モフモフ怪談「廃病院の噂」(怪ノ始)

 くだんの廃病院は、住宅街の片隅にひっそり佇んでいた。

 日は地平線の彼方へ沈み、辺りは宵闇よいやみから深淵の闇へと塗り替えられつつある。


 鉄柵で作られた門の隙間をまず先にクロがひょいと通り抜け、続いてムー太が柔らかい体を変形させて何とか通り抜け――――――ようとした所で挟まった。


 鉄柵の間隔は六角橋家の門戸よりも少しだけ狭い。お尻を一生懸命に動かせば脱出可能だとムー太は思っていたけれど、実際に挟まってみると予想以上にパンパンで身動き一つ取れなかった。涙目になったムー太が困ったように鳴くと、振り返ったクロがその惨状を目の当たりにして、大きなため息をついた。

 こちらの方へと歩み寄り、呆れたような口調で、


「まったく、何を遊んでるにゃ」


「むきゅううう」


 助けて欲しくてムー太はボンボンをピコピコと――余りにも必死だったものだから、クロの忠告も忘れて――力いっぱいに振り乱した。するとクロは、美味しそうに揺れるボンボンをスルーして、門の外へすっと出た。


「手伝ってやるから、もう少し頑張るにゃ」


 背中を押してもらい、なんとか脱出に成功。

 ムー太は感謝の印に、クロの頭をぽふぽふしようと思ったけれど、はたかれては堪らないので「むきゅう」と礼を言うに留めた。

 無言のままクロが歩みを再開したので、ムー太も慌てて後を追う。


 正門を抜けると車が横に四、五台並べる程度の小さな駐車スペースがあり、その奥に正面玄関が構えてある。敷地内には外灯が置かれているが、無人の施設ゆえに当然火は灯っていない。それでも辺りの様子を窺うことができたのは、周囲の民家の窓から漏れる光や、公道に置かれた街灯から差す光、そして晴天から覗く月明かりのおかげだった。


 闇に同化するように横たわるコンクリート造りの建造物をムー太は見上げた。無人になって久しいのか、三階建ての建物の所々にはひび割れでは済まない規模の亀裂が入っている。雨風に晒され続けたせいか、まだら模様に黒ずんだコンクリートからはカビ臭さが漂ってきて気持ちが悪い。

 好奇心モード全快で外観を眺め回していたムー太は、ふと、三階の窓際に人影が立っていることに気が付いた。目を凝らしてよく見ると、痩せこけた老婆が手を振っているようだった。


 お利口さんのムー太は知っている。人間はお別れする時以外にも、友好や歓迎の意を表すために手を振ることがあるのだ。つまりあの老婆は、ムー太の来訪を歓迎してくれているに違いない。

 それに、もうお地蔵さんの術を使う必要はなくなったのだと、七海は言っていた。だからムー太は、骨と皮だけのミイラみたいなお婆さんに、ボンボンをフリフリ振り返すことにした。


「オマエ……誰に手を振ってるにゃ……?」


 並んで歩いていたクロが、急に立ち止まったムー太の顔を覗き込むようにして怪訝そうに訊いてきた。心なしか四本足が爪先立ちになっているようである。


 ムー太は嬉しそうにボンボンで三階の窓を指した。

 しかし、そこに老婆の姿はなかった。

 開け放たれた窓の内側で、老婆の代わりに白いカーテンが揺れている。

 先程見上げた時は、窓など開いていなかったはずなのだが。


「むきゅう?」


「にゃ、にゃんで……無人の病院の窓が開いているにゃ……?」


 それは老婆が開けたからだと、ムー太は思った。しかし、すぐにそれは違うかもしれないと思い直す。目を離した隙はたかだか一秒か二秒程度。そのような短い時間で窓を開け放ち、窓際から姿を消すような真似が本当に可能だろうか。

 もしも人間業でないのならば、あそこにいるのはクロの言う通り幽霊なのかもしれない。幽霊とは――死してなお、自由に動き回れる超常的存在。それはつまり、万が一大事な人と死に別れることになっても、幽霊になったその人と再会できる可能性を含んでいるということだ。


 それは、とても素晴らしいことのように思う。


 ムー太がこの廃病院に来たがった理由の一つはそこにある。幽霊が実在するか調べ、その交信方法を確立すること。これが大目的の一つなのである。

 そして今、霧のように消えてしまった老婆(幽霊かもしれない)を目撃した。これは幸先の良いスタートと言えるだろう。


「むきゅう!」


 俄然、ムー太はやる気が湧いてきた。ぴょんと跳ねて、やる気満々をアピール。

 しかしクロは、ぴょんぴょんとはしゃぐムー太をどこか冷めた様子で見つめている。その余りにも大きい温度差を感じ取って、ムー太は疑問に傾いた。

 注意を払ってよくよく観察してみれば、顔色が悪いようである。夜闇にギラリと輝く琥珀の瞳もどこか元気がなさそうだ。もしかすると、体調が悪いにも拘わらず、無理を押して案内してくれたのかもしれない。ムー太はクロに感謝した。


