君のためにもう一度

@kubiwaneko

君のためにもう一度

1章『繰り返す世界』


今日がもう一度きたなら、今これを読んでいる君はどんなことを思うだろうか。

――失態をやり直せる?

――抜き打ちテストを知れる?

――嫌いな奴に合わずに過ごせる?


まぁ、色々あるだろう。だがどれも、『やり直せて嬉しい』という感情に帰結することと、僕は思う。

そして同時に、今日がもう一度来たことに対しての僕の感想は――、


「……クソッタレ」


である。


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先程まで、家出をして歩き、公園で休憩をとっていた。

寒い空気に反して暖かい日差しが僕に向かって降り注いでおり、1度公園のベンチに座って休んでいた。

そしてウトウトしてきたから1度脳の休憩のために睡眠をとれば、どうだ。


「……なんで家の天井なんだよ」


幸い家出した日に起きた時刻と同時刻に起きている。だから、たとえ今日が繰り返したとしても僕は家を出るのだ。


「……準備しねぇと」


サッと跳ね起き、階段を降りる。この家は2階建ての一軒家である。普段からしている努力の甲斐あってか、階段から軋む音を微塵も出さずに僕は一階に降りることに成功する。

この時間はまだ親は寝ているのだ。

冷蔵庫から多少の食料、そして既に用意してある衣服の詰まったキャリーバッグを手に取りいざ出発だ。

今現在の日付は、2/15。

僕は黒の短パンに白のTシャツで家を出た。

先日降った雪がまだ所々に残っている。

家から出て真っ直ぐに進めば、右か左かのT字路に出る。その大通りに沿って線路も建設されている。

僕はキャリーバッグを転がして右に進んだ。こちらの方が駅が近いのだ。


「繰り返すなんて冗談じゃない。選んだ道が変わればどっかでループも――」


早朝の2月。キャリーバッグのローラーを転がし、道路にコロコロと音を響かせながら白い息を吐いて、僕は呟く。

そう言って1度目を閉じ、開けば――、


そこにはまたしても見慣れた天井が広がっていた。


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「はぁ!?」


と、僕は思わず大声を出してしまった。いつの間に僕の瞬きにはタイムループの能力が備わったのか。


「いやいやいやいやほんとに冗談じゃないぞ」


苛立ちを見せ、頭を掻きながら僕はまたしても布団から跳ね起きる。

そして冷蔵庫から同じように食料を出して、キャリーバッグを手に取りいざ船出の時である。

これで準備をするのは3度目のせいで、少し手際の良さが上がっている。


「船出っての正しくないけどな?」


そんな戯言を呟きながら僕は玄関の扉を開く。

音がならぬようゆっくりとドアを開き、同じようにゆっくりと閉める。

家を出た左手側にあるのが大通りである。

1度目は大通りを左に。

2度目は右に進んだ。


「……1回目なぞるか」


そう言い、僕は素直に1度目をなぞることにした。

左を正面として進めば、その大通りは段々と右に緩やかにカーブする道となってゆく。

そしてそのカーブとは逆方向の細い道。前回はその細い道へと行ったのだ。

そして確か、細い道を通ったときに出会ったのが――、


「冬休みになにしてんの?」


と、優しいという雰囲気をまるごと詰めたような少女の声で、背後から質問が投げかけられる。


振り返れば、そこにいるのはサラサラの黒髪を腰まで伸ばした少女である。身長は小さく、確か152cmと言っていた。(からかおうとして本気の目で睨まれたことがある)

小動物のような雰囲気の漂っており、小さい顔に少し大きい丸メガネをつけている。

もこもこの白セーターに長ズボンと、随分と暖かそうな格好をしている。

――思い出した。1回目のときにこの道を通ると、この『幼なじみ』に会ったのだ。


朱里あかりじゃん、なにしてんの」

「いやそっちこそなんでキャリーバッグ?」


質問にノータイムで質問で返された。1回目も同じような会話をしたのだろうか、あまり覚えていない。

ぽけーっとした顔をしているので、ノータイムの質問返しは悪意のない行動である。


「キャリーバッグは……あれだよ、旅行の下見だよ下見」

「怪しいなぁ」

「怪しくない」

「いやいや」

「いやいやいや」


阿吽の呼吸である。息の合いすぎた会話を繰り返し、いつも思うのが、


――どうやって会話終わらすんだ?


である。

流れるまま流されるままに1度したことはあるが、そのときどれだけどうでもいい内容の会話が繰り広げられたことか。


「いやでもキャリーバッグって見た目重いけど……」


もう、無理矢理にでも会話を引き戻そう。


「朱里はなにしてんの?」

「ん〜……? ――ちょっとね、散歩」


返事に少しの間があったのは、会話を無理やり終わらせられたからだろうか。

というか、今僕はそんなことをしている場合ではないのだ。


「じゃ下見あるからこれで」

「――っぁ」


嘘の理由を堂々と述べて、またキャリーバッグの取っ手を掴む。

会話も終わりを告げ、早朝独特の雰囲気を味わいながら、僕はまた再出発しようと一歩踏み出し――、


「あ、途中までついていっていい?」

「ん……まぁ、いいけど」


元々下見は言い訳だし、幼なじみである朱里には事情がばれても良いだろう。僕から明かす気は無いが。

――そんなことを思いながら、僕と朱里は細い道に共に入っていった。 


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入った細道は一本道で、一軒家をしきる壁が並んで道を形作っている。

始めて見たときはアニメに出てくるような道だと思ったりもしたが、もう見慣れた光景である。


「なんか、早朝って雰囲気違うねえ」

「そうか? 僕は見慣れたけどな」

「私外でないから」


――少し、悲しそうな顔だった。悲しそうな表情で、朱里は笑っていた。

それに伴ってカラカラと響くキャリーバッグの音は、僕がその笑顔を見ていないフリという証である。


「そう言えば、妹元気?」

「え、あぁ……うん、元気だよ」


1度朱里の忘れ物を届けに来てくれた妹がいたことを、僕は唐突に思い出した。

確か、朱里の家の家族構成は朱里と母親と妹の3人家族で、父親は――、


「あー!」


朱里が髪を揺らしながら僕の隣を歩く。

そして何かを見つけたのか驚いた声を出して僕のことを追い抜いた。その先には、


「見て! 猫ちゃん!」


早朝の街を我が物顔で出歩く三毛猫がそこに居たのだ。

警戒心が薄いようで、朱里が近づいても気にしていない。


「かわいいー……ね、朝っていっつもこんな感じなの?」

「まあ、その猫は初めて見るけどな」


朱里は早朝に出歩くことは少ないから、散歩している猫がいる景色も新鮮に見えるのだろう。

他にもブチネコや黒猫、白猫も見たことがある。


「ほら、行くぞ」


座って猫の毛並を味わって立ち止まっている朱里に、僕は少し先に行って手招きをする。


「バイバイ猫ちゃん……」


物凄く残念そうである。

またしても2人は無言で道を進む。

無言なので、当然響く音はローラー音だけなのだが、朱里が些細なことで立ち止まるのでその音もかなりの頻度で音が止まる。


「あ、神社だよ」


そして、猫から離れて十数秒でまたしても音は止まった。

一軒家の立ち並ぶ中、その中に神社が建っていたのを朱里は見つけ、またしても立ち止まったのだ。


「――この神社、入ったことなかったな。……っておい」


僕が何かを言う前に、朱里は素早く神社の中へ入っていった。

しょうがないので僕も後に続こうと思い神社に一歩足を踏み入れた。

神社にはまた、早朝とは違う雰囲気がある。

それを朱里にも共有しようと思い、先に入った朱里を探して辺りを見渡そうとした瞬間、


「……っ、助け」


朱里らしき声が聞こえ――、


「あ、途中までついていっていい?」

「……まじかよ」


またしてもループが起こっていた。


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「もしこれがゲームだったら、クソゲーだろこれ」

「……? ついてっちゃだめだった……?」

「ん、あぁ、別にいいよ」


何が原因でループが起きたのか。

そのことに思考を割き、朱里からの質問には思考を挟まずすぐさま了承した。

そして、僕の中で固まった方針は、


「――道変えてみっか」


朱里に聞こえぬ声量で呟き、今度は右のカーブに行くことにした。

右のカーブを進んでゆけば、見えるのは僕達が通っていた中学校である。

校庭が広く、端に大きい紅葉の木が植えられている。が、今は閉まっている。


「学校、入ろうよ」


前回は初見の神社に躊躇なく入り、今回は中学校に忍び込みである。

幼なじみで性格は良く知っていると思っていたが、こんなに好奇心旺盛だとは知らなかった。

朱里の行動はまたしても速く、フェンスに足と手を引っ掛け、なんとか登って学校の敷地内に侵入した。そんなに苦労するほど高いフェンスではないのだが。

僕も学校と外を区切るフェンスを乗り越え、中に入る。


「朱里ー」

「ん?」

「閉まってるんじゃね、鍵」


やはり、中学校とはいえどもここは公共機関である。泥棒対策や不審者が入らぬようにしっかりと防犯してあるはずだ。その防犯の最たるものが施錠であるのに、どうして鍵が開いている筈があろうか。


