石神井川の人魚姫

三上一二三

第1話

 千尋ちひろと娘の莉奈りなが、城北中央公園の「都民の森」から「すりばち広場」へ、木々の間を縫うように歩いていく。いつも舗装された道しか歩かないから、芝生や土の上を歩くと、ふかふかな絨毯を歩いている気分だ。木々がざわめく。夕方近くともなれば、吹き抜ける風が残暑を連れ去っていく。川が見たい、と莉奈が言うので、栗原橋へ向かった。

 栗原橋の歩道にある眺望スペースから親子がぼんやりと石神井川しゃくじいがわを眺めていた。板橋区の市街地を流れているのは、石神井川の下流域だ。コンクリートで整備された垂直護岸だが、かつての渓谷の美しさは随所に残っている。ひんやりとした川風と、川面にたなびく水草をみているだけで、千尋は頭の中のごちゃごちゃした物が真っ白になっていく気がした。母親の反対を押し切って結婚し、シングルマザーとなって帰ってきた。経済的に自立できておらず、母親に娘の世話をしてもらっているので、ただでさえ狭い実家なのに、さらに息が詰まる思いだった。

 ママ、知ってる? 莉奈が保育園で聞いた、とっておきの怪談を話し始めた。石神井川に向かって「石神井姫しゃくじいひめ」と三回唱えると、人魚姫があらわれて願い事を一つ叶えてくれるのだという。

「石神井川に住んでるなんて、庶民的なお姫様だこと。ママが子供のころも、同じような怖い話があったよ」

 川越街道の五本けやきにむかって「けやき様」と三回唱えると、六本目のけやきがあらわれて願い事を一つ叶えてくれる。今も昔も、似たような怪談があちこちにあるものだ。

 川底が見たいから抱っこして、と莉奈がせがんだ。

「重いからイヤ、甘えないで」

「お願い、ちょっとだけ」

 人魚の話を友達から聞かされたのだ。欄干の柵越しからではなく、直接川を覗き込みたくなるのは仕方がない。何度もせがむ莉奈に根負けして、渋々持ち上げた。

 重い。どうして私だけがこんな苦労を抱えて生きていかなければならないのか。責任から逃げた男が好き勝手に生きているのに、逃げなかった自分が死に物狂いで生きている。福祉事務所から面談に来てほしい、と何度も連絡を受けていた。紹介された仕事を一ヶ月で退職した理由を話さなければならなかった。退職した理由なんて一つしかない。性に合わなかった、それだけだ。人とあまり関わらず、もくもくとできる作業で、勤務時間の融通が利く、シングルマザーを正社員で雇用してくれる仕事、とかなり謙虚な気持ちで希望条件を書いたのだが、人手不足が嘆かれるこのご時世でも期待通りの就職はできなかった。

 子供さえいなければ。千尋の頭の中に軽薄な声が響いた。橋ら川底まで八メートルもある。川が見たいと駄々をこねる娘を抱き上げたら、誤って落としてしまった。そんなこと、きっと、よくある話──

「石神井姫、石神井姫、石神井姫」

 千尋の心を読み取ったかのように、莉奈が呪文を唱えた。

 驚いて娘の顔を見る。莉奈は母親の気持ちなど知ってか知らずか真剣な表情で川面を見つめている。

 娘はいったい何を願ったのだろう。見れば見る程、自分にそっくりな娘の顔。自分にそっくりだから好きになれないのだろうか。わたしは、わたしが大嫌いだ。

「人魚姫!」

 莉奈が川を指差した。

 何を馬鹿な、と見れば本当に女が立っていた。白い小袖こそで打掛うちかけ姿。打掛の長い裾が川の流れに沿ってたなびき、金魚の尾ひれのように揺れている。大河ドラマに出てきそうなお姫様が、川底から千尋たちを見上げていた。

 上流から流されてきたのか、橋の下に隠れていたのか、いつからそこにいたのか分からないが、何にせよ緊急事態に違いなかった。娘を下ろしてバッグからスマートフォンを取り出した。おかしい、いつもならここは通話圏内なのに電波が届いていない。いや、川に女が立っていること事態が普通ではない。もしかしたら、莉奈の怪談に影響されて幻を見たのかもしれない。自分の見たものが信じられなくて川底を確認した。女の姿が見当たらない。

 急に周囲が薄暗くなった。鳥肌が立つほど空気が冷たい。空を見上げても、太陽が雲に隠れたわけではない。

「神様」

 背後から、悲しげな女の声が聞こえた。

 振り返ると、川底にいた女が目の前に立っていた。

 驚いて後ずさりした千尋の手首を女が掴んだ。骨と皮しかない灰色の手は氷のように冷たかった。女から発する泥の臭いが千尋の鼻腔に飛び込んできた。千尋が女の顔を見た。長い黒髪から見え隠れする瞳は暗い、というよりもぽっかりと穴が開いているようだ。女の血の気のない唇が震えるように囁いた。

