不自由を泳ぐ

のいん

不自由を泳ぐ

粘度の高い色彩を、羽がつつく。 夜のビル窓のように規則正しく並んだそれは、切り揃えられた毛並みに導かれるがままに形を変える。ふたつみっつ、くるりどろりと混ざり合い、その色相は様々に映える。 何色もの小さな水たまりをつつく小鳥。筆はまさしく翼だ。 月光を反射する真白のカンバスを立てて、元の色がわからなくなったバケツの置き場所を確認してから、油の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 瞼の裏に極彩色が踊る。輪郭を取りこぼさない様に、鉛を慌てて走らせた。筆が翼なら、鉛筆は嘴だろうか。水面を泳ぐ獲物を逃さない様に注意深く鋭く光る嘴。


けれども、どれだけ注意深く観察しても、取りこぼす箇所がある。今脳裏の景色で瞬きをした女は、何色の瞳だっただろうか。とか。その欠落を認識するたびに筆が止まる。ため息と共に筆洗の水が、濁って歪んだ。 びしょ濡れになった筆を摘み上げて、近くにあったタオルで拭いてやる。アトリエになっている部屋の窓枠がガタリと揺れる。風に揺れる葉の緑が煌めく美しさに、ゆったりと目を細めた。 どうしたら、あとどれほど描いたら、なにを見れば、何を学べば、この瞼のスクリーンに浮かぶ景色を物にできるのだろうか。たとえばあの緑の煌めき。波のたてる飛沫。雲間の陽光。あの筆舌にするのさえ烏滸がましい美しさを、どうしたらこのカンバスに閉じ込めて手にできるだろうか。そんなことばかりを考えて、何年も何年も筆を走らせ続けている。

美大に入ったことも、美大を卒業したことも、賞を取ったことも、死に物狂いで努力したが、その全てが通過点だった。描きたいものがある。描くべきものがある。背中を押す衝動に抗えずに駆られて続けて筆を握り続ている。 ギッと古い木の音が、規則正しく近づいてくる。筆を置いて開かれるであろう扉に視線をずらすと、予想通りの顔が予想通りの表情を滲ませていた。


「また僕を放ってカンバスとデート?」

「普通に寝てないの?って聞いてよ」

「君はその紙にしがみついて僕が何度枕を濡らしたかなんて数えてもくれないからね」

「週に一度は睡眠をとってるわ」

「それだけだろ?君の枕さえ僕の匂いがしてきたらどうするんだい」

「意味がわかんない」


下手をすれば自生活ですらそぞろになりそうな調子で生き急いでいる人生の中で、理解者に逢えたことは幸福だったと思う。 態と気取った口調で不摂生を嗜めてくるのは画伯の夫だ。世話役の彼は結婚してかれこれと面倒を見てくれているがこっちはこれが仕事であり人生である。変える気のない態度についに堪忍袋を切るどころか爆発させた彼は、工夫と検証を重ねた結果、ことこの話題に関しては言い回しを詩的にするという手法で落ち着いたらしい。言い回しを気に入れば、何故か画伯は本当に──自分でも不思議なのだが──素直に言うことを聞くのだった。

扉の向こうから、キッチンタイマーが夫を呼ぶ。一枚木材を挟むことで忘れていた生活の音を皮切りに、くぅと鳴りを潜めていた空腹がむくりと顔を覗かせた。


「お腹に子犬を飼っているなんて初耳だ」

「聞かなかったことにして」

「素直に朝ごはんを食べたらね」

「うん」


笑いながら伸ばされた両手を掴む。


「ご要望通り、今日は卵のサンドイッチだよ」

「マヨネーズ多め?」

「減塩だけどね」


手を引かれるまま食卓の椅子を引く。ほわりと浮かぶポトフの湯気の底に、ざっくりと切られた具が沈んでいる。スープカップの隣に置かれた平皿の上には、三角に切られたサンドイッチが二つ重なって鎮座していた。レタスの間にペーストされた卵を挟んだ黄色と緑の眼に優しい色のコントラストは、思わず両手で掴んで頬張りたくなるような魅力で溢れている。表面だけ焼かれたトーストにはされたレタスがパリッとみずみずしい音を立てて、思わず顔がほころんだ。口いっぱいに広がる卵とマヨネーズをゆっくりと味わい、コレステロールの罪悪感を野菜沢山のポトフで流し込む。熱が食道を滑り落ちていくのを感じながらほうと息を吐く。