「あ、開いてる」


――開いてた。

中学校の昇降口の鍵はかかっていなかった。こんなガバガバで大丈夫なのだろうか。


「入ろー!」


躊躇なく朱里が校舎内に入っていく。

前回と違って今度は朱里が先に進んでいく状況となっていた。

少し年季の入った中学校は、朱里が一歩歩く度にギシギシと年季を感じさせる音を響かせ、そしてなにより、


「……中学校に誰も居ないって、なんか変な感じするな」


それが忍び込んだ末に僕の胸に生まれた、率直な感想である。

朱里は時折教室に入っては室内に展示されている作品を見ていた。

ここまでくると不法侵入のオンパレードだ。

今僕たちがいるのは3年生の教室がある2階。

廊下に張り出されている作品は俳句。

教室のロッカー側に展示されているのはテーマなしの、400字詰めの原稿用紙1枚の文章である。

僕も後を続いて中に入り見ていく内に、2人で

面白い文章の作品を報告し合うなんてことが始まっていた。


「見てこれ。『いぬとねこどっちが強いのか』ってテーマだよ」


朱里は笑いながら僕に手招きする。

その文章はいかにも中学生という感じの作品であり、方向が迷いに迷った挙げ句、結論として猫は液体だから強いと書かれていた。


「なんか……中学生って感じするな」


僕も笑いながら感想をこぼす。僕も面白い作品を見つけようとなんとなく目を流す中、1つ、気にかかった作品を見つけてしまった。


――『ぼくのかぞくについて』というテーマの、まだ読みにくい字で綴られた1枚の作品。

僕は立ち止まり、その作文を静かに読み始めた。

内容は、親への感謝を綴っただけのような、ただただ家族を褒めるだけの内容だった。


――親なんて碌な存在じゃないのに。


僕は立ち尽くし、親を良い存在だと思っているこの作文の制作者にやるせない気持ちを持ってしまう。


「……あ」


すると、少し先で朱里が小さく声を漏らした。

今の校舎は人が居ないから、小さい声でもよく響く。


「なんかおもろいのあったの?」

「……あ、そうじゃなくて……先行こっか!」

「……?」


――朱里の態度が急に不審になってしまった。

何を見つけたのだろうか。

だが、その態度の急変した教室の中を覗こうとした直前、階段を数段登った朱里が先でこちらに「行くよー!」と言っていたせいで確認できなかった。


「……まぁ、気にするもんでもないか」


そう呟きながら僕は朱里についていった。


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――これはまじでやばいことをしていると思う。

僕の目の前で屋上の扉を開く朱里を見て、僕はそう思った。

最終的に着いた場所は屋上への入口だったが、流石に鍵がかかっている。すると朱里は無言で職員室に直行し、なんと屋上への鍵を盗ってきてしまったのだ。

西口と東口の2つの入口のうち、僕らは東口から屋上に侵入する。


「なんの執念がお前を突き動かしてるんだよ……」

「そんなもんじゃありません」


呆れた風に言う僕に対し、微笑しながら朱里は返事を返す。

屋上について何をするのかと思えば、ただ座って空を眺めるだけだった。


「空綺麗だなぁ」

「ねー」

「それはそうとして屋上まできて何してんの僕ら」

「……日向ぼっこ……?」

「まだそれできる程太陽やる気出してねえよ」

「……ふふっ」


中身の無い会話である。

だが、双方それでも別に良いとわかっているから、こんな脳天気な会話が繰り広げられるのである。

またしても会話が止まる。

いつしか座っていた体勢は寝っ転がるようになり、青空と流れる雲を見て、雲の形がなにか似たものに見えたら相手に言うようになっていた。

羊、猫、トラック、お皿、こうしてみると色々な形の雲がある。

だが、空を見るだけでは段々と眠くなってくる。

体勢も相まって、かれこれ20分は空を見ていた2人は、いつしか眠りに――、


「……っいかんいかん」


僕は手放しそうになった意識の首根っこを掴み、現実に引き戻す。

見ればいつの間にか朱里は屋上の端のフェンスに手をかけて立っており、遠くの景色を見つめていた。


「……あ、おはよう」

「え、マジで寝てた? 僕」

「うん。ぐっすり」

「まじかよぉ」


――そこで会話が止まった。いつもなら中身のない返事が返ってくるのに。


「……ねぇ」

「ん?」

「……ありがとうね」

「……ん? 何が――」


神妙な声で、朱里は唐突に僕に感謝を伝える。

そして次の瞬間。


――朱里はフェンスを乗り越えて屋上から飛び降りていた。


「朱里!?」


手を伸ばす。だが、もう届かない。

落ちる体はぐんぐんと加速していく。

緩慢になる世界、まるでしかと目に焼き付けろといってくるかのようだ。

ゆっくり、ゆったり、朱里が落ちていくのを目撃して、落ちるその最後の瞬間まで見てしまう。

誰も居ない校舎のせいで、落ちる彼女のたなびく服の音がよく聞こえてしまう。

――だから、頭から落ちた朱里から聞こえた、卵の潰れるようなパシャッという音も辺りに響いてしまったのだ。


「……うっ……ぉ、え」


人の死ぬ様を始めてみてしまった。それも自殺。

僕は込み上げてくる嘔吐感を無視しきれずに屋上に吐瀉物を吐き出してしまう。

逆流独特の気持ち悪さが全身に広がり、膝をついて嗚咽を漏らす。

喉に不快感が広がり、思考が纏まらず、頭の中はぐちゃぐちゃだ。警鐘が脳内に鳴り響き、それが段々と纏まっていく思考を邪魔していた。

だが、それで良かった。この惨状を僕が理解したくなかったから。


「う……ぅぷ」


焼け付くような喉の感触に、またしても嗚咽と吐瀉物がセットで口からぶちまけられる。

だがむしろこれが正常である。数秒前まで声を発し、会話を交わしていた存在が地面を赤く染め上げる、最早声も思考も命もない存在へと変わり果ててしまったのだから。これで吐かなければ人間として必要な何かが欠落していると言わざるを得ないほどで、だからこそこの吐く行為は朱里への存在の侮辱だと考える必要はなくてだから感情が収まるまで泣いて喚いてぶちまけるという行動そのものが、人間を示しているのであって、