 拝むような仕草でボンボンを擦り合わせることで、感謝の意を伝える。

 すると、その仕草を目の当たりにしたクロは、頬の筋肉を引きつらせ、落ち着きなく視線を彷徨わせ始めた。尻尾をピンと立て、油断のないフットワークで哨戒機のように動き回る。全身の黒毛を逆立たせ、何かを警戒しているようである。


 その行動の意味するところをムー太は理解することができなかった。

 体を斜めにしていると、早口でクロが捲くし立てた。


「何かいるのかにゃ? オイラには見えない何かが近くにいるのかにゃ!?」


「むきゅう?」


「お経こそ唱えていなかったものの、拝んでいたにゃろ!? 幽霊が居たから、助けを求めて神仏に祈りを捧げたんじゃないのかにゃ!?」


「むきゅう!」


 ムー太は、という部分にのみ反応して、嬉しそうに鳴いた。

 すると、クロは一時停止ボタンを押した録画番組のように一瞬だけその挙動不審な動きを止め、しかしすぐに火山が噴火するみたいに跳び上がり、騒ぎ出した。


「にゃー!? やっぱりそうにゃ、ここはヤバイにゃー!」


 それは極限にまで恐怖が達することによって引き起こされる混乱症状パニックなのだが、幽霊のことを怖いと認識していないムー太は別の理由を考える。早く先に進みたくてウズウズしているのだろうか。それとも、体調が悪いので早く帰りたいということなのだろうか。そんな風に。


「むきゅう?」


「これ以上は危険にゃ。オイラと一緒にオマエも帰るにゃん」


「むきゅううう」


「にゃにゃ、勇み足は後悔するにゃぞ」


 ここまで付き合ってくれたクロには申し訳ないけれど、ムー太はまだ目的を達していないので帰るつもりはなかった。体調が優れないところ、無理に付き合わせる形になってしまい申し訳なく思う。

 クロが一緒に居てくれて心強かった。けれど、ここからは一人で行かなければならない。これ以上迷惑は掛けられないし、傷ついた戦士には休息が必要なのだ。そんな風に考えたムー太は、ぺこりとお辞儀をするみたいに体を前へ倒した。


「むきゅう!」


「にゃんだ?」


 首を傾げるクロにボンボンをフリフリして別れを告げる。その意図が伝わったのかは不明だが、ムー太はすでに動き出していた。


 くるりん、と百八十度回頭。進路を廃病院へ固定。

 微速前進。風は緩やか、夜空は月が視認できるほどの晴天。

 と、順調に滑り出したまるい背中へ声が掛けられる。


「にゃ……オマエまさか、一人で行く気じゃないだろうにゃ」


「むきゅう!」


 大きく跳ねることで肯定を表現する。


「…………」


 それ以上、クロは何も言わなかった。

 一メートル、二メートル……クロとの距離がどんどん離れてゆく。


 歩を進めると、月明かりに薄っすらと照らされる正面玄関が見えてきた。その頂へと続く石段を登ると、自動ドアと呼ばれるガラス張りの引き戸が姿を現した。

 賢いムー太は知っている。あれは、上方に取り付けられたセンサーが、ドアの前へ立った人の気配を察知し、自動で開閉する仕組みになっているのだ。

 目の前にあるのはよく街で見かける両開き式の自動ドアだった。透明な二枚の引き戸が合わさるようにして接合されていて、その中央にある接合部分から左右に分かれるようにして開くタイプである。


 自動ドアに、一人でチャレンジするのはこれが初めてだ。

 七海に外へ連れ出された際、抱かれたまま自動ドアを潜ったことならある。彼女はスピードを緩めることなく自動ドアへと突進したので、ムー太はぶつかると思ったのだけれど、衝突することなく店内へ入れたのだ!