「神様、どこにいらっしゃるのですか」

 千尋の腕に無数の針で刺すような痛みが走った。痛みを感じた個所が魚の鱗に変化していく。激痛とともに前腕から上腕に向かって肌が魚の鱗に変化していく。千尋がたまらず女の手を振りほどいた。腕を確認する。肌はいつものままだ。しかし、あの強烈な痛みが錯覚とは思えなかった。

 女が千尋を掴もうと両腕を伸ばしてきた。

「莉奈、逃げるよ!」

 千尋が莉奈を抱きかかえて走り出した。目の前にいる女が何者なのかわからない。けれど、本能が命の危機を知らせるのだ。莉奈を抱きかかえているので、走るというよりは早歩きの状態だった。千尋が後方を確認した。石神井姫は親子のことを諦めてはいなかった。右へ、左へ、ゆらゆらとふらつきながら追いかけてくる。化け物の足は遅い。これなら逃げ切れるかもしれない。しかしどこへ? とにかく沢山人がいる場所だ。栗原橋から商店街なら遠くない。茂呂山通りを行けば、テニスコートやドッグランで助けを求めることもできるはずだ。

「助けて! 誰か!」

 千尋の声が無人の公園に吸い込まれていった。周囲の異変に気付いた。テニスコートやドッグランに人の姿がないのだ。それどころか、いつもなら散歩やジョギングをする人が行き交う遊歩道に、人一人いないのだ。

 千尋がもう一つの異変に気が付いた。世界から音が消えている。正確には、千尋と莉奈、そして石神井姫が発する音以外が消えている。蝉の鳴き声、風が木々の枝葉を揺らす音、別の通りを走る車の音さえ聞こえない。女が橋の上に現れたとき、日食のように世界が影に呑み込まれた。まさかあの時、別の世界に引きずり込まれたのだろうか。

 城北中央公園を越えて、住宅地へ出た。マンションや一戸建て住宅が建ち並ぶ何の変哲もない通りが、これほど頼もしいと感じたことはない。

「助けて!」

 千尋が叫んだ。けれど、窓から顔を覗かせるどころか、カーテンが動く気配すらない。石神井姫が呪いの力で街をゴーストタウンに変えたのだろうか。いや、もしかしたら、わたしがすでに幽霊なのかもしれない。腕を掴まれた時点ですでに死んでいて、それに気付かないままこの世を彷徨っている。

「ママ、大丈夫?」

 莉奈が母親の胸元をグッと掴んだ。幼い娘が、母親の心配をしていた。この状況が現実なのか夢なのか分からない。けれど、腕に抱いたこの子の重み、体温、鼓動からは命を感じる。わたしたちはまだ生きている。振り返ると、石神井姫が諦めずに追ってきていた。あれほど遅い足取りだったのに、距離を詰めてきていた。石神井川から大分離れたのに、まだ追ってくるのか。化け物の望みは何だ。

 住宅街を抜けると、店舗が姿を現し始めた。店なら店員がいるかもしれない。すがる思いでクレープ屋、食堂、カフェ、ラーメン屋と中を窺うが、どの店も照明はついているのに人の気配はない。

 人がいなくてもかまわない。文房具店へ飛び込んだ。娘をおろすと、床に倒れこんだ。

 莉奈が仰向けに倒れた母親を心配して揺さぶった。

「うるさい、ちょっと休憩」

 火事場の馬鹿力も限界に達していた。床に転がったまま店内を見回した。千尋が子供の頃からあるこの店には、先週、莉奈と一緒にクレヨンとお絵描き帳を買いに来ていた。今日も暑いね、毎年異常気象なもんだから、何が正常なのかわからないよ、などと世間話をした店主も姿が消えていた。陳列棚にカッターとハサミを見つけた。戦う? まさか、化け物相手に文房具が通用するはずない。それにもう、刃物を振り回す力など残ってない。

 ママ、起きて! 娘が母親の両腕を引っ張った。

 そうだ、倒れてなどいられない。娘の力を借りて千尋が立ち上がった。レジの後ろを確認すると、思った通り、子供一人隠せるスペースを見つけた。

「抱っこして逃げるのはもう無理だから、そこに隠れてな」

「そんなのイヤ、抱っこしなくていいから、莉奈も走るから」

「莉奈の足じゃにげきれない」

「イヤ!」

 莉奈が千尋にしがみついた。自分がもう少し良い母親だったなら、素直に言う事を聞いてくれたのかもしれない。ごめんね莉奈。わたしなんか、信じられないよね。

「ママがお化けを交番まで連れて行って、おまわりさんにやっつけてもらう。莉奈はお化けが見えなくなったらうちに帰って、おばあちゃんに助けてもらいな」

「おまわりさん、お化けに勝てる?」

「勝てるよ、おまわりさんと喧嘩したことあるけど、あいつら無茶苦茶強いから」

「おばあちゃん嫌い」

「ママも嫌いだけど、おばあちゃんお金持ちだから、お菓子食べ放題だよ」

 渋る莉奈をどうにかレジの奥に押し込んだ。

 自動ドアが開く音がした。

 石神井姫が店に入ってきた。

 娘の隠し場所を悟られてはならない。千尋は石神井姫を見据えながらゆっくりと後ろへ下がった。さしむかうと、目の前のそれがこの世のものではないことが良くわかった。一瞬でも刃物を持って戦おうと思った自分にゾッとする。よく買い物に来る店の中を、白い着物を着たずぶ濡れの女が迫ってくる。化け物が陳列棚にぶつかり、ボールペンがバラバラと床に散らばった。夢ではない。ちょっと昼寝のつもりが娘と一緒に夕方まで寝込んでいた、という幸せな結末はなさそうだ。千尋は化け物の注意を自分に轢きつけながら店内をぐるりと回り、外へ出た。