「ぉ……ぅえ」


益体のない、とめどない思考を無理矢理に続ける。

――何故、という言葉が脳内を駆け巡る。強制的に思考で塗りつぶした脳内を、何故という言葉はするりと隙間を通って僕の脳に存在を焼き付ける。

止まることのない嘔吐感と脳裏に響く潰れた音。

そして脳内を駆け巡る『何故』という言葉を持って――、


僕はまたループした。


2章『軽い忘れ物をしたときのように』


だから、どうして、何故、なんのために。


「あ、途中までついていっていい?」


それから、どうやって、何があって、何を以て。


「……おーい?」


――瞬きの合間に世界がループするのは心臓に悪い。

つい数秒前の感情をそのまま引き継いで何もなかった世界に戻るのだから。

僕の精神を安定させるために脳内に飽和していた、どうでもいい思考が段々と単調になると同時に小さくなっていく。


「あのー……聞いてる?」


すると、僕の視界に朱里の丸メガネとその奥の黒瞳が映り込んだ。

どうやらいつの間にか俯いていたらしい。朱里が僕を下から覗き込んでいる。

そのメガネに反射する青空を見て、僕は1度深呼吸をした。


「……いいよ、ついてきても」


深呼吸し、朱里の目を見据えて僕はそう言った。

そして、わかったことがある。

――このループは、朱里が関係している。

朱里がわかっているかわかっていないかは僕にはわからないが、必ず。


「いくか」


僕は細道を選んだ。

学校を選んで自殺されるなんてこと、もう二度と見たくない。あの音も、脳内に鳴り響く警鐘も、もう二度と味わいたくない。

細道に入り、益体のない会話を交わしながら2人は進んでゆく。

そして、


「あ、神社なんだ、ここ」


――ここが分岐点である。


「入んないからな?」

「えーなんでよ入ろうよ」

「……時間がないんだよ、僕は家出してるからな」

「うぇ! 家出してるの!?」


引き止めるネタを見つけたと、そう思った。

家出しているのは本当なので罪悪感もない。


「まぁ……また今度でいっかぁ」


そう呟いて、朱里はなんとか納得してくれた。

分岐点は無事クリアだ。

早朝独特の雰囲気を味わうデジャヴを感じながら、僕は一本道を進んでいく。

家出してどこに行くかは決めてあるのだ。


「ねー、家出ってどこいくつもりなの?」


丁度質問が朱里から投げかけられる。

親元から離れ、僕の向かう場所は、


「親戚の家だよ。ここから電車で1時間半くらいの」

「お金は?」

「お前は僕が無銭で乗る奴だと思ってるのか」

「うん!」

「このやろー……」


スタートがどうであれ会話の終着点がおふざけになるのは最早お家芸の域である。

――そして、それが今の僕には救いになる。


「私はお金持ってないからなぁ……駅までかな」

「そうだな」


それまで2人は無言で、だが気まずさはなく歩みを進めていった。


細い道から大通りに出て、早朝ながらも少しずつ車が見えるようになる。

そして車道に沿うように鉄道も走っており、この大通りを進めば駅があると一目でわかるような配置だった。

つんざくような冷たい空気を軽く感じながら、僕は大通りを右に進む。先程の細道はカーブしており、結局は僕の目的のT字路の右方向の道と繋がっているのである。


「もうちょいで駅だね」


朱里が呟く。そしてその内容の通り、もう駅が見える範囲だ。

朝だがそこそこ車も道を走っている。せいぜい数分に一台程度だが。


「……なんか、久々に会えて嬉しかった」

「ん、まあ、確かに会ってなかったもんな、僕ら」

「ね」


コロコロという小さい音は、車が横を通る度にかき消されていく。

歩いて、歩いて、一歩ずつ。

僕は瞬きをする度に、一瞬身構えてしまうが、幸い何事もなく駅に着くことができた。

――果たしてこれでループは終わるのだろうか。


「……やってみねえとわかんねえな」

「ついでだし私も駅内までいって見送るよ」

「ん、ありがとう……?」

「なんで疑問形なの」


変わらず微笑しながらの返事である。

僕はキャリーバッグの中に入れてあるスイカを取り出し、朱里は駅員に「駅に入るだけなんですが……」といって色々事情を話し、優しい駅員だったようで無料で駅に入れてもらえることになった。


僕はスイカをかざし、ピッという機械音が響かせる。

何故か駅員が驚いた顔をしていたのがひどく印象的だ。何故驚いたのだろうか。


「存在感薄くて見えなかったんじゃない?」

「心を読むな心を。というかそんな僕存在感無いの?」

「うん、ない」

「断言するんかい」


最後の最後まで、ちゃんとふざけるのが僕と朱里なのだ。

――もう、警鐘は鳴っていない。脳内で乱反射する『何故』も、聞こえない。

そして、列車が到着する。早朝、朝5時の電車である。

何を言っているのかイマイチわからない車掌の言葉を聞きながら僕はキャリーバッグを持ち上げて電車に乗り込んだ。


「じゃーねー」


朱里が手を振ってこちらを見送ってくれる。

鉄と鉄の擦れる音が微かに響き、ゆったりと電車が進み出す。

最初は目で追えるほどの遅さで流れていた景色が水でぼかしたように輪郭が曖昧になっていく。流れていく景色は電車が高速で進んでいる証拠である。

――1人で乗る電車、僕がしていたことは思考と予想だった。


「なんでループが起こるのか」


まずは確定していることとして、朱里が確実に絡んでいることである。

そして本当に朱里の『死』がトリガーとなっているのか。

そもそも1回目は何故僕が寝るまでループが起こらなかったのだろうか。朱里が死ぬことが原因だとしたら1度目は昼過ぎで朱里は死んでしまったことになる。だが、神社に入っただけでもループは起こったし、なんなら朱里と出会わない道を選んだ瞬間にもループは起こったのだ。

そもそもこのループが終わる条件はなんなのだろうか。ループする条件に朱里がいるのなら、当然終わりの条件にも朱里が入ってくるのではなかろうか。


「あ。……ってことは」


電車のイスの感触を味わいつつ、僕は足を組み替えながら一つの結論に辿り着いた。

――朱里と離れた今、いつループが起こってもおかしくないという、結論に。


「……ないことを信じよう」


苦笑いをしながら僕はその希望観測をひとまずの結論とした。

タイミング良く電車も次の駅につくようだし、区切りとしては丁度いいだろう。

電車が止まり、座っている僕が感じる慣性の法則は微量である。

僕の座っていた車両に乗ってきたのは、サングラスをかけて髪を金髪に染めた如何にもチャラですという格好をした男性たちだった。

4人で電車に乗り込み、それぞれ髪は同色の癖にネックレスだけちょっとずつ違う。


「おー! 誰も居ねーじゃん! 騒ごうぜ!」

「ウェーイ!」

「「ウェーイ!」」


非常にうるさい4人組である。

他人に迷惑をかけていることを理解できてないこういう人種が、ネットやらなんやらで晒されるのだろう。やはりこういう人間は無視が1番だと僕は考え、もう目的の駅まで寝てようと――、


「……え?」


――今このチャラ男はなんと言った?

今この車両には僕がいる。なんなら僕の目の前で4人がヤンキー座りして迷惑を振り撒かれている程だ。通報したって許されるだろう。だが、この4人は僕のことを気にも留めていない。それどころか、『誰もいない』と言ったのだ。

無視ではない。

無視であれば『無視をされる空気』というものが、確かに無視される側は感じてしまうものなのだ。だから、この4人は僕を無視ではなく――本当に見えていないのだ。


「……あの」

「うわっお前タバコはやべぇよ」

「それな? うわーないわー」


不快な笑い声を上げながら電車で4人はタバコを吸い始める。

嫌な予感がした。組んでいた足を元に戻して、僕はもう一度声をかける。


「……あの!」

「酒いく? いっちゃう?」

「犯罪者いまーす! おまわりさーん!」

「お前も飲んでんじゃん」


聞こえているが無視しているという雰囲気ではない。

僕は初対面の相手だがどうせこんなやつだと、失礼だとは微塵も思わずそのチャラ男達に触れようと手を伸ばし――、


「……うそ、だろ……」


――伸ばした手はチャラ男を貫通していた。

ワックスガチガチの金髪も、がさがさの肌にも触れない。そしてその瞬間に僕は思い出したのだ。 



「……そうだ、僕死んでるんだ」


――思えばおかしなところは沢山あった。

2月に短パンTシャツの格好をしているし、学校の床は朱里が歩いたときにしか軋む音を発さなかった。

――僕がどれだけ歩こうが、決して軋む音は響かなかった。それに、朱里のメガネに反射して見えたものも青空だった。普通なら、僕の姿が反射するはずなのに。きわめつけは駅員の反応である。

僕が見えていなかったから、駅員は勝手に反応した機器に驚いたのだ。


「ってことは、僕幽霊なのか」


――家を出たあとに軽い忘れ物に気付いた時にこぼれるような声音で、僕は自分が死人である事実を口にした。


3章『君のためにもう一度』


親は共働きで、いつも帰ってくるのが遅かった。

気づけば両親は不仲になっており、帰るたびに口喧嘩をしていた。

――多分、父親のほうが比較的まともだったと思う。

元々初めての口論の原因は仕事が遅くなると報告した母親が男と食事に行っていたからだ。

そこから亀裂が入り、些細な事でも喧嘩になっていくようになった。父親は怒れば物や人に当たるし、母親はヒステリックに泣き叫ぶ。

父親には何度か殴られたが、怒っていない時は母親より話の通じる人だったから、僕は母より父に頼っていた。

父親が仕事に出かけると母親は父親の仕事場に迷惑電話をかけて嫌がらせをしたり、わざと父親の食器を割ったりしていた。本人は正当防衛だと信じて疑っておらず、被害妄想を垂れ流すような人間だった。


