ムー太のお留守番(前編)

 ムー太の起床は早い。


 空が明るみ始めスズメのさえずりが窓の外から漏れ聞こえる頃。お昼寝を繰り返すことによって、十二分に睡眠時間の足りているムー太は目を覚ます。

 薄暗い室内。羽毛布団の中にムー太はいる。体は固定されていて動くことはできない。すぐ目の前に七海の顔があり、スースーと寝息を立てている。その状態のまま、彼女が目覚める朝の七時までムー太は動くことができない。

 ほんわかと暖かい布団の中で、まどろみながら再び目を瞑る。動けないのは退屈だけれど、七海の匂いに包まれているこの時間がムー太は好きだった。


 しばらくして、目覚まし時計のけたたましい音が室内に鳴り響く。

 夢の中へ片足を突っ込んでいたムー太は、ピンッと体を伸ばした。


「うーん、あと五分……」


 けれども、起きる準備万端のムー太に対して、七海はまだ眠っていたいようだ。腕だけを布団から外へ出して、騒音の発生源である目覚まし時計を探り当てて音を止めると、寝返りを打って二度寝に入ってしまった。


「むきゅう」


 体を動かしたいムー太はちょっぴり不満だ。起きて起きてという意思表示を込めて、七海の頬へぽふぽふ攻撃を開始する。蚊も殺せぬほどの柔らかい絨毯爆撃を受けて、ようやく彼女は目を覚ました。ムー太の頭が優しく撫でられる。


「おはよう、ムー太」


 寝ぼけ眼を擦り、大きな欠伸を挟みながら七海が着替えに移る。彼女が身支度を終えるまでの間、ムー太は布団の上をコロコロと転がりながら待つことになる。盛り上がった掛け布団の山脈をよちよちと登ってみたり、その頂から滑り落ちてみたり、あるいは布団の隙間にできた洞窟を探検してみたりする。


 七海は支度を終えると、一言断りを入れて部屋から出て行ってしまった。ムー太はちょっぴり寂しいけれど、一人遊びを続行。

 閉ざされたドアの向こう側から、同居人の弟との会話が薄っすらと聴こえる。七海からは「弟が家にいる間は大人しくしててね」と言われている。ムー太はお利口さんだから、言いつけを守って静かに耳を澄ました。


「おはよ」


「おはよう、ナナ姉」


「今日も朝練?」


「うん、大会が近いからね」


「そう。いってらっしゃい」


「いってきます」


 廊下を足音が遠ざかって行く。次いで、重い玄関ドアの開閉する音が聞こえた。

 同居人が出かけたということは、ムー太の自由時間が訪れたことを意味する。これで人目を憚ることなく、大手を振って家中を歩き回れるというわけである。

 転がっていた体を素早く起こし、ムー太はドアの前まで急いで移動。ポンポンとその場で跳ねているとドアが開かれ、七海が戻って来た。足元でバウンドするムー太に気づいた彼女は柔らかく微笑み、頭を撫でてくれた。


「よしよし、良い子にしてたんだね」


「むきゅう」


 褒められて嬉しいムー太は誇らしげに胸を張る。

 しかし、登校前のこの時間、ゆっくりとじゃれ合う暇はない。

 七海は朝食の準備のため、部屋を出て行ってしまった。

 その後ろを、ムー太は遅れまいとしてついていく。


 キッチンにまでついていき、慌しく朝食の準備をする七海の足元で跳ね続ける。そんなムー太に彼女は「危ないよ」と注意するのだけれど、できるだけ七海と一緒に居たいムー太は聞く耳を持たない。足元で不規則な運動を続ける毛玉を踏んづけないように、彼女は必要以上に神経を使うはめになる。

 けれど、そんなあたふたとした七海の反応が可笑しくて、遊んで貰っているのだと勘違いしたムー太は尚更に張り切ってしまうのだった。


 ようやく完成した朝食は少し焦げたトーストと、ベーコンエッグ、それにサラダの組み合わせだった。まずはムー太に食べさせてから七海は自分の分を食べ始めるので、軽食だったとしても時間がかかる。案の定、その日も食事を終える頃には八時を過ぎてしまっていた。


「わっ、もうこんな時間……そろそろ出なきゃ」


 七海たちの暮らす世界では、学校という施設に通う必要があるらしい。そしてそこには怖い大人がいっぱいいて、ムー太を捕まえようとするのだという。だからムー太は同行することができないのだと教えられた。