「おいしい…」


向かいの席の座る作り手は満足そうに笑って、同じようにまたサンドイッチを頬張った。キッチンの奥で食後のコーヒーがサイフォンに落ちていく様子を遠目に眺めながら、ぺろりと朝食を平らげる。彼が食べ終わるのを待ちつつ、空になった皿に転がるパンくずを指先で転がしてもてあそぶ。行儀が悪いという小言から逃げた先のキッチンで出会ったのは、やっと落ちきったコーヒーだった。見る角度によって黒にもこげ茶にも色を変える香しい液体を、ゆっくりと二つの白いマグカップに注ぐ。ダイニングテーブルに戦利品を持ち帰り、自分と夫の前にそれぞれ置く。


「ありがとう」

「どういたしまして」


くるりと手近にあった銀色のスプーンで黒を混ぜ、緩く渦を巻く表面にゆっくりと白色を乗せる。渦を描きながら白と黒が混ざっていく様子を眺めていると、画伯は仕事の報告をさぼっていたことを思い出した。


「そういえば、ずっと描いているやつが完成しそうなの」

「あぁ、寄り道して完成しないってやつ?」

「言い方!絵描きの息抜きは絵なんだから」

「迷子っていうんだよそれ」

「そんなことないから!」


 けらけらと笑う彼の足を、ダイニングテーブルの下で軽く蹴る。いたい!なんて嘯く男は、コーヒーを零す気配さえなかった。


食後に皿を洗い、冷蔵庫からペットボトルのレモンティーを取り出す。冷蔵庫の向かいにあるキッチンの引き出しを開けて、小分けの袋に入ったクッキーやチョコをランダムに手に取ると見事に両手がふさがってしまった。


「やると思った!」


足を上げて膝で引き出しを押し込むと、掃除をしようとしていたらしく雑巾を手にした配偶者が目をとんがらせてキッチンに飛んできた。目ざとい奴である。そのまま足で扉を開け閉めしかねない画伯に呆れた顔をしつつ、両手いっぱいに持った食料を落とさないよう忠告して男はアトリエの扉を開けた。


「栄養失調で倒れないでよ」

「大丈夫だから」


空調を聞かせたままのアトリエの定位置に食料を置く。この部屋で最後に残った絵具のかかっていないスペースだ。なんの変哲もない木の机の上に置かれたレモンティーが、窓の外からの光とペットボトルの凹凸を受けて机の上に万華鏡のような影絵を落とす。


「よし」


気合と共に朝に描いていた絵を一度イーゼルから降ろす。そして部屋の一辺を占める棚の二段目から描きかけの絵を引っ張り出して、アトリエの真ん中に立てた。


 すぐに椅子に座らずに、少し遠めにその絵を眺める。色彩にあふれた絵は、幾月もかけて描いている絵のうちの一つだ。少しずつ手を加えては眺めてを繰り返し、気が付いたらあっという間に時間が過ぎていた。この絵に決着をつけようと絵を立て筆を握りを、もう何度も繰り返している。だが、先程宣言してしまったことをひっくり返すような真似はしたくない。今日こそは、と意気込み新たに椅子に座り筆を握り絵具を出す。色を混ぜて筆をカンバスに乗せる。色彩の葉をかき分け、一枚の中に描かれた世界に深く入り込む。周りの音が聞こえなくなって、瞼の裏の世界が一層眩しく輝いた。


◆◇◆◇


完成した絵を前に、静かに息をつく。窓の外ではとうに帳が降りた時刻だ。何もない白から描ききった過程を脳裏でなぞり、果てが見えない道をひたすら歩ききったような達成感に目を閉じた。叫んで走り回ってしまいたくなるような衝動と涙が流れそうな感慨が胸の中でぶつかって、ただため息となって押し出される。 極色彩。 瞼の裏にある景色を、ひたすら追い続けたひとつの結末が、やっと目の前に現れる。青々とした景色、風にそよぐ葉の光。鮮やかな花々。見る角度によって色彩を変える美しい鳥の羽。 「できた…」 言葉にして、改めてひとつの旅を終えつつあることを実感する。迷子は、一度終わりだ。仕上げに取り掛かるべく、部屋の隅で重なっていたチラシを一枚手に取る。タイトルに掲げられているのは、歴史ある展覧会のひとつだ。この絵の旅の、最終地点への切符。締切まであと3日ある。書類を用意して諸々申請して、ちょうど間に合う頃合いだろう。評価されるかは時の運だ。今はこの絵の執着地点を決めてやることができた安堵感で、それすら二の次だった。