――ある日のことだ。

父親は帰ってこなかった。話の通じない母に嫌気が差したのだろう。何も残さず、綺麗さっぱり痕跡を断って消えていた。

感情に任せて壊した机の修理費だけがポツンと置いてあることを見たときの僕のなんとも言えない気持ちは、今でも覚えている。


口論の相手がいなくなり、家には僕と母だけになった。母は口論の相手である父親がいなくなったことに感謝に感謝を重ねて――結果、歯止めの効かない毒親の誕生である。


「……見てこれ。飲み続けたら幸せになれるお水なんだって」


仕事先の男と繰り返し食事に行き、そしていつだったか帰って開口一番の言葉が今のものである。

ただの水道水を『聖水』と言って月何万円をその水にとかす母を見て、もうダメなのだなと悟ったことを今でもよく覚えている。


「今流行りの病気は政府の流した嘘なんだよ。だからワクチンなんてうったらだめだよ」


諭すような口調なのが余計に異常な精神性を際立てている。だから、それとなく流したら泣き始めたときは驚いた。僕はそれとなく何度か止めたのだ。

表立って止める勇気がなくても、時間をかけて接していればいつかはもとに戻るだろうと。

――だが、母親は止まらなかった。


「……ねぇなんでご飯ないの? 作ってくれないの? 母さんのこと死なせたいの?」


酒がきれるといつもこうだ。

躊躇なく僕のことを叩いてくる。

1人で何かをすれば何故相談しないのかと言われ、先に相談すれば何故1人で考えないのかと言われる日々。僕がもとに戻ると信じていた母親は、なんと元からおかしかったのだ。それが酒と父親の不在により拍車がかかって、異常な精神が顕わになっただけ。

酒がきれたらふらふらと家を出て大量に買って帰ってくる、年金を使い潰す害虫。


――それが僕の母親だった。


          ■■■


そんな明るい未来の見えない家族と過ごし、いつしか世界が黒と白のモノトーンで構成されているようにしか見えなくなった。

いつも耳鳴りがして、クラスメイトに近づかれると条件反射で体がビクッと跳ねてしまう。

ノイズの被さった世界で、白と黒の世界で、どうやって同級生と仲良くなれというのだろうか。

そしてなんとなく僕の家族関係を察したのか、いつしか僕に関わろうとするクラスメイトはいなくなった。


学校に行き、授業の内容を右から左に聞き流す。休み時間は周りで飛び交う声を煩しく思う日々。

帰って母親の相手をして、機嫌を取りながら母親が寝るのを待つ。

朝は母親より早く起きてご飯を作っていないの怒られるから、段々と早朝に起きるような体になっていった。

そんな、一目でわかる狂った日常を、僕は何日も何ヶ月も、続けて、続けて、続けて。

最早頼れる存在などいなかった。世界は、ずっとこのまま僕など見捨てて回るのだろうと、いつも思っていた。


「……八幡朱里です! よろしくお願いします!」


そんな中、そのモノトーンを鮮やかに色づけてくれた存在が、朱里だった。

高校生活に、朱里のおかげで色が付いたのだ。


「あれ? 小学生の時の……! 久しぶり!」

「……久しぶり」


小学生ぶりだ。当時はよく一緒に遊んだ記憶がある。中学に上がる頃、朱里は転校してしまったが。

――そして、その挨拶のときに僕は気付いた。朱里は僕の近くに寄っても体が拒絶を起こさない、唯一の友人だということに。

朱里は明るく優しい性格だから、転校してもすぐに周りと打ち解けていた。


「ほら! 隅でうじけてないでさ――」


クラスメイトと外に遊びに行こうとする中、朱里は僕も誘ってくれた。

僕も、朱里と一緒なら体が震えることがなく、少しずつ、ゆっくりとクラスメイトとの交流ができるようになった。

すぐに家に帰ることもなくなり、朱里となら、同級生とも話を交わすことができるようになったのだ。 


「……詳しく言ったら嫌われるかもしんないからぼかすけどさ」

「んー?」


朱里と2人で学校から帰っていた日、なんとなしに朱里に話を切り出した。


「――僕の母親がやばいんだけどさ、なんか対処法とかってある?」


本当の異常者とは思われぬよう、笑いながら相談する。

――まるで、普通の家庭でよくある親への愚痴のような雰囲気で。

母親の異常性を伝えれば、父親のように朱里も離れていってしまうのが怖かった。


「えー……よくわかんないけど」


朱里は首を傾げて、真面目に考えてくれている。

そして、出た言葉が、


「1回家出でもしてみたらいいんじゃない? きっと親もわかってくれるよ」


という発言だった。


「……」

「……思ってた回答と違った?」

「いや、そうじゃなくて……」


――考えたことがなかった。確かに、家や親なんてしがらみ、出てしまえばどうということは無いのだ。

親といる時間は苦痛だが、高校生など大半の時間を外で過ごすし、これから先の未来が少し明るく見えたと、そう思った次の日だった。


「――朱里の父親、自殺だって」

「えー? なんでなんで」

「娘と母親からの暴言が原因らしいよ」

「えーこわぁ……朱里と付き合うのやめとこうよ」


きっと、前日に朱里が仲の良い女子と、ちょっとした言い合いをしていたのが拍車をかけたのだろう。

最初は朱里のいたグループから。次にクラス。そして学年と、情報は即座に伝達していった。


「朱里、言われてるあのこと、本当なのかよ」

「……嘘に決まってんじゃん」


朱里が言うには、父親はギャンブルで金を溶かして借金三昧をし、夜逃げに夜逃げを重ねてこの地までやってきて、果てには返しきれずに死を選んだというのだ。そして母親はただのヤニカス酒狂いの毒親。だから、嘘も嘘。デマにも程があると思えるレベルの嘘っぱちなのだ。


――朱里も同じように、世界がモノトーンに見えているのだろうか。並んで歩いて帰る中、僕はそんなことを考えてしまった。


「あ、あの、あの、さ……朱里の話……あれ、う、嘘だって……お前ら信じて――」

「はぁ? 何言ってんのお前」


だが、そんなことを僕が話したところで誰も気にせず、朱里から事情を言っても誰も信じはしなかった。

広がって、拡散されて、朱里は異常者だと周りから噂される。

――その情報が嘘が本当かは、誰一人調べようとせず。


         ■■■


――朱里は不登校になってしまった。

高校でクラスメイトと仲良くできていたのは朱里の仲立ちあってのことだ。なのにその朱里が中傷の対象となってしまえば、元々誰とも話さなかった僕が1人になるのも当然だった。

どこまでいっても、僕は1人では何も出来ない人間なのだ。

朱里を助けることもできず、また隅にうずくまる日々。

――世界がまたモノトーンに逆戻りする。

親の機嫌を伺って、クラスメイトとは距離を取る。

そうやって、なにもせずに怠惰に日々を過ごして。


「……このまま通う意味あんのかな」


そう思わず溢れた言葉は、ある日の高校から帰っているときのことだった。

今まで2人で帰っていた道に、1人分の足音しか響かない。明日はどう笑わせてやろうかと考えることも、もうなくなった。

――何もせず、学ぶ意思もない人間に、高校を通うメリットや意味は果たしてあるのだろうか。


「……ないよなぁ」


何かをしようとも思わないが、だからと言って自分の人生を終わらす勇気も出ない。とことん臆病者の小心者、それが僕だった。母親の異常性に気付けない愚図で、周りにそれを隠せない愚鈍な奴で、挙句の果てには幼なじみすら救い出せない、無能で怠惰で無力な人間。それが、僕なのだ。


「ご飯作ってくれないの? 私に死ねって思ってるの? ねえ、息子なら養うのが当然だよね?」


――うるさい。なら殴ってくるな。苛ついたときにわざと大きい音を出すな。自分で自分の世話をしろ。


暗い目で母親を見つめるが、母親は僕のことすら見ていない。酒に溺れて夢と現実の区別すらついていない。


「――いっつも暗くて何考えてるかわかんねえし、あいつ朱里と幼なじみだしな」

「あいつも関わっちゃダメな奴じゃん」


――うるさい。お前らだって情報の出処を調べたりしないじゃないか。反抗したらすぐにビビる癖に、そうやって寄せ集まって1人を責めるな。


脳内で、何度も言われた言葉が反射する。

母親には罵られ、周りの人間からはひそひそと暗い噂をされ、どうしようもできない状況がいつまでも纏わりついてくる。


ふわふわ、ゆらゆら、朦朧として。

グラグラ、ガラガラ、瓦解して。


ふらりふらりと放心状態で歩いて、聞こえる声すら遠く微かで曖昧で。

そして気付けば――目の前にあった景色はトラックのプレートナンバーだった。


それが僕の、一生である。


          1


「こう考えると……なんか、うん、感想言い難いな」


電車で1人、金髪4人組は意識的に無視して電車の中にいるのは僕1人だけだ。

死んだことを思い出し、フラッシュバックした僕の過去。今思い返して見れば、早く朱里と妹を連れて家出すればよかったのだ。


「……だから家出用のキャリーバッグとかあったのかなあ」


――この世には理屈で説明できることが全てではないのだ。どうしてこの世にもう一度幽霊として生まれたのかわからない。もしかしたら家出をしたいという思いから、キャリーバッグが生成されたのかも。