「ごめんね、ムー太。今日もお留守番、お願いね」


 正直なところ、七海が出かけてしまうのはとても寂しい。けれども、ムー太はお利口さんなので、一人でもしっかりとお留守番ができるのだ。

 それに、今生の別れ、というわけでもない。半日ほど待っていれば、彼女は必ず戻って来てくれる。だからムー太は、任せておけと言わんばかりに胸を張り、勇ましく鳴いて応える。


「むきゅう!」


 玄関まで出向き、ボンボンをふりふりしてお見送り。彼女の方も小さく手を振って、外の世界に旅立っていく。そして重たい扉の閉まる音が室内に響き渡り、数秒の間を挟んだのちに静寂が訪れた。

 が、これは終わりではなく始まりである。この瞬間から七海が帰ってくる十五時半頃まで、ムー太の自由時間が始まるのだ。


 まずは何を差し置いても、食後のお昼寝タイムだ。

 まだ朝早いのでその睡眠時間は非常に短い。だいたい三十分ほどで目を覚ます。


 次に、目を覚ましたムー太はリビングへと向かう。

 ソファーの上に陣取って、ボンボンに貼り付けた専用のチャンネル制御棒(割り箸)を垂直に構えて下ろし、水平に置かれたテレビリモコンの電源ボタンをONにする。そしてDVDのリモコンも併用して、七海が用意しておいてくれたアニメを鑑賞するのが日課となっている。


 そうして三十分のアニメを合計四話見終わると、今度は通常のテレビ番組にシフトする。十一時から始まる旅番組が大のお気に入りで、ムー太は毎日欠かすことなく視聴するのである。

 世界中を自転車で回りながら、旅先で出会った人々、その土地の文化や風習が紹介される。タイヤのパンクや突然の豪雨など、トラブルに見舞われることも珍しくない。映像でありながらもムー太の好奇心は刺激され、自分もいつか行ってみたいと思うのだった。


 旅番組が終わるのはお昼の少し前だ。

 ぱちぱちと鳴らない拍手でテレビ画面へ賞賛を送り、ソファーの上で大きく伸びをする。体の形が縦長の楕円になったところで、ぐきゅるぅとお腹が鳴った。


「むきゅう」


 腹ペコ報告を受けたムー太は顔を上げる。視線の先には、ソファーと対で置かれたテーブルの上、七海が用意してくれた数種類のカップ麺が並べられている。味の異なるカップ麺は、パッケージも微妙に異なる。視覚へ入ってくる色とりどりの情報。毎度のことながら、どれを食べようか迷ってしまう。

 テーブルへ飛び移ったムー太は、迷った末にスタンダードタイプの味を選択。やっぱり迷った時はこれ。初めて七海に食べさせてもらったのも、このスタンダードタイプだった。


 口の中に広がるぐにゅっとした不思議な食感と濃い目の醤油味。想像しただけで唾液が分泌されて、俄然食欲の湧いてきたムー太はボンボンをフタの淵にくっ付けて、半分ほど開けた。開きすぎると、熱湯を注いだ時に蒸気が逃げてしまい、上手くいかないのだと教わったからだ。

 そして、同じく七海が用意しておいてくれた電気ポット(ムー太が一人で作れるようにカップ麺のすぐ横に置いてある)の下へと、準備が完了したカップ麺を持っていき、ボンボンをスイッチの上へぽふんと付けてスイッチON!


 熱湯が注がれるのをムー太は少し遠巻きに眺める。目を皿のようにして乾麺がお湯に浸かるのをじーっと待つ真剣な姿は、さながら料理人のようである。本日のメインディッシュを預かる料理長であるムー太は、適切なタイミングでお湯を止め、フタを閉めると蒸気が逃げないようにマイフォークを重石代わりに置いた。

 お湯が少ないと麺の硬さにバラつきができてしまうし、お湯が多いと味が薄くなってしまう。絶妙なさじ加減が要求される(ムー太にとって)難易度の高い作業なのである。

 しかしその困難は、試行錯誤を続けるムー太にとってそれほど大きな障壁ではなかった。今では七海が居なくとも、こうして一人で作ることができるのだ。


 三分待てば(どうなっているのかは未だに不明だが)料理は完成する。

 フタの開封と同時に周囲に広がる匂いを楽しんだのち、ムー太はマイフォークを使って食事を開始。七海の真似をしてぐるぐるとフォークを操って、巻かれたちぢれ麺を口へと運ぶ。と、すぐにかぶりつきたいところを我慢して、ふーふーと冷ますことを忘れない。

