第39話:モフモフと少女と別れ
蚊に刺されたぐらいの小さすぎる違和。
気がついた時には、すでに多くの魔力が失われていた。
急激な魔力の低下によって引き起こされる欠乏症状。その結果として、強い眩暈から始まり、動悸、息切れ、抗い難い眠気、と貧血にも似た症状を引き起こす。
自身が倒れた理由をそう結論付け、七海は頭痛に苛まれる頭に右手を添えて何とか立ち上がった。
「私には見えないし感じることもできないけど、床には魔力吸収用の魔法式が刻まれてるってわけね。随分と陰湿な真似をしてくれるじゃないの」
エリンの言った通り、今のペースで魔力を吸われ続ければ数分と持たずに魔力は枯渇することだろう。そうなってしまっては、元の世界に送り返されることは確実なものとなり、抗う術は残されていない。
すでに大半の魔力は失われ、敗北の気配は濃厚だと言える。平静を装って強がってみたまではいいものの、残された手段はそう多くない。
もしも魔王と戦った時のように七海が一人だったなら、迷うことなく退却を決断していただろう。けれども、ムー太を置いて逃げるという選択だけは、仮に一時退却と銘打ったのだとしても許容できるものではなかった。
退路を塞がれているからこそ、端から彼女に残された選択肢は二つしかない。
敗北を受け入れて元の世界に帰るか、最後まで抗い続けるか。どちらを選んでもおそらくは同じ結果に終わるであろう絶望的な二者択一。悩めば悩んだだけ、判断を保留すれば保留しただけ、状況は悪化の一途を辿る。こうしている間にも、魔力は刻一刻と減り続けている。
「私って、悲劇のヒロインを気取るほど乙女じゃないのよね」
決断と同時に、七海は全力で魔力を放出した。どうせ吸収される魔力なのだから、出し惜しみは不要だというのが彼女の考えだ。
今までとある事情からセーブしてきたリミッターを外し、残った魔力と自身の存在のすべてを氷雨に篭めて、両手でしっかりと柄を握り締め、全霊を込めて振り上げる。その尋常ではない魔力量にエリンは慄いて、
「流石にそれをまともに貰うのはまずそうですね」
タキシードの裾を翻し、後方に大きく跳んだ白い人影は本棚の上をぴょんぴょんと跳ねて、遠く離れた積み木の天辺にひらりと降りた。十分に距離を取れば直撃を避けられる――と、狙いはそんなところだろう。
しかし、あいにくと七海の狙いはエリンにはない。彼の操る魔法は未知数の部分が多く、遠距離攻撃ではどんなに強力な技を繰り出しても仕留めきれないというのが結論だ。だから標的は、
「まずは床に仕込まれた目障りな魔法式、そのすべてを吹き飛ばす」
魔力が吸い取られ向かう先は、冷たいガラスの床の更に下。そこに魔法式が刻まれていることは確実である。そして仕込まれた魔法式がそれ一つとも限らない。第二第三のトラップを発動される前に、隠された魔法式のすべてを吹き飛ばす。それが七海の狙いだった。
「しまっ――」
距離を取ったことが裏目となり、エリンの妨害は間に合わない。十分な猶予を持って七海は氷雨を地面に突き立てた。膨大な魔力のすべてを破壊のみに振り分けた必殺の一撃が、大きな衝撃となって大地を震わせる。
分厚いガラスの床面は木っ端微塵に砕け散り、その下に収納されていた本の一つ一つが細切れにされて紙吹雪となり宙を舞う。
そしてその衝撃は、書庫だけに止まらず浮遊都市全体を震撼させた。
元より岩石が降り積もって日の浅い火山地帯は地盤が脆く、その大きな振動によって地殻に変動が起きた。地響きと共に浮遊都市周辺の地盤が沈下することで、大地に埋もれた浮遊都市も傾きを見せる。そうして床面が傾けば、不揃いに積み上げられた本棚の山脈は雪崩を打つように倒壊していく。
「これで、もう小細工はできない」
崩れ落ちる本棚の
拳を硬く握り締め、ムー太の自由を勝ち取るために七海は走る。両者の間に置かれた距離は、音速を突破した
今までの戦闘でエリンは攻撃を避ける素振りを見せていない。そして今も、揺るぎのない自信による微笑を浮かべたまま、無防備に佇んだままである。それらの条件を総合すれば、エリンが回避行動を取らないと読むことができる。
最短距離を駆け、その過信に向けて最後の一撃、右ストレートを叩き込む。その拳がエリンの実態を掴む可能性は半々――と、しかし。
「――――っ!?」