死んだ自覚の無かった1度目の僕は本気で家出をして1人で昼まで過ごしていた。

だから自分で用意したとでも思い込んだのだろう。


「……まぁ、そんなことはどうでもいいんだ」


今ならはっきりとわかる。何故死んだ僕がこの世にもう一度幽霊として顕現しているのか。


――それは、朱里を助けるためだ。


僕の世界を色づけてくれて、僕のノイズを取り除いてくれた。例えそれが一時的なものだとしても、たしかに僕は救われていた時期があったのだ。


――だから、


僕は、君のためにもう一度、ここまで戻ってきたのだろう。


今度は君を救うために。


4章『救える言葉』


さて、朱里を助けるに当たって2つ予測できることがある。

1つはループの条件。恐らく、朱里を助けることができない程の精神的苦痛か肉体的苦痛を朱里が食らった瞬間にループが発生するのだ。

つまり、電車に乗って朱里と離れている今は物凄くループする可能性が高い。一周目も離れていたら寝て起きてループした。

そして2つ目。幽霊である僕が干渉できるものである。人間等の生物に触れることはできないが、無機物になら触れられる。――そして唯一、朱里だけになら干渉できる可能性がある。

朱里にだけ見えているなら、朱里にだけ触れられてもおかしくはない。

揺れながら進む電車の中、反対側の窓から見える家並と空、そして雲の形を見ながら、僕は決意を固める。


「……さて」


瞬きをする。


「さっさと救われろよ、朱里」


――ループが、始まる。


          1


ループにより戻った時間軸は、丁度朱里と出会う場面だった。

進んだ時間は巻き戻り、世界は至って通常運転だ。

違う点としては、死んだことを自覚したからかキャリーバッグが消えた。つまり手ぶらでの家出である。


「……ついていってもいい?」

「ん、いいよ」


――まずは、精神的苦痛の原因を見極める。


「あ、ここに神社なんてあったんだ」

「入る?」


肉体的苦痛は死なら、精神的苦痛はなんなのか。

答えは神社に入ればわかる。肉体的苦痛は中学校で起こったのなら、結末を見れる2つ目のループ場所はこの神社のみだ。

僕は先に神社に入り、朱里のことを手招きする。

他の人間は僕が見えず、朱里は1人のように見えるはずだ。


「……だから、くるはず」


――原因が。

そして、朱里が神社の門を潜り、中に足を踏み入れると――、


「あ……あは、きて、きてくれたんだね」


神社の裏から出てきたのは、油で髪がベタついた、太った男だった。

見た目と言動、まさしく不審者と呼ぶに相応しい風貌である。気持ち悪く動く手と指は本能的な不快感を与えてくる。よくもまあここまで人は気持ち悪くなれるものだ。


「……ッ、たすけ……」

「いくぞ!」


朱里の助けを求める声は、こいつが原因だったのだ。あの時は僕が共にいなかったから、襲われるという精神的苦痛でループが起こったのだろう。

――だが、今は僕がいる。

相手が誰かを確認した瞬間、僕は朱里の手を引いて神社から逃走する。

不審者は逃走した朱里に対して奇声を発していたが関わっている暇はない。即、神社から出て――向かうは中学校だ。


「どこいくの!?」

「中学校! てかアイツ知ってる!?」

「私に……いっつも気持ち悪い手紙送ってきてた人だと思う! 読んでなかったから知らなかったけど、アイツの父親かアイツがここの神主なんだ!」

「あんな神主いてたまるか!」


早朝の空気を切り裂いて、僕と朱里は足を回転させて駆ける。

幽霊なんだから浮遊などできても良いのに。

そして驚くことに意外とあの不審者――早い。

僕が朱里の手を引いて、朱里の可能なぎりぎりで走っている点もあるが、不審者との距離を離せないのである。


「その……脚を……ッ、別のことに使えよ……!」


悪態をつき、そして見えてくるのは静寂の中学校である。

フェンスをよじ登り、敷地内に2人は着地した。

小さい砂埃を手で分散し、再び走り出す。


「朱里! 屋上に行って! 鍵とって僕も行く!」

「え、あ、うん!」


屋上は下手すれば朱里が自殺してしまう可能性がある場所だが、逆に自殺をするほど精神が揺れる場所でもある。

――そこで、朱里を救えれば。

僕は鍵の保管がしてある職員室――の前に、朱里が不審になった原因である教室に向かう。職員室と同じ階なので時間はとらないのだ。

そして、教室のドアを思い切り開き、目に飛び込んだのは――、


「……なるほど」


そこにあったのは、落書きや刃物による傷をつけられた机とイスがあった。

赤の他人のこの惨状を見てあの挙動になった可能性もあるが、それより高いのは、これが『妹の席』であるからだろう。

なんとなく、自殺の理由がわかった気がする。


「屋上……屋上。――これだ」


僕は屋上の鍵をみつけ、手にとってまた走り出す。

朱里を屋上に行かせたのは、先の理由ともう1つあるのだが――、


「あかりちゃぁん……な、なんで、逃げるの……」


来た。紛うことなき天性の不審者が。震える声すら聞いている人間に不快感を与えるところを見ると、最早不審者に天性の才能を持っているとしか思えない。

僕は走り出し、階段を駆け上がる。

あの不審者はこの小学校に入ったことを見ていても、目的が屋上とは知らないだろう。虱潰しに朱里のことを探すはずだ。それだけでかなりの時間が稼げる。


「朱里! 鍵持ってきたぞ!」

「おぉ、ちょーはや」


屋上の扉の前で待機していた朱里と合流して、僕は屋上の扉の鍵を開ける。

室内からうって変わって、外特有の冷たい空気が肌を刺す。

重々しい音を立てて扉が閉まり、屋上にいるのは僕と朱里だけだ。


「……朱里」


――朱里を、助けるのだ。

僕はフェンスと朱里との間の立ち位置に移動して、そして、今度は目を見据える。

伝えるのだ。しかと目を見て、救ってくれた存在を今度は僕が救うために。


「僕は、お前に自殺なんかさせないからな」

「――ッ!」


単刀直入に、一切のお世辞を挟まず、僕は傷口に素手で触った。確実に触れてほしくない話題であろう場所に、土足で踏み込む。

朱里は目を見開いて驚き、そして段々とバツの悪いような表情になっていった。


「……私、そんなにわかりやすかった?」

「いやぁ……多分そんなことないと思うぞ……」


事実、朱里の嘘はループという一種のチート技を駆使してやっと見抜けるほどの技術。それ自体は褒めることのできる技術だが、どうしてそれを習得できたのかを考えると一概には褒められない。

そんなことを考えながら朱里の方へ目をやると、朱里はのらりくらりとした表情をして、それとなくフェンスに近づき――、


「――させないって、言ったぞ、僕は」


フェンスに手をかける朱里の、空いている手を僕が掴んだ。

先程まで見えて――否、僕に見させていたバツの悪そうな表情は消え去って、代わりに顔を出したのは、冷たく冷え切った双眸だった。


「……なら、どうやって私を止めるの?」


――冷たい目。何にも期待していないような、失望した暗い瞳。

冷えた空気の中、僕は感じ取る。


――ここが分水嶺である、と。


          2


早朝の空気の漂う中学校の屋上で、僕と朱里は互いを見つめ合う。

片方は必ず救うと意気込んだ目で。

もう片方は何もかもを諦めたような目で。

――なんと言えば、朱里を救えるのだろうか。

言葉だけで、どう言えば死んでほしくないと伝えられるのだろうか。

時間は有限、リミットは刻一刻と迫ってくる。


「……君を助けたいんだ」


至極真面目に、朱里を見据えて僕は言う。

そう言われた朱里は目を伏せて、僕の握った手を振りほどいて一言、


「……ごめん」


――世界が繰り返した。


         ■■■



「どうやって私を止めるの?」


繰り返したと言うことは今の言葉では朱里を救えないということだ。

恐らく、朱里の心に突き刺さる言葉を見つけなければ、それ以外を伝えた瞬間に『救われる予感』が朱里の中で霧散してしまうのだ。

今度は、言葉を変えて、しかし気持ちの伝わる言葉を。


「……君を、救いたいんだ」


――世界が、繰り返す。


「君とまだ一緒に居たいんだ」


――繰り返す。


「君と――」


――繰り返す。


「君のために――」


――繰り返す。


「君が――」


――繰り返す。繰り返して、ループして。

何度も何度も、やり直し続けた。

その度に手をほどかれて、ぬくもりが消えて、その度に救えなかったことを痛感した。


「……どうやって私を止めるの?」


――何度目、だろうか。僕は何度やり直す機会を貰えば、幼なじみを救えるのだろうか。

だが、挫けてはいけない。生きている僕を助けてくれたのだから、例え死後でも恩は返さなければいけない。


「君が好きなんだ……!」

「……ッ」


初めて、ループが起こらなかった。

繰り返す世界は定例通り時間を進め、時計の針は逆転の兆しすら見せず当たり前のように一定間隔で時間を刻む。

ループは、起こらない。つまり、つまり、


「――あかり」


――朱里は救われたのだ!