だが、なんの縁なのか、その絵を皮切りに描いた絵がちらちらと評価を受けるようになった。いくつか依頼が舞い込むようになり、名も知れるようになり、小さな個展くらいだったら開けるくらいには知られた作品が順当に増えた。追い続けた色彩が評価を受けているらしく、服飾のデザインの話も聞くようになってきた。まさか自分が締切に追われる日々が訪れるとは思っていなかった。チャンスへの胸の高鳴りと仕事の責任感が背を蹴り飛ばし、体調も食も二の次に、次々と依頼を片付けることで目の前と生活がいっぱいいっぱいになっていく。周りの声が聞こえないくらいの激しい追い風の中を走っていくようなものだった。自分の息遣いだけが聞こえる世界にいても季節が目まぐるしく変わる。瞼の裏の景色もどんどんと変わっていく。


葉の緑、空の青。


ぱちんと、膨らみ続けた風船がふとはじけたようなものだった。


 いつものようにアトリエで絵を描こうとカンバスと向き合う。朝から続く頭痛を無視して、作業を始めようと絵具を混ぜた瞬間、一層激しい頭痛に襲われた。起きていられなくて前のめりに倒れる。カンバスがぐちゃりと歪んで、イーゼルと床がぶつかってけたたましい音を立てた。鈍い音と衝撃が脳を揺らす。朝聞いたばかりの声が焦りを滲ませて部屋に押し入ってくる。頭が痛いと伝えようと手を伸ばそうとして、左手が動かないことに気が付いた。どうしようと、痛みでいっぱいの頭の中を焦りがざわめく。夫の名前を呼ぼうとして、言葉が口から出てこないことに気が付く。混乱して涙が出そうになるが、頬も涙腺も動かない。動揺している間に、気絶していたのではないかと思う。気が付いたら病院にいて、白いベッドに横たわっていた。脳の病気、らしかった。幸い発症から早期に治療が開始されたため、大きな身体への障害は見られないということだった。もし一人で生きていたらと思うと恐ろしくなり、医者の話を聞きながら画伯は思わず隣にいた夫の手を握った。大きく骨ばった手はいつもに比べて随分と冷たく、すこし震えて頼りなかった。


 数週間ほど休養期間をとり、家に帰ると画伯は早速締切を伸ばしてもらっていた仕事を片付け始めた。夫は止めたが、画伯は首を縦に振らなかった。せめてと身体の調子を見ながら定期的に散歩などの運動を挟むようになったが、仕事の忙しさは入院する前とそう変わらなかった。


葉の黄色、空の赤。


 日課となった庭を散歩して、日差しを避けようと木陰に逃げ込む。ふと見上げた木は常緑樹ではなかっただろうかと一瞬首を傾げる。画伯は植物の生態に明るくはなかったので深くは考えなかった。この違和感が形となって表れたのは、数週間経ってからのことだった。



「先生。依頼していた絵本の挿絵なのですが、太陽が紫色なのは仕様でしょうか」



は、と擦れた声が零れ落ちた。動揺して倒したマグカップから零れた珈琲が、仕事で送られてきた書類を真っ黒に染め上げていく。嫌な予感がして、慌てて送った絵のサンプルを引っ張り出す。が、何度見ても太陽は黄色で描かれている。だが、依頼人がこんな無茶苦茶ないちゃもんをつけてくるだろうか。ここで言い返してもトラブルになることは、メディアを絡めた数年の仕事経験が教えてくれた。確認して折り返す旨を先方に伝え、電話を切る。心臓の音がやけに大きく聞こえて、思わず手が震えた。別室で仕事をしていた夫をアトリエに呼び出して、事の顛末を話して絵を見てもらう。彼はしばらく沈黙して、何も言わないまま画伯の手を握った。