突如展開された魔法障壁によって渾身の一撃は阻まれ、七海は弾き飛ばされた。ガラス片や紙くずの散乱した地面を転がり、そのままダウン。更には魔力の急激な低下によって、再びの欠乏症状を誘発。もはや立ち上がる気力さえ残っていない彼女を悠然と見下ろして、エリンは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「なんとなく嫌な予感がしたのでね。防ぐことにしました。ええ、おそらくそれが正解だったのでしょう。違いますか?」
「なんて勘のいいやつ……」
残りの魔力はあと僅か。敗北を受け入れざるを得ない。そう諦めかけた時、
「むきゅうううっ!!!」
愛おしい馴染みの声が、普段よりも凛々しく
手を伸ばせばすぐそこにいる。その事実が、七海に最後の活力を与え、尽きたはずのライフを僅かに回復させた。
「なぜ、白マフがここに? エリカは一体なにをやって――」
訝しがる様子のエリンは途中で言葉を呑んで、驚愕に顔を強張らせた。純白のタキシードを着込んだ細身の体が、持ち上げられるようにして宙へと浮かんだからである。そしてそのまま、ムー太に引き寄せられるようにして上昇していく。
不恰好な姿勢でバタバタと身をよじりながらエリンは毒突いた。
「これはマフマフの引力制御!? くそ、よりにもよってエリカのやつ、力を取り戻した白マフに逃げられたっていうのか。このままでは、マズイ」
自由を失ったエリン目掛けて、ムー太が流星の如き勢いで落下していく。その目的が体当たりであることは明白であり、戦闘を好まない平和主義で温厚な性格のムー太が、そのような強攻策に打って出た理由もまた明白だった。
自然、七海は考えるまでもなく地を蹴り飛翔する。氷の塊を空中に生み出して、それを蹴り飛ばすことで更なる高みへとその身を駆け上がらせる。じたばたと足掻き続けるエリンを追い抜き、一足先にムー太の元へと迫る。
「ムー太!」
「むきゅう!」
両手を広げて呼びかけると、キリリと引き結ばれていたムー太の険しい表情が、みるみるうちに和らぎ笑顔の形に変化していく。同時に、ボンボンを羽ばたかせて方向を転換し、進路を七海の胸元に固定。一直線に落ちてきた。
その信頼をしっかり抱きとめると、ムー太は甘えた声で満足げに鳴いた。
◇◇◇◇◇
右の掌を開いて閉じてと繰り返す。次に手首を動かし、次いで肘を伸び縮みさせ、そして最後に肩をぐるりと回してみる。異常がないことを感じ取って、イゼラはあごに人差し指の背を当てて考える仕草を作ると頷いた。
「ふむ。怒りに我を失ったかに思われたが、何とか踏み止まったようだな」
髪飾りに蓄えられていた微量の魔力は顕現するために使ってしまったので、最初からイゼラに戦う力は残されていなかった。そもそも、長くは維持できない仮初の体であり、あくまで本体とは別の分身体という位置付けでしかないので、わが子の役に立てるのなら消滅することもやぶさかではない。
と、自己犠牲とは少々異なる覚悟を以って挑んだのだが、蓋を開けてみれば五体満足という結果に終わっている。もちろん、イゼラに抗うだけの力は残されていないので、銀髪の少女が手心を加えたということになる。
「だって……ひっく。マーコに嫌われたく……ないから」
霧のように立ち込める白い爆煙の中から、嗚咽混じりのくぐもった声が聴こえてくる。直立するイゼラの足元辺りから声が発せられたことから考えて、どうやら地面に突っ伏して泣いているようである。
か細く震える声には、少女の偽らない気持ちが込められているようだった。先刻見せた狂気の響きは含まれておらず、それだけで正気に戻ったことが察せられた。
「まったく愚かな真似をしたものだ」
「ひっく……。だって、ワタシのマーコなのに……ひっく、取られちゃったから」
イゼラは鼻を鳴らし、吐息をついた。
「誰のものか、などと瑣末なことにこだわっているから愚かだと言うのだ。記憶を取り戻した後、汝を見たあの子が嬉しそうに笑ったのを覚えているか? あれは紛れもなく汝のことを好いていた証拠だ」
「でも……ひっく。マーコはワタシを選ばなかったから。うっ……うう……」
「ふん、では問うが。汝はあの子のために、実の兄を切り捨てることができるか? 過去の友人知人、あるいは恋人。それらすべてと縁を切る覚悟があるか?」
「それとこれとは関係が――」
「愚か者め! 汝があの子に迫った選択はそういうことだ。大切な人を切り捨てろと言われて、心の優しいあの子が応じるとでも思ったか!!」