 その時学んだ衝突を避けるコツは、真っ先に道が開かれる中央を堂々と通ることにある。逆に、臆病風に吹かれて端を歩むことは危険だ。なぜなら、扉が完全に開ききるまでには若干のタイムラグがあり、緊急停止に失敗すれば激突してしまう恐れがあるからだ。まんまるのムー太は急には止まれない。


 黒目をキラキラと輝かせ、ムー太は記念すべき第一歩を踏み出した。

 恐れることなく、中央へ向けてぴょんと跳ねる。


 こちんっ。


「むぎゅっ」


 硬い感触。跳ね返された。

 自動ドアは開いていない。


「むきゅう?」


 少し早すぎたのだろうか。

 それとも、何か作法を間違えているのだろうか。

 ムー太にはさっぱり原因がわからない。


 ピクリともしない自動ドアへ今度は慎重に歩み寄り、扉の接合部分をぽふぽふと叩いてみる。しかし、開く気配はいつまで経っても訪れない。


「むきゅううう?」


 納得がいかず、ムー太は何度も扉を叩いた。


 ぽふぽふ。ぽふぽふ。ムー太はとってもぽふぽふ。

 ぽふぽふ。ぽふぽふ。ムー太はめげずにぽふぽふ。

 ぽふぽふ。ぽふぽふ。ムー太はそれでもぽふぽふ。


 そんな中、油断していたムー太の背後へ音もなく忍び寄る影があった。

 不満げに頬を膨らませ、ぽふり続けるムー太はその気配に気付かない。

 次の瞬間――


 ぺしんっ、ぺしんっ。


「むきゅっ!?」


 背後から二つのボンボンが順番にはたかれた。

 驚いて振り向くと、


「自動ドアって言うのはにゃ、電気が通っていないと動かないものなのにゃ。ここにはもう誰も住んでいにゃいのだから、電気が通ってるわけないにゃろ」


 澄ました顔のクロを睨み付け、ムー太は抗議の証に体――ボンボンだと叩かれるので――を上下に揺らしてみせた。

 そんな渾身の抗議活動をクロは涼しい顔で受け流し、


「オイラを置いて行こうにゃんて、十年早いにゃ。今のはその罰だにゃーん」


「むきゅう!?」


 ムー太は納得がいかなかったが、クロが同行してくれるのは素直に嬉しい。自分一人だけでは、この先も今みたいな失敗を繰り返してしまうかもしれない。鉄柵に挟まった時だってクロが助けてくれなかったら、挟まったまま朝を迎えていたかもしれないのだ。

 それにクロはとっても物知りだ。ムー太も物知りな方だけれど、クロの持つ知識量には博識なムー太も舌を巻くほどである。サンダースの兄貴の家で行われた、廃病院に関する冒険指南はとても興味深いものであった。


 ニコニコとクロの顔を見つめていると、


「なんにゃ、じっと見つめて。もしや、自動ドアに穴が空いていない件かにゃ?」


「むきゅう?」


「まぁ……そこはちょっと話を盛ったからにゃ。本当はこの扉、力任せに引くと開いてしまうのにゃん」


 そう言うと、クロは前足を持ち上げて二枚の引き戸が合わさった僅かな隙間に、爪を差し込んだ。後ろ足に踏ん張りを利かせ、爪を引っ掛けた状態のままくいっと前足を動かす。その動きに連動するようにギギッと鈍い軋みをあげた片面の戸が横にスライドしていく。

 五センチ、十センチと幅が広がるにつれて、ムー太のワクワクも大きくなる。サッカーボール程の幅を確保すると、クロが得意顔で振り向いた。ムー太は跳ねるようにして、


「むきゅう!」


 と、賞賛した。

 その反応に気を良くしたのか、クロは満足げに言った。


「だいたい、中は真っ暗だというのにどうやって進む気にゃ? どうせ深い考えなんてないんにゃろ。仕方ないから、オイラが一肌脱いでやるにゃ」


 クロの持つ琥珀の瞳がピカリと強烈な光を発した。その光量は光の反射で説明がつくような控え目なものではなかった。両の目をそれぞれ起点とし、光の帯が院内の壁へ向かって一直線に伸びていく。懐中電灯のような二つの丸が投射され、首の動きに合わせて左右に動く。


「むきゅう!?」


 やっぱりクロはすごい猫だ。ムー太は感嘆の鳴き声を上げた。

 しかし、このぐらいの事なら自分にだって出来ると思い、ボンボンに魔力を集中させると、最小出力で【ヒーリング】を使用した。青白い聖光が周囲を満たす。

 発動と同時に稲光のように走った力強い閃光は、すぐにその出力を弱め、ぼんやりとした光だけがボンボンの周囲に残った。即席の豆電球である。


「にゃ!? やるじゃにゃいか」


 光線ハイビームを発射したままの状態でクロがこちらを振り向いたので、ムー太の黒目は強い光にやられて痛くなった。とっさにボンボンで防御の構えを取る。しかし、ボンボン自体も光っていたため眩しさは倍増してしまった。