「だから……」

「……ね、そういうのは」


救われた、筈なのに。なのに朱里が僕の手をほどく。

ゆっくりと手をほどいて、あまりに優しい手付きだったから、僕は素直に従ってしまって。


「私を救うためじゃなくて……本心で言ってほしかったな」

「――!」


小さく僕の胸が両手で押される。体勢が崩れるがせいぜいよろけるのは1、2歩だ。


「朱里!!」


そのよろけた瞬間に、朱里はフェンスを飛び越えてしまった。また、風が鳴る。警鐘が鳴る。

見たくない。もう見たくなかった。ループが起こらなかったということは、朱里が救われたということなのに。


『……本心で言ってほしかったな』


飛び降りる直前に見せた、朱里の悲しそうに笑う顔。その『悲しい』は最初に見せた悲しいではなく、どこか嬉しさを含んだ悲しさだった。


世界が逆行する兆しを見せる。


そして、繰り返す直前に僕は気付いたのだ。


「……嘘で、僕は朱里を救ったのか」


――世界が、また繰り返した。



5章『八幡 朱里』


物心ついたときから、よくよく引っ越しをする家だった。


「引っ越すぞ!」

「えーまたぁ?」


小学生となった朱里は、ポンポンと引っ越しをする父親に苦言を呈する態度をとるが、まるで相手にされずに次の日にはすぐに家を出た。


引っ越して、引っ越して、仲良くなれそうな予感のする子と出会ってもすぐ離れ離れになってしまって。

だから、


「八幡朱里って、言います。よろしくお願いします」


何回目かもわからない自己紹介。そして、いつから始めたのかわからない、『暗い子のフリ』

もう、朱里は誰とも仲良くなる気がなかった。暗い子を演じて、隅で小さくしていれば、誰とも仲良くならない。なれない。

――誰とも、離れ離れになった悲しみを味わわなくて良いのだ。

だが、


「朱里っていったっけ! よろしく!」


それを演技だと見抜かれたのは、初めてだった。

話しかけられたのは夕方頃で、もう学校も帰りの挨拶が終わったあとだった。


「なんで……私に話しかけたの?」

「だってお前今日ずーーーっと入りたそうにしてたじゃん」

「――!」


こうもアッサリ見破られ、こうも愚直に素直に言われて、朱里も隠す気がなくなってしまった。

だからだろうか。誰にも相談できなかった悩みを、朱里は初めて人に明かした。


「……友達と離れ離れになるって言われたらどうする?」

「えっ……いきなりだなぁ……はなればなれ……?」

「うん、もう会えないかもしれないー、みたいな」

「よくわからんが……大きくなって会ったらいいと思うぜ、俺は!」


「大人はどーそーかいとかいってたっけ」と、自身の言ったことに首を傾げるその様子を見て、先程まで頭の中に立ち込めていた悩みと暗雲は瞬く間に晴れてしまった。素直な彼に、朱里は救われたのだ。


          ■■■


救われた朱里は次の日から元気よく、周りと仲良くなれる小学生となり、別れるときも必ずいつか会おうと約束して、泣きながら笑って別れたのだ。

そして、場面は高校生へと移り変わる。


「八幡朱里です! よろしくお願いします!」


引っ越しにも慣れた朱里は、いつも通り元気な挨拶をして、このクラスメイト達とも仲良くなろうと意気込んでいた矢先、目に飛び込んだのは、


「あれ……小学生のときの……!」

「……お久」


幼い頃、朱里を救ってくれた少年が、今や青年となって席に座っていた。だがあの時の元気さと奔放さはなく、演技ではなく本当に隅で暗い顔をしていた。一人称すら変わっており、本当に何かあったのだとすぐにわかるほどだった。

――だから、助けてくれたから、今度はこちらが助ける番だと、そう思った。


「ほら、隅に座ってないで一緒に遊ぼうよ!」


かつて自分を助けてくれたときと同じように、朱里は声をかける。

暗い顔で俯いて、何もかもを終わりだと思っているような雰囲気が少し和らいだ彼を見て、朱里は嬉しく思うと同時に――彼を好きだということにも、朱里は気付いた。昔から人や自分の気持ちを察するのは得意なのだ。


一緒に帰り、一緒に話し、一緒に笑って。

明るくなっていく顔を見ていると、こちらまで楽しくなってきてしまう。

そんな、明るく楽しい日々は――、


「……おとう、さん……?」


唐突に、だが鮮やかに暗く救えないものへと変化する。


          ■■■


家に帰れば、目の前にあったのは倒れ伏した父親の姿だった。ゆすっても声をかけても返事は返ってこない。理解したくないと思うと同時に、無意識的に朱里の体はいずれ理解した時に来たる衝撃に備えていた。


「あ……うあ、なんで」


世界が、段々とぼやけていく。自身の眦から涙が流れていることを、朱里はわかっていなかった。

――父親は借金ばかりして、引っ越しばかりしていた人間だが、それでも娘である朱里と妹には優しくしてくれた。母親とは違い、確かに彼なりの愛を朱里たちに証明してくれていたのだ。

なのに、どうして。


「ふん。こんな男、死んでせいせいするわ」


金髪をカールさせ、キツイ目付きでそう呟くのは朱里の母親だ。

『こんな』とは言うが、そう息を吐く本人も酒とタバコに依存している中毒者だ。

――朱里が、朱里だけが、妹を守れる存在だ。


「……私が、ちゃんとしなきゃ」 


頬を両手で叩き、朱里は決意を新たにして――


「……きた、父親を殺したやつだ」

「転校してきたばっかのやつにやめてやれよ」


馬鹿にするような笑いとともに、そいつらの中では朱里は父親殺しの屑野郎と位置づけされていた。

ひそひそと笑われ、指をさされて、まるで朱里だけが悪いかのように、話はねじ曲がって伝わっていた。


「……あら、父親殺しの朱里さんじゃない」

「……あなたが広めたの?」


そうわざとらしく声を大にして朱里に話しかけるのは、先日軽い喧嘩をしてしまった同級生の女子だった。その、蔑むような目と哀れむような笑いは、捻じ曲げた原因は自分であると言っているも同義だ。