それが、答えだった。


同じような電話、問い合わせは連日続いた。紫の太陽に始まり、カナリヤのような烏。灰色の湖。色彩使いで評価を得た彼女にとって、色を識別できなくなることは致命的であった。描くことが恐ろしくなって、でも受けている仕事は変わらずある。気分を変えようとネットニュースを開くと、自分の顔がサムネイルに使われた記事が目に入った。『新進気鋭の画家、地位陥落か』と題された記事だった。絵の色がおかしい。差し替えを対応してくれたが、色使いに曇りが見られる。などと書かれた記事を一通り読んで、画伯は頭を抱えた。病院に行くべきだろうか、と考えもした。画家が色覚異常を訴えたところで仕事がなくなるだけではないだろうか。だが、身体の異常を隠し続けても何も進まないのは、ベートーヴェンという歴史が証明している。先日の脳の病気が関連しているのかもしれないと、忙しさにかまけて定期健診をさぼったことを嘆いても後の祭りだ。とにかく病院の予約を入れようと、アトリエから出ると、夫が神妙な顔をして電話をとっているのが見えた。


 目が合った瞬間に、彼の顔がゆがむ。手元に在った一枚の付箋を大きな手で隠すようなしぐさをしたが、画伯の方が一瞬早かった。


「なに、これ」


付箋に羅列されていたのは、依頼を受けている企業の名前と依頼内容だった。絵の作成依頼を受けていた個人名もある。中には彼に教えていない仕事もあった。大きな手が、画伯の手ごと付箋を包み込み、ぐしゃりと紙の潰れた音がする。


「これ、なに」

「……僕がキャンセルした」

「嘘!!」


脳が揺れるほど叫んだのはいつぶりだっただろうか。わかっていることに、偽りをかぶせようとする彼のやさしさが、今は地獄のように辛かった。


「ネット記事、見たんでしょ」


顔に苦渋が広がるさまを見た。


「わかってる。大丈夫。叫んでごめん。一時的なものだと思う、疲れてるのきっと」

「病院に行こう」


 俯いていた顔を上げる。覚悟を決めた声音でくれたのは、欲しかった言葉で、欲しくなかった言葉だった。


◆◇◆◇


結論から言えば、原因は間違いなく脳にあった。いくつか色が見分けられなくなっていた。幸い視力がそれに伴うことはなかったが、問題はその症状が急激に悪化したことにあった心因性といわれているが、結局原因はわからない。運命は画家の視界から彩度だけを奪っていった。色を愛した画家の手元から、極色彩の羽をもった鳥は飛び去ってしまったのだ。


『色盲の画家。かつての栄華』と題されたネットの記事をみた。みた、と表現するのは、呼んだと表せるほど最後まで記事を読み切ることができなかったからだ。バベルの塔、イカロスの翼、瞼裏の深淵。絶頂を極めたものはいずれ堕ちていくのか。などと洒落た文句で始まった記事を、忘れてやることなどこの生涯でありはしないのだろう。ただひたすら、ひたむきに絵と向かい合って、極色彩の景色を追いかけて。たどりついたのは白と黒の無情だった。



声にならない絶叫をあげる。 両手をカンバスに叩きつけて、また叫ぶ。

なんで、どうして。置いていかないで。わたしを、わたしだけにしないで。わたしだけのせかいを、うばわないで。



描いた。描いて描いて描いて描いて描いて、ただひたすらかいて、えがいて、何もかもを忘れて描いて、その度に現実を叩きつけられて、また描いた。 やがて起きていられなくなって、カンバスを床に置いて絵を描いた。ぐちゃぐちゃになった絵の具さえ、もう何の色なのかいつだした色なのかわからない。


描く。描いて。えがくの。描かなければ。かけないのなら、わたしじゃない。


唐突に、大好きな、大きな手が、そっと添えられた。


「ごめんね」


ばきりと、折れた。


ちがう。おられたのだ。だれが、なんで、どうしてと、声を上げる。舌が回らなくて、言葉にならない。喘鳴に高い悲鳴が耳を打つ。目の輪郭が熱くなって、何も見えなくなる。 筆を折った両手が、同じ両手が、女を抱きしめた。