少女の反論をぴしゃりと遮り、イゼラは大声で一喝した。
その怒気に気圧されたのか、薄くなり始めた白煙の向こう側、少女を形作るシルエットがびくりと肩を震わせる。力では圧倒的に少女の方が勝っているが、今この場を支配しているのはイゼラだった。次を紡げずにいる影に向けて言う。
「結局のところ、汝は自分が一番可愛いのだ。然れどナナミ殿は違う。ただ可愛がるだけでなく、常にあの子のことを考え、想い、愛してきた」
「それならワタシだって、この想いだけは誰にも負けない自信がある。マーコを愛する気持ちを否定しないで!」
「妾が話しているのは愛の深さ、その尺度についてではない。ナナミ殿はな、あの子のことを対等の存在として扱っているのだ。ゆえに、あの子の嫌がることは絶対にやらない。汝とは決定的に違うであろう?」
心の中で、極一部の例外は除くがな、と付け加える。風呂場に連行されるムー太の姿を思い浮かべ、イゼラはくくっと笑いを漏らす。
少女の影は顔を上げ、悲しそうに呟いた。
「マーコは嫌がってた。それをワタシは強いてしまった……嫌われちゃったかな」
ようやく己の過ちに気がつけた少女に対し、イゼラは肩でため息をついた。同じ魔物を愛する者同士、彼女の気持ちがわからないわけでもない。悔い改めるのであれば、きっと上手くやっていけるだろう。そう思い、
「あの子は優しい心の持ち主ゆえ、謝りさえすれば許してくれると思うがな」
「本当?」
縋るようにして少女の声がまとわり付いてくる。
その期待を肌で感じたイゼラは、少々突き放すようにして補足を加える。
「もっとも、ナナミ殿に何かがあればそれは保証できかねる。ゆえに、あの子の恨みを買わないためにも、ナナミ殿の無事を祈るがいい」
「大変。急いで兄様を止めなくては」
「無粋なことは止めておけ。今頃は再会して抱き合っている頃だろう。それが叶っていないのならば、その時はもう手遅れということよ」
立ち上がろうとした少女の機先を制してそう告げると、イゼラは難しい表情になって黙り込む。何気なく口にした言葉の中に混じる不穏なものが、現実のものとなりそうな予感を覚えたためだ。
胸騒ぎを表には出さず、イゼラは仏頂面で黙考した。そして、
「ふむ……そういえば、初めて会った時から妙ではあったのだ」
あの時、人間と敵対することを決めたイゼラは、自身の本体が万に一つでも傷つかないように周囲に一分の隙間もなく【迷宮の霧】を張り巡らせた。そしてその結界は破られていないにも関わらず、七海は当たり前のようにしてイゼラの前へ現れたのである。あれは一体どのような方法を取ったのだろうか。
「一目見た時から、人間とも魔族とも違う異質を感じたものだった。後になって体内に魔法式を刻んでいるからだと思い至ったわけだが……」
魔法を使えない者であっても、体内に魔法式を刻むことで自在に魔法を使えるようになる、という利点は確かに存在する。しかし、体内に魔法式を刻むことは非常に危険を伴う行為なので、魔族の間でも一般的には禁忌とされている場合が多い。そのリスクを承知で事を成すには、何者にも屈しない強固な意志が必要とされ、止むに止まれぬ事情がセットで付いてくるものなのだ。
例えば、主君の窮地を救おうとする騎士であったり、生まれた時より体内に魔法式を刻むことを掟とする一族であったり、或いは、森を守るため、その根の隅々にまで魔法式を刻む者までいる。
そのいずれにも共通するのが、己の力不足を補える、という部分にある。
先ほどの例で言えば、騎士が戦地に赴くに当たって、本来使えないはずの魔法を使うことができれば、それはその者にとって大きな手助けとなる。また、生まれた時から魔法式を体に刻んでおけば、本来魔法の才が無い者であっても、無能と罵られることなく一族の役に立つことができる。
しかし、七海に限って言えば力を欲した為とは思えない。触れるものを問答無用で凍らせる絶氷の魔力を持ち、多彩な魔法を扱うことのできる彼女が、一体どのような力を欲するというのだろうか。もしもそこに止むに止まれぬ事情があったとすれば、それは力とは関係の無い別の何かではないだろうか。
「まさかな……」
イゼラは独り言を呟き、ムー太の消えて行った方向を見つめた。
◇◇◇◇◇
