裏に浮かんでいるのは、遥か昔の景色だった。彼女と淳介がまだ幼く、母親と父親の離婚が瀬戸際になっていたとき。父親は既に母親の不貞には気が付いていて、それでも彼は何も切り出さなかった。…………それは偏に、淳介が母親の事を家族として捉えていたからに他ならない。
幼い頃の淳介は純粋で、よく笑う、口数の多い子供だった。父親と母親と、姉と弟。その四人がいて初めて家族。彼の中では、それが当然だった。時には残酷にすらなり得るほど、彼は純粋で子供らしい子供だった。
段々と母親が家族に対して冷たくなっていって、どうにかしてそれを元に戻そうと淳介は奮闘していて、事情を知っている彩羽と父親は遠回しに彼を諭すことしかできなかった。
もう少し大きくなったら事情を説明しようと、そう思っていたのが悪かったのだろうか。
三人で出掛けたときがあった。その頃はまだ世の中も混乱しきっておらず、休日に出掛ける程度の贅沢は出来た。その時は、淳介が運動会の徒競走で一番を取った時だったか。どうせなら母親も一緒に遊びに行きたいと彼は言ったが、その日の前夜から彼女は既に何処かへと外出していた。
流石に遊園地などへ行くのは憚られて、軽く買い物をする程度だった。お小遣いを子供二人に与えて、どこで何を買おうかと話しながら店を巡って行く。母親がいないことに不満そうだった淳介も、次第に楽しくなって来たようで、いつものように笑うようになって来た。
そのときに父親と密かに笑み交わしたことを、彩羽は今でも鮮明に覚えている。
歩き疲れて、三人でベンチに座って何かを食べていた。確か、露店で売っていたクレープか、何かしらの甘い物だったように思う。
まだ小さい子供でじっとすることのできなかった淳介は、立ち上がって近くを走り回っていて、それを父親と彩羽は楽しそうに眺めていた。
『あ、お母さん!』
淳介が上げた声に、父親は確かに顔を顰めた。彼は直ぐにそれを隠したが、彩羽は見逃してはいなかった。
駆け出した淳介の後を追うように、父親も立ち上がる。
『お母さんも来てたんだね! 一緒に食べよ!』
無邪気な子供らしく、酷く額に皺の寄った彼女に淳介は語り掛けていた。これで家族が揃った、これで皆で楽しめると、彼女の裾に伸ばそうとして。
『触らないで! …………気持ち悪い』
思ったより大声が出たことに気が付いたのだろう、母親は言葉を発した後直ぐに声を抑えた。それでも、その言葉の内容も相まって、周囲の人々の視線を集めるには十分だった。
奇異の視線と、抑えたような囁き声。心なしか淳介とその母親の周囲だけが人ごみから外れているように見えて、それがまた状況を悪化させていた。
淳介は、理解が出来なかったのだろう。思い切り閉口して、それでいて母親の事を見上げていた。その、酷く嫌悪感に満ちた表情を。
その時からだった。淳介が会話をしないようになったのは。
最初は、人前で話すことが苦手なだけだった。母親に話しかけたあの状況が脳裏に浮かぶのだろう。何かを言おうとして諦める様子を何度か見た。
段々と誰とも話さないようになり、中学生になる頃には一言も話さないようになっていた。それを矯正しようとするのはあまりに不憫で、父親と話してどうともしないことを決めた。
……………何故、今になってこのことを思い出したのだろうか。ともあれ、日和には感謝しなければならない。無理はさせないとは思っていたとは
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