だが、これでムキになっても仕方がないと、朱里は重々承知していた。

我慢するのだ。妹のために、自分のために。


「……何も言わないのね。つまらないやつ」


その同級生は、何も言い返してこない朱里に興味をなくしたのか、その日からもう関わってこなかった。

――朱里は歯が割れる程噛み締めて、爪の跡が手のひらにつくほど拳を握りしめて、感情を抑えていたことに、周りの人間は気付かなかったようだ。


「……そうだ」


――思い出したのだ。自分は演技がうまかった。

たとえ何があっても、演じて嘘をついて虚勢をはって、1人で乗り切ってしまえば良いのだ。

それで誰も関わってこなくなるのなら、結果は万々歳ではないか。


「……はは」


乾いた笑い。今日は彼とも話していない。

彼と話すのは好きだ。他愛もない話で、馬鹿みたいな内容で、思うままに笑っていれば気付けば時間が過ぎている。――だから、楽しかった。

小学生のときから朱里の性格を知っている彼は変な噂は気にしないだろう。


「……はは」


もしかしたら、あの他愛もない話で生まれる笑いも、ただ演じているだけかもしれない。

彼はそれに気づいて付き合ってくれているのだろうか。

――朱里には、どちらの自分が演じたものか、どちらの自分が本当のものか、もうわからなかった。


         ■■■


「朱里……あれ、本当なのか?」


その声は、信じたくないという感情を含んだ疑問だった。だから、朱里は正直に話したのだ。

父親のこと、妹のこと、母親のこと、自分のこと。

その話を聞いたときの彼の表情がやけに印象的だったことを覚えている。

なにか、理解をするような、同じ境遇の人間を見つけて同情するような、そんな目をしていて。


もしかしたら、この人なら自分を救ってくれるかも、なんて淡い期待を胸の奥で抱いてしまって。

それでも現実は非情だった。朱里が願ったところで母親からの虐待は終わらないし、学校での疎外感は少しも軽くならない。高校生でこれだ。

躊躇や相手の気持を察することをしない中学生など、イジメへの罪悪感など微塵も存在しないだろう。

だから、いじめられて全身傷だらけで泥だらけになった妹を見た時に察してしまったのだ。

――期待なんて、するだけ無駄だと。


「おねえちゃん……」

「……大丈夫。大丈夫だから。きっと、だい、じょうぶ、だから」


妹の手当をして、抱きしめて。

自分と妹に言い聞かせる。


今は悲しいことばかりが起こるが、それでも、いつか状況は良くなるはずだと、我慢して、耐えて、その日を待ち焦がれて。

だが、


――どうやら世界は朱里を嫌いなようだ。


         ■■■


「……なに、これ」


異変にすぐに気付けたのは、朱里が常日頃ポストに入っている手紙を確認していたからだろう。

普段は広告やチラシなど、どうでもいい手紙ばかり入っているが、その日は違かった。

本当の意味での手紙が、そこに、朱里の家のポストに入っていたのだ。


「――」


何故か、冷や汗がした。

寒気の止まらない手で、封をされた手紙を開く。

五感の全て、そして朱里の第六感すら『何処かまずい』と警鐘を鳴らし続けていたが、それでも朱里は手紙を開き、中身を見てしまった。――おぞましい、中身を。


『朝、6時。朝食を作る君は可愛くて素敵だよ。その後、いじめられることも気にせず7時に家を出て学校に向かう勇気も憧れる。でも汚れる君は可哀想だと思うんだ。君は優しくて可憐なのに、アイツらはそれをわかっていないんだ。家事を頑張る君も、勉強する君も、親を世話する君も、アイツらは知らないからあんなことができるんだ』


書いてるときに汗でも掻いたのか、少しシワのある紙に、到底理解しがたい文章の羅列が綴ってある。

――明らかに、普段の朱里をつけていないと出ない言葉が幾つも出てきた。

そして、一番見られたくないところすら、あっさりと見られていて。


『君の一番の理解者はここにいる。どうか知っておくれ。君が好きなんだ』


完全に、日常生活を監視されている。

――一体、神様はどこまで自分を嫌いなのか。

それ以来、夜道や外に出かけるとき、必ずと行っていいほど背後に人の気配を感じ始めた。

毎日。毎日、毎日。毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日、朱里は2つの恐怖に晒され続ける。

いじめられる恐怖と、見られている恐怖で、朱里は折れてしまった。

――妹よりも先に折れてしまった自分が情けなく、それ以来頻繁に自傷行為をするようになっていた。自分を傷つけて、ただひたすらに自分の価値を下げたくて。


――人には見られたくないから、いつも長袖長ズボンを着ているようになった。


「……」


怖い。

外に出るのが怖い。人と会うことが怖い。会話が怖い。相手の挙動が怖い。母親が怖い。いつ何処を見られているかわからなくて怖い。ストーカーの人が怖い。

怖いものだらけで、動けなくて。

恐ろしいものしかない世界で、朱里は勇気を持てなくなった。

妹は通っているのに、情けない姉は母親に『家事を全て引き受けるから』と、おだてて耳障りの良いことばかりを言って不登校となってしまったのだ。


そうやって、ゆっくり、ゆっくりと終わりが近づいてくる。そんな不確定な予感が迫るくるある日のことだった。


          ■■■


その日は雨で、アパートの屋根に跳ねる雨音が五月蠅いくらいのどしゃぶりだった。

妹は学校。母親はパチンコへと向かって、家には朱里ただ一人。何もせず、やる気も出ず、蹲っていた朱里の耳朶を、小さい音がか弱く、しかし確かに打った。


「――?」


音は段々と大きくなる。そしてそれに連れて、なにか聞こえる程度の認識だった音の正体が段々と鮮明になっていった。

サイレンだ。救急車の、サイレンの音が聞こえる。

朱里は、外から聞こえるそのサイレンの音に耳を傾けていたのだ。

何か、物凄く嫌な予感がした。

救急車の音が遠くから聞こえてくる。

その音は近づいて、そして離れていく――はずが。


「なんでこの近くで」


サイレンの甲高い音が朱里の家の近くで動きを止めたのだ。すっかり不登校となっていた朱里は、外で何が起こったのか見る気にすらならなかった。

だが、


「青年1人重体。トラックの運転手は――」


まさか。まさかそんな事があるはずない。

そんな、これ以上状況が悪くなるなど、あるはずが、ないのだ。

ないはずだ。ないはずなのだ。

なのにどうして――、


「……耳鳴りが止まらないの」


ずっと、心の奥底に不安が燻っている。

だから、朱里は勇気を出して外に出たのだ。

そして、玄関を出てすぐに朱里は見た。

――見てしまった。体はぐちゃぐちゃで、辺りには血の池ができている。一目で出血過多とわかる、なんと思慮深い姿なのか。

轢かれた衝撃と飛び跳ねてもんどりうった衝撃で受けた傷が混ざり合い、見るも無惨な彼がそこにいた。


「……ぅ」


咄嗟に目を逸らして道に吐瀉物を吐き出す。

体中が雨に打たれるが、最早頭はそんなことを認識していなかった。

警鐘、耳鳴り、おおよそ体の異常を知らせる本能的な事象が全て発動する中、唯一朱里の脳だけは状況の理解を拒んでいた。


「……いや」


口の端から思わず溢れた声は、短く、しかし簡単に朱里の感情を表していた。


――嫌だ。嫌だ。認めたくない。理解したくない。わかりたくない。

嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


「嫌――!!」


その場にうずくまる朱里の顔をもし他者が見ていたら、なんと哀れな姿かと同情しただろう。それほど朱里は絶望をして、現実逃避をして、それでも受け止めきれない現実を耐えることができないでいる、泣いて鼻水を垂らして無様で情けない顔をしていたのだ。


助けてほしかった。救ってほしかった。小学生の時のように、颯爽と現れてあたかも簡単で当たり前のことかのように、もう一度自分を救い出してほしかった。だが、何度願えどそれは叶わず、いつしか願いは諦めとなり、諦念となり、それでもどこかで期待していたのだ。いつまでも、朱里の心は叫んでいた。助けほしいと、そう大声で叫んでいたのだ。

そう、願って叫んでいたのに、


「なんで……貴方が……」


死んでしまうのか。何故世界は朱里に不条理ばかり押し付けてくるのか。何故、何故、何故――、


そこからのことはよく覚えていない。

ただ、朦朧とする意識の中一日が終わり、今まで通り振る舞おうとして、失敗に失敗を重ねて、早朝から母に殴られ蹴られて癇癪を起こされて家から追い出されたことは、ぼーっとする頭でなんとなくは理解していた。そして朱里は世界の輪郭すら曖昧のまま朝の空気を味わって散歩らしきなにかをしていた。

――もういっそ、自殺すれば彼の同じところは飛べるのではなかろうか。

そんな考えをぼんやりと脳内で転がす中、朱里は見た。


それは紛れもなく、死んだはずの彼だった。


早朝の空気が漂う中、人気のない道に佇む彼を見たのだ。そして、彼はどこか以前の元気を取り戻しており、朱里と共に行動してくれた。

彼と行動するのは楽しかった。いつぶりかもわからぬからかいの言葉を飛ばして、飛ばされて、ムキになってまた言い返して。そして気持ち悪いストーカーから逃げて朱里の手を引く彼の背中を見たとき、もう数えるのはやめた期待の風が、朱里の胸中には吹き荒れていた。

数えるのをやめたのは救われる予感のする回数が少なかったからではない。むしろ、救われないとわかっていても、朱里は些細なことにでも期待をすることをやめられなかったのだ。