 千尋の作戦通り、石神井姫が後を追ってきた。莉奈を置いてきたことで身軽にはなったが、追い付かれるのは時間の問題だった。今度捕まったら、化け物の手を振りほどけそうもなかった。

 ──全身を鱗に覆われて、激痛に苦しみながら死ぬのだろうか。死ぬのはかまわないが、痛いのだけは勘弁してほしい。わたしはそれほど悪い人間だっただろうか。良い母親ではないことは間違いないが、化け物に襲われるような悪事はしていないはずだ。子供さえいなければ、なんて、どんな親でも頭をよぎるだろうに。誰だって好き勝手に生きたいはずじゃないか。石神井姫は人の願いを叶えるために現れる、と莉奈が言っていた。そうか、それでしつこくわたしを追いかけてくるのか。あの時、あの子が何を願ったのか分かる気がする──

 千尋が川越街道の交差点に辿り着いた。川越街道は東京都豊島区から埼玉県川越市までを結ぶ大動脈である。道幅は広く、横断歩道中央に安全地帯が設けられている。長い横断歩道を渡り切れば、目的地の商店街だ。けれど、交差点の先に人の姿はなく、交通量の多い川越街道に車一台走っていなかった。この先、駅前の交番まで逃げきれたとしても、誰も助けてくれないのではないか。

「神様、どこにいらっしゃるのですか」

 悲痛な声が千尋の身体を貫いた。振り返ると、化け物が背後に迫っていた。最後の力を振り絞って横断歩道に飛び出すが、街道の中央にある安全地帯で力尽き、倒れこんだ。

 石神井姫の言う通りだ、と千尋は思った。神様、どこにいらっしゃるのですか。

 全てを諦め、仰向けになった千尋の視界に、大きな木が入り込んだ。千尋が倒れた場所、そこは「五本けやき」だった。昭和初期、川越街道拡幅工事の際、村長の屋敷林の一部を残した。中央分離帯に並んで立つ大きなけやきは、灰色の街道に色彩を与え、街の人の心を潤し、ありふれた交差点に不思議な空間を創り出していた。

「けやき様、けやき様、けやき様」

 千尋の口から、呪文がこぼれた。子供のころに聞いたよくある怪談話。何度か試してみたが願いは叶わず、噂のお化けさえ見ることができなかった。願いが叶わないのは、大人になってからも同じだ。ついてない奴は死ぬまでついてない。だから今こうやって、訳の分からない理由で命が果てようとしている。


 石神井姫が横断歩道の途中で立ち止まった。千尋が倒れている安全地帯まで追いかけてこない。何かに怯えているかのように硬直している。石神井姫は千尋ではなく、空を見ていた。

 千尋の背後に、身の丈二メートルを超す背の高い女が立っていた。顔を隠す長い黒髪。紫色の唇が固く結ばれていることだけは見てとれる。黒いワンピースに包まれた身体は異様に細く、腕は地に着くほど長い。

 黒ずくめの女が、石神井姫を見据えた。

 石神井姫は女と視線を合わせないように顔を伏せ、袖で顔を隠しながら、白い煙となって消えてしまった。

 この女が「けやき様」なのだろうか。あれだけ執拗に追いかけてきた石神井姫を一瞥で追い払ってしまった。あまりにあっけない幕切れだが、これで終わりだろうか。胸がざわつく。この背の高い女から、人の願いを叶えるような神聖さを感じないのだ。それに、石神井姫を消し去ったのに周囲は薄暗いままで、人も車も姿を現さなかった。まだ化け物の力が世界に影響を及ぼしているのではないか。

 女が長い腕をゆっくりとあげ、千尋が逃げてきた道を指さした。莉奈が走ってくるのが見えた。なぜ娘を指さすのか。女の真意がくみとれず、その顔を見上げた。

 けやき様が黄色い歯を見せて笑った。人の心を見透かしたような、歪んだ笑顔だった。

 突然周囲が明るくなった。目が開けられないほどの光に包まれた。同時にさまざまな音が一斉に飛び込んできた。蝉の鳴き声、車が走り抜ける音、商店街の喧騒。まぶしさに眼が慣れ、周囲を見渡すと、探し求めていた街の人たちが横断歩道で信号待ちをしていた。皆、安全地帯に倒れている千尋を怪訝な顔で見ていた。

 助かったのだ。けやき様が、願いを叶えてくれたのだ。

「ママ!」

 交差点に涙まじりの声が響き渡った。同時に、莉奈が信号を無視して車道に飛び出した。

「莉奈、ダメ!」

 そうか。だから笑ったのか。違う、わたしはこんなこと──

 小さな体が宙に舞った。


 【おわり】

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