早くもボンボンを使ってじゃれてくるムー太を左腕でしっかりと抱えたまま、腰を大きく捻った七海が空中で旋回しながらその向きを変える。漆黒の瞳をぎらりと光らせ、こちらに引き寄せられるようにして上昇してくるエリンをロックオン。右の拳を力の限りに握り締め、七海は言った。
「さぁ、決着をつけようか。エリン」
対するエリンは無駄と悟ったのか暴れることを止めて、七海の握り拳を一瞥すると不敵に笑った。
「マフマフの使う引力制御は、あらゆる魔法の加護を無視して引き寄せることができる。でもね、あなたの攻撃はボクには届かない。しかも、あなたの魔力はすでに風前の灯。一体、何ができるというのです」
重力に引かれて落下する七海とムー太。胸元から伸びる二本のボンボンが発する引力らしきものに引かれて、ゆっくりと上昇するエリン。双方の距離が限りなく近づくまでの繋ぎ、そして警戒させないための撒き餌として七海はにこやかに話を振った。
「まだ答えてなかったよね。どうやって私が強制送還の効力を防いだか」
「それは興味深い話ですね。あの魔法は特別で、あなたの存在をこの世界から抹消する効果があったはずです。一体どうやって跳ね除けたのか、今後のために是非ともお教え願いたい」
「別に、跳ね除けたわけじゃないんだよ」
「ほう、というと?」
餌に獲物が食いついたことを確認し、秘かに七海はほくそ笑む。
「話は単純にして明快。空間を固定することで自らの存在をその場に押し止めたってだけ。だから根本的な解決にはなってないの。そう、今この時点においてもね」
「なかなか面白いことを考えますね。しかしそれでは、その空間固定の魔法とやらを絶やすことはできないはずですよね。強制送還の効力を無効化できなかったのなら、あなたの存在はすでにこの世界にないという理屈だ。違いますか?」
「そう。今や私の存在は、空間固定の魔法によって支えられ、ぎりぎり留まることが許された虚像のようなもの。そしてその状態を維持するためには、体の内部に空間固定の魔法式を刻み、体内の魔力を使用して動く永久機関として組み立てる必要があった。常時発動の条件を満たすためには、やむを得なかったってわけ。そしてその副産物として――」
拳の射程圏にエリンが到達したのを見計らい、七海は最後の力を振り絞って腰を大きく捻り、右の拳を振り抜きながら言った。
「私の体に触れた人にも、その効果をお裾分けできるんだよね」
「――――!?」
拳を螺旋回転させながら放たれた正拳突きがエリンの頬へと食い込み、その美しく整った顔が醜く歪む。十分な手応えを拳の先に感じながら、全霊を込めて打ち抜くようにして拳を振り切った。
親にもぶたれたことの無さそうなお坊ちゃんと言った印象の彼は、そのイメージ通り打たれ弱かったらしく、たったの一撃で白目を剥いて昏倒。同時に引力制御の効果が切れたのか、錐揉みしながら地面へ落下していく。
先にエリンが地面へ激突。次いで、七海がひらりと着地した。
が、限界を超えて酷使していた肉体が悲鳴を上げ、崩れるようにしてその場に倒れ込む。ムー太が潰れないように気を配るのが精一杯だった。
「むきゅう!?」
驚き慌てたムー太が、唐突に【ヒーリング】を使用。転がった時にできた全身の擦り傷。数えるのも面倒な無数の傷が、治癒の光に包まれた一瞬の間に、傷跡も残さずに消え去っていた。以前よりも明らかにパワーアップしているその効力を前に、七海はそこで初めて気がついた。
「魔力が……満ちている。あんなにも頼りない小さな魔力だったのに、見違えてしまいそうな程に大きくなってる。良かった……これなら私が居なくても……」
傷が癒えたはずなのに起き上がろうとしないのが訝しいのか、ムー太は困ったように体を傾ける。
「むきゅう? むきゅう?」
しかし、七海は怪我をして動けないのではなく、魔力が尽きて動けないのだ。それでも最後の別れを伝えるために、痺れる右腕をL字に立てて何とか体を起こす。斜めに傾いた本棚に身を預け、ムー太をおいでおいでと手招きする。パチンコ玉のように飛んできたムー太を受け止めて、しばらく愛でた後、
「ごめんね、ムー太。私にはもう、この世界に留まれるだけの力が残ってないんだ。本当はもっと一緒に居たかったんだけど、これが運命だっていうんだから神様も残酷だよね」
空間固定の魔法を使用し続けることで、七海はこの世界に存在することを許されてきた。しかし、魔力が尽きてしまった以上、もはや次の空間固定を起動させることはできない。つまり、現在発動中の空間固定の効果が切れた時、七海は元の世界へ戻る運命にあるのだ。