「むきゅううう!?」


 直訳するなら、目ガァァァと言ったところだろうか。ムー太はその場でのた打ち回った。二段構えの罠に掛けられて、ムー太はちょっぴりしてやられた気分だ。


「おっと、すまんにゃ。使う機会が少ないから慣れていなくてにゃん」


 ダメージの半分は自爆によるものなので、ムー太としても抗議しにくい。

 今度はきちんと【ヒーリング】を解除し、目元をゴシゴシしていると、


「僅かな光さえあれば、オイラは暗くても問題ないからにゃ。不幸な事故を避けるためにも、明かりはオマエに任せるにゃん」


 スイッチオフ。琥珀の瞳から光が失われた。

 気を取り直してボンボンに聖光を灯し、自動ドアの隙間を潜る。今度はムー太、クロの順番だ。


 視界の利かぬ暗黒空間に、ぶら下げたボンボン提灯を持っていくと、何やら長椅子のようなものがたくさん置かれているのが見えた。更に奥へ光を照らすと、受付カウンターのような仕切りテーブルが目に付く。

 壁には少し色あせた子供向けのポスターがいくつも貼ってあったが、その内のほとんどは破れてしまっていた。ギザギザに破れたポスターは巨大な牙を思わせる影を作り出し、自動ドアの隙間から入ってきた風によって生命を吹き込まれ、獲物を咀嚼するようにして上下に動く。


 院内はしんと静まり返っており、物音一つ聞こえてこない。ムー太が影絵に夢中になっていると、クロが鼻をヒクヒクさせながら言った。そういえば、埃臭さが鼻を突く。


「どうやら、待合スペースだったみたいだにゃ」


「むきゅう」


 その待合スペースの中程まで進んだ時、ムー太は自分の体に大量の埃が付着していることに気が付いた。振り向くと、辿ってきた道がモップ掛けした後みたいにピカピカになっているではないか。

 ムー太は掃除用具ではない! 汚れを押し付けられてカンカンだ。


「むきゅううう」


 嫌だ嫌だとムー太は体を動かした。埃を払い落とすためにブルブルと。

 付近の埃も巻き込んで、倍以上の埃が空を舞う。

 それでもムー太は止まらない。一心不乱に回転を加える。


「むきゅううう」


「にゃにゃ、止めるにゃ。目に染みるにゃー」


 叫びを上げながら、クロが襲い掛かってきた。白と黒の毛玉が絡み合い、ドタバタと乱闘が開始される。埃が目に入り、視界が奪われた。混乱するムー太を取り押さえようと、クロが両手を広げて圧し掛かってくる。けれども、体の大小だけで見ればムー太の方が大きい。制圧は容易ではなかった。

 我に返った時には、ムー太は勿論のことクロまで埃塗れになってしまっていた。


「まったく。埃程度で取り乱す奴があるかにゃ。汚れるのが嫌なら、これで終わりにするかにゃ? オイラはそれでも構わないにゃ」


「むきゅう……」


 叱られてしまいムー太はうな垂れる。ごめんなさいの印にボンボンをぼふんと叩き合わせると、たくさんの埃が胞子のように飛び散った。

 灰色に着色された毛並みを肉球で払いながら、クロは苦笑いを浮かべた。


「仕方のない奴だにゃ。オイラも覚悟を決めたから、意地悪言わないで付き合ってやるにゃん」


「むきゅう」


 クロに習ってぽふぽふと埃を払うことにする。

 すべては無理だ。それにどうせまたすぐ汚れる。


 顔を上げた時、静寂が支配する無人の空間に不釣合いな電子音が響き渡った。


 トゥルルルルル……トゥルルルルル……


 それは電話の音だった。クロの顔が険しく歪む。

 先ほど、クロは言っていた。「ここにはもう誰も住んでいないのだから、電気が通ってるわけないがない」と。博識なムー太は知っている。電話と呼ばれる機械は、電化製品という区分に含まれる。そして電化製品とは、電気をエネルギー源として動作する家庭用品のことを差す。だから、ムー太にも理解することができた。閉鎖された無人の廃病院で、電話が鳴ることの不自然さを。


 音は受付カウンターの辺りから聴こえてくる。青緑の蛍光色を天井に反射させ、ピカピカと点滅している。まるで早く取れと催促するように。


「むきゅう!」


「やっぱり、興味津々かにゃ……」


 電話のに引き寄せられるようにして歩き出したムー太の背に、クロは大きな大きなため息を吐いた。そして重い足取りでその後を追った。

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