きっと、この人に『好き』とでも言われたら、それが嘘でも救われた気持ちになってしまう。

演じて、嘘をついて、虚偽で塗り固めて。

だが朱里は期待していたのだ。

――そして、その期待が叶わぬこともどこか理解していた。

そうして、屋上で自分の手を掴み、こちらを救おうとする目を見た時に、思ったのだ。


期待してはいけない。どうせ救えないのだから、この手は振り解かなければならない、と。


「……どうやって私を止めるの?」


だから朱里には救われる気はあっても、救われる気はなかった。その矛盾に気づけぬほどに、朱里はもう疲れていたのだ。


6章『ぼくのためにもう一度』


――僕は思い違いをしていた。

『何を言えば救えるか』ではないのだ。もう既に、そこから間違っていた。

朱里のことは確かに好きだが、それは恋愛の好きではない。好きと言ってしまうと、それが嘘だとわかりながらも朱里は救われてしまう。そして、嘘で救っても朱里は死を選んでしまう。


つまり、何を言えば良いのか。


「……」

「――どうやって止めるつもりなの?」

「僕は……」


つまり――、


「――ただ、君に死んでほしくないんだ」


心からの本音を、飾り無く伝えれば良いのだ。


          1


「君に死んでほしくないんだ」


――ただ、本心を。君のためにと嘯いて鼓舞した僕自身を戒めて、今は只自分の本心を。


「僕を救ってくれた元気な君をまた見たいし、君と居たら僕の世界は白黒じゃなくなるから」


これは、ただの勝手な自分本位の言葉でしかない。

『僕』が元気な君を見たいだけだし、『僕』の世界が彩られるだけ。

――だから死んでほしくないという、自分勝手な言葉。


「……それが僕の本音で、君を止める言葉だ」


――朱里の手から温もりが伝わる。

ここにつくまで、何度も失敗した。

何度も世界をやり直した。だから、救えなかった朱里がいる世界があることは百も承知だ。これは偽善だと、そう言われても甘んじて受け入れるしかない。

――だが、それは諦める理由にはならない。


「本心だよ。これは嘘偽りのない、心からの本音だ」

「君が嬉しくなるから、私に死んでほしくないってこと?」

「あぁ」


嘘偽りは言わない。気持ちを虚偽で塗り固めない。

『僕』が救われるから、君を救いたいと、まっすぐに伝えるのだ。


          2 


「じゃあ、学校はどうしたらいいの?」

「転校すれば良い」


「……あのストーカーは?」

「あんな不審者、警察に任せりゃ一発だぞ」


「私がまた、死にたいって言ったら?」

「うざがられようが嫌われようが、僕は止める」


「親はどうしたらいいのさ。何しても殴ってくるよ。酒がきれてたら」

「それこそ、家出でもしてみろよ」


「……だいぶ身勝手だね、君」

「死んでから初めて気付いたよ、それ」


「……僕が嫌だから死んでほしくない、か」

「あぁ。生きたまま、朱里も嬉しく過ごせる方法を僕も探すよ」


「そういうの、始めから思いついておくもんじゃないの?」

「僕そんなん考えねえもん。先なんて考えてない。今が辛いなら何をしてでも今を乗り切る。未来なんて、直面したとき考えりゃいいんだよ」


「……小学生の時も、後先考えずに突っ走って迷子になってたもんね」

「いつの話だよ! もう高校生だぞ! なんならそろそろ大学生!!」

「……ふふっ。死んでるのに学校行くつもり?」

「おいデリケートな部分に触れるなよ」

「ふーんだ。そっちだって私のこと必死に止めてきた癖に」

「どーせほんとは止めてほしかったんだろ!」

「そんなことないけど!」

「……ってか今2月だよな。最初会ったとき冬休みとか言ってたけど時間感覚大丈夫かお前」

「うっさいばーか」

「うっせちーび」

「あー!! 良くない!」

「先にそっちが言ったんだろ」

「いやそっちが」

「いやいや」

「いやいやいや」

「――」

「――」


          3


いつしか、2人は満面の笑みで言い合いをしていた。

馬鹿にする言葉が飛び交うが、その声音に相手を蔑む感情は微塵も含まれていない、温かい言い合い。

売り言葉に買い言葉、ああ言えばこう言い、いつまでも、いつまでも、そうやって。思えば、ここまで馬鹿な言い合いをしたのは小学生以来ではなかろうか。高校生で再開した時は、互いにどこか遠慮していた気がする。


「僕に救われたしょーどうぶつがよー」

「チビってこと!?」

「いやそういうことじゃ……ぁ痛っ!」


脇腹に的確な右フック。鋭い一撃だった。

だがそんなことで怒っては男の面目丸つぶれなので、ここで僕は反撃しない。

その行動を取ることによってどうだこれが男だとドヤ顔で――、


「おりゃ! もっぱつ!」

「いっ――ッ!」


思わず軽くチョップを返してしまった。

この小動物は放し飼いをしたら飼い主を食い殺しそうである。

そしてそれを言ったらまた確実に攻撃を食らうから、僕は黙っておいた。そんな、笑い合って馬鹿にし合って。傍から見たらもしかしたら異様に仲の悪い2人に見えるかもしれないが、それでも僕と朱里は仲良く互いを小突き合っていた。


――だが、そんな楽しい時間は無限ではないのだ。


「……ドアの、音……こ、ここから聞こえた」


――不審者の登場である。

そしてそれを頭に入れていた僕には策があった。

この屋上の扉、中から開けられても外から開けることができないのだ。

つまり――、


「朱里、東口から出て鍵しめて」

「……わかった」


僕のやりたいことを、朱里は察してくれた。

朱里1人しかいないと思っている不審者は、最早追い込んだのかと思っているのかゆっくりゆったりと朱里に迫っていく。

朱里が本気で東口に走っても、焦りはしない。

また学校内に入られても追い付けると考えているのかわからないが――その余裕が、そのまま敗因である。


「……じゃあね、気持ち悪いストーカーさんっ!」


朱里は東口から校舎に入り、鍵を閉める。

不審者はすぐに回れ右をして西口から校舎に入ろうとして――、


「……は?」


もう既に西口は鍵がかかっている。

不審者は必死にガチャガチャを音を立てて扉を開けようとするが、びくとも動かない。

朱里が鍵を閉めたのを確認した瞬間に、僕も同時に鍵を閉めたのだ。


――これで、ストーカーも撃退である。あとは警察にでも連絡すれば一件落着だ。


「ループの最後の敵にしちゃ、ちょっと拍子抜けなラスボスだったかな」


笑みを浮かべて、安堵する。

そんな言葉を最後にして――僕のループは終わりを告げた。


          4


「――うまく行ったな」

「ね!」


校舎内で合流した僕と朱里は2人で顔を見合わせて不審者を上手く閉じ込められたことを喜んでいた。

そのまま、2人で馬鹿な言い合いをして校舎から出ようとしたときだった。

僕が朱里にあほ言おうとした瞬間、


「……なんだこれ」


僕の体が薄っすらと透け始めたのだ。


透け始めた原因は1つだろう。

僕は動揺を押し殺して、一度大きく息を吐いて、そして笑顔で朱里を見据えた。

もう、嘘は見えない。演技も、虚偽なんてどこにも。


「……本当に救われたんだな」


僕は安堵のため息を漏らして、そして体がどっと一気に疲れるのを感じた。

一方、僕のその言葉に対して朱里は


「……それでうんって言うの、なんか癪じゃない?」


と、最後まで認めることのない姿勢を貫いていた。


「最後くらい素直に認めろよ……」

「私本心とか恥ずかしくて言えないよ、絶対」


――繰り返した世界で、僕のことをどう思っているのかの回答はそれらしきものを得てしまっている。

それをわざわざ伝える必要はないが。


「あー……じゃあ、頑張れよ」

「……うん。そっちも、何を頑張るかはわかんないけど……頑張って」


その会話を最後に、僕の体の透明度が上がっていき――、


「……ありがとう。大好きだよ」


その告白は、僕に届くことなく風に流されて消えていった。



エピローグ『薄くなかった』


その後、朱里は妹をつれて家出した。

親戚の家に行き、バイトで金を貯めて、社会人になり、ようやく妹と2人で暮らし始めた。

親戚の人はどれだけいてもいいのにと言っていたが、朱里はそれが申し訳なかったのだろう。


何はともあれ、世界を何度も繰り返して、やっと僕が救えた八幡朱里は、平和に、平和に生きていった。妹と暮らして、もう二度と死にたいと思わぬ程幸せに。

天界からそれを覗く僕を、きっと朱里はなんとなくわかっているのだろう。時々僕の視点を見つけて睨んでくる。


「……僕の影は薄くなかったってことだな」


――そんな気の抜ける一言を締め括りとして、この物語は幕を閉じよう。

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君のためにもう一度 @kubiwaneko

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