もっとも、これは魔力吸収の計略に引っかかってしまった時点で、決定付けられた未来だったと言える。
「むきゅう? むきゅううう?」
理解ができないのか納得ができないのか、ムー太が猛々しくボンボンを振り乱す。その悲しみがわかるだけに七海は申し訳なくなって、つい言い訳染みたことを口にしてしまう。
「私がこの世界に居続けると、世界のバランスが崩れちゃうらしいんだ。そうなったらムー太も困っちゃうだろうな、ってさ。ムー太とお別れするのはすごく辛いけど、生きてさえ居てくれれば、元気なままで居てくれるなら私は満足なんだ」
出来ることなら、ずっとこうしていたい。世界調和なんてほっぽり出して、ムー太を抱きながら旅を続けたい。けれど、それを叶えるだけの力が彼女には残されていなかった。事実、空間固定の効果が消え行くに連れ、体は次第にその存在を失って半透明に透けていく。
「むむきゅ? むきゅううう?」
異常事態に気がついたのか向かい合う形で抱かれているムー太が、七海の名を呼びながら丸い体をゆさゆさと揺らす。肌触りの良いその感触を味わうのも、これが最後となるだろう。込み上げてくる悲しみを押し込めるように我慢して、七海は首に巻かれたマフラーを解いた。それをムー太の頭に巻きつけてあげながら、
「イゼラみたいに可愛らしい装飾品を持っていないの。だから、こんなものしかないんだけど……これを私だと思って大事にしてもらえないかな?」
ボンボンがしっかり外に出るようにマフラーを巻いていけば、ターバンのような帽子が出来上がる。と、ムー太からリアクションが無いことに疑問符を浮かべ、七海は視線を下ろす。と、
「…………」
「…………」
モフモフの白毛の合間に覗くつぶらな黒目。そこには今、大粒の涙が溜まっていて、ポロポロと零れ落ちようとしていた。感情の起伏によって生じる『涙』は何も人間だけに許された特権ではない。その概念を知らなかったとしても、必要になれば自然と流されるものなのである。
初めて見るムー太の涙は、その心のように清らかで透明だった。
真っ直ぐに七海を見つめたまま瞬けば、膝の上へと大粒の涙が落ちてくる。
一滴一滴に込められたその想いを受け取るたびに、バックヤードに退場させたはずの感情が表に出せと押し寄せてくる。鼻がツンと痛くなり、目頭が熱を帯びる。
「ごめんね、ごめん。一人だけ先に覚悟を決めて、笑って別れようなんて勝手すぎるよね。私もムー太とずっと一緒に居たいよ。別れたくなんてないよ」
「むきゅうううううう」
かつてない程の悲しみに満ちた鳴き声を上げて、ムー太がポロポロとたくさんの涙を零す。それに負けないぐらい七海も涙を流しながら、ムー太をぎゅっと抱き寄せて、白毛に顔を押し付ける。
七海は後悔した。一方的に別れを告げてムー太を悲しませてしまったことを。
七海は嫌悪した。端から無理だと決め付けて足掻くことを放棄していた自分に。
七海は決別した。可能性を追求しようとしなかった意気地の無い自分と。
七海は決意した。再びこの世界に戻ってくることを。
「私はこれで退場することになるけど、必ず、また戻ってくるから。この世界へ転移する方法を見つけて、必ず。だから、お互い生きてさえいれば、また逢うことができるんだよ。だって、私たちはすでに二度、巡り会えているんだから」
「むきゅううううううううう」
体は限りなく透明に近づき、大気に溶け込みその存在の判別すら難しくなっている。背を預ける本棚に収納された本の背表紙たちが、その体を通してもはっきりとわかるほどに。
消え行く七海の胸元にボンボンをぴたりと付けて、絶対に放さないと言いたげにムー太がいやいやと体を動かして懇願する。最後の時が近いからこそ、七海は決意を伝えなければならない。
「だから、それまでムー太は自由に生きて。周りの言いなりになる必要なんてない。使命なんて言葉に惑わされないで、自分のやりたいことをして生きるんだよ。そうしたら、私が絶対見つけ出してみせるから」
「むきゅうううううううううううう」
最後に――
「大好きだよ、ムー太」
ふんわりと優しい笑みを残し、七海の存在は世界から消失した。
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