 教わった手順をしっかりと踏襲し、ようやく口の中へ迎え入れることのできたカップ麺は、やっぱり美味しかった。まだもうしばらくは、毎日食べても飽きることはないだろう。なにより、自分で作って食べるという行為が新鮮で、その過程も含めて楽しいのである。


 麺を食べ終えるとスープが残る。

 少ししょっぱいけれど、ムー太はスープも大好きだ。


 しかし、残りのスープを飲むことは困難に思える。

 なぜならムー太の口は床面に近い位置にあり、カップ麺を傾ければ、飲むより先にこぼれてしまいそうだからだ。が、そこは機転の利く七海のこと。しっかりと代替案を考え、その道具も用意されている。

 プラスチックで出来た細長い円柱状のそれは、ジュースを飲む時に使用するのが一般的だ。実際、ムー太もセロジュースを飲む時に使用したことがある。確か、ストローという道具だったと記憶している。


 カップ麺にストローを刺して、チューチューと残りのスープを飲み干せば、ムー太のお腹はいっぱいになる。大きなあくびが出たところで、自らに課せられた仕事があることをムー太は思い出した。


 部屋の隅に、平べったい円状のタイルに似た装置が置いてある。これを七海は「ロボットクリーナー」と呼んでいた。上部に取り付けられたボタンを押して起動すると、後は自動で部屋中を掃除してくれるという便利な掃除機らしい。


 それは初めてロボットクリーナーを起動した時のことだった。好奇心旺盛のムー太は、当たり前のようにロボットクリーナーに近寄った。すると、ロボットクリーナーは、ムー太目掛けて一直線に突進してくるではないか。減速する気配の見せないロボットを前に、ムー太は驚き、踵を返して逃げ出した。

 けれど不運にも、ロボットの掃除ルートと、ムー太の逃走ルートが重なってしまった。結果、追い掛け回されるはめになったという苦い思い出がある。

 その後も、ムー太とロボットクリーナーの戦いは幾日も続いた。七海はクスクス笑っているだけで助けようとはしてくれない。それはちょっぴり不満だったけれど、ムー太だっていつまでもやられてばかりではなかった。


 起動スイッチを押さなければ、ロボットクリーナーは動かない。そして動きさえしなければ恐れることは何もない。賢いムー太はそのことに気がついたのである。


 しかし、ロボットクリーナーを動かし、部屋を掃除することがムー太の仕事だ。スイッチは必ず押さなければならない。ならばどうするのか?


「むきゅう!」


 隙だらけの宿敵ライバルを前にムー太が取った行動は、その場で大きく跳躍し、平べったいロボットクリーナーの上へと飛び乗ることだった。マウントを取った状態でスイッチをON。緑の電源が灯り、ロボットクリーナーが起動。そして、ムー太を背中に乗せたまま掃除の旅へと出発する。


 これならば追い掛け回される心配はない。そしてそれは同時に、セーフティエリアを確保するだけに留まらず、遊園地のアトラクションのようにムー太を楽しませてくれる。

 地面を滑るようにして進み、障害物となる家具を巧みに避けるロボットクリーナー。彼の通った道には塵の一つも残されてはいない。小さな子供のようにボンボンを叩いて喜ぶムー太を乗せて、円形の掃除機は四本の柱に支えられたテーブルという名のトンネルを潜る。


 センサーが障害物を感知し、ロボットクリーナーが壁にぶつかることはない。衝突しそうになるとぎりぎりのところでピタリと止まり、その場で九十度回転してから再び直進するからだ。


 ターンテーブルが回転すれば、その上に鎮座する白い毛玉もくるっと回転。

 ふわっとした遠心力がムー太は楽しい。

 行け行けー、とボンボンを振り乱す。


 リビングの探索、もとい掃除を終えたロボットクリーナーは、所定の場所へ戻り、自動で充電を行う賢い(とムー太は思っている)ロボットである。

 仕事を終えたその背をぽふっと叩き、ムー太は労うようにして鳴いた。


「むきゅう」


 床には埃一つ落ちておらず、部屋の掃除は完了していた。

 七海が学校から帰ってきたら、きっと褒めてくれるに違いない。頭を撫でながら褒めてもらえれば、最高の気分になれるだろう。一仕事終えたムー太は、満足げに頷く。と思ったら、大きな欠伸が出てしまった。


 そうだ。睡眠を取らなければいけないのであった。

 大事なことを思い出したムー太はソファーへ戻る。基本的にどこでも眠れるムー太だけれど、やっぱり床が柔らかいほうが熟睡できる。ボンボンで目を覆いアイマスク代わりにすると、本日二度目のお昼寝を開始した。

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