「これしか、なかったんだ」


忘れもしない。文字通り、筆を手放した瞬間だった。


◆◇◆◇


けたたましい音に、意識がふっと呼び戻される。


火を点けていたやかんが沸騰したようだ。あつくなっている場所に触れないようにやかんの蓋を開けて、ビニール袋から麦茶のパックを取り出す。念のためにとパックに鼻を近づけると、思った通りの匂いがした。パックをお湯の中に沈めて、タイマーをかける。部屋にかかった時計を見上げると、そろそろ帰ってくる時間だった。


勢いのいい鈴の音と何かがぶつかり合う音がしたかと思えば、家のインターホンが鳴り響いた。


「ただいま!!」

「おかえりなさい」


鍵を外してドアを開けると同時に、にかりとこちらを見上げる歯抜けの笑顔が飛び込んできた。画界から離れて数年、色彩は視界から消えたままだ。子が生まれ、大病をすることなく無事育ち、今やランドセルを背負ってあちこちと忙しなく駆け回る日々を送っている。ランドセルの色は水色だそうだ。かつでは男女で黒と赤に色が分かれていたものであるが、時代はどう動くかわからないものである。


子は夫と似たのか随分とおしゃべりで、楽しそうに学校の友人や先生、教科書を持ち出して授業の話なんかを矢継ぎ早に話す。最近の流行は国語や社会の資料集らしい。授業の本題とは逸れた雑学的なものに興味を示すのは年相応らしく、母たる彼女にも身に覚えがあった。


授業中に読んでいたらしい面白かった内容について話す子供に、授業を聞くよう小言を漏らしながら一緒になって資料集をのぞき込む。室町時代に建てられた金閣寺銀閣寺について、建築や内装について写真と共に説明書きが加えられていた。ひとつ資料集のページをめくると、そこには聞き覚えのある名前と、とある絵が掲載されていた。


「雪舟」


脳裏に浮かんだ、予感があった。水墨画といのうは現役の時にも見たことがあった、自分とは全く逆の作風。限界までそぎ落とした彩度で描かれた、ひとつの芸術。


最後の希望というばかりに、彼女はその日を境に水墨画について調べ始めた。雪舟、長澤芦雪、円山応挙。用意するべきもの。今描いている人名。学べる場所。どうしてここまで熱を注いで調べるのかと自問して、一つ自覚したことがあった。もう色が分からなくても、それでも、絵が好きなのだ。

すべての情報がそろったところで、かつて画家だった女は夫にやっと事の顛末を話した。


彼女の願いはただ一つ。


「もう一度、絵をかきたい」

「……わかった」


寄り添い続けた男は、あの時と同じように、どこか覚悟を決めた声で、ゆっくりと頷いた。この歳になって、新たなことを始めるというのは生半可な覚悟ではできない。毎日スポンジのように何かを吸収してすくすくと育っていく我が子をないがしろにしないこと、ちゃんと健康に留意すること。その他いくつか約束ごとを交わして、最後に夫婦は手を重ね合わせた。


「ごめんね、あの時」

「わかってる。今でも怒ってるけど、きっと許せないけど、必要だった」

「許されたいわけじゃない。君を殺したようなものだ」

「大丈夫。ぜんぶわかってるから」


◆◇◆◇


翼をもがれても、色彩の楽園から追い出されても、しがみついてすがりついて、再び筆を握って立っている。


旅が、また始まる。


モノクロの世界は、彼女にとってひとつの自由な海になったのだ。


ピシリと、床に紙を伸ばす。冷たい感触の文鎮で紙の両端を押さえてから、元の色がわからなくなったバケツの置き場所を確認する。墨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。


(現役時代に家のローンを払いきっておいてよかった)


またこうして、この部屋を使うことができるとは思わなかった。筆をおいてから本当に最低限の掃除しかしていなかったらしく、数年ぶりに部屋に入ったときは物の配置も何もかも変わっていなくて驚いたものだった。変わったのは油のにおいがしていた部屋がもうすっかり墨の匂いに切り替わったことと、夫が決してこの部屋の扉を開けなくなったことくらいだろうか。


変わらないこと、変わったこと、変わっていくことを思う。雪舟は禅僧でもあったという。無常の世界に、彼は何を見たのだろうか。


画本を開く。毛並みを整えた先端が、しっとりと重くなる。筆先が尾びれの様になびく。



墨色の飛沫を上げて、白を泳ぐ。


不自由を、泳いでいく。

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