第26話:モフモフと異世界からやって来た英雄2
日課の畑仕事を終えて、さて帰ろうかという時だった。夕焼けに染まる空を眺めて、ふぅと息をつき、大きく伸びをして「んー……」と息を漏らす。
暗くなる前に帰らなければならない。七海は手早く帰り仕度を済ませると、疲れを感じさせない軽い足取りで帰路へと着いた。
今日の自分は随分と頑張った。畑仕事は予定の倍以上も進み、これならばきっと喜んでもらえるだろう。にんまりと笑みを張り付かせ、村に向かって歩を進める。
と、前方から数人の村人がこちらの方へと駆けてくる。
畑は村外れにある。もうじき日が暮れるというのに、一体どうしたのだろう。
よく見れば、駆けてくる村人の中には見知った顔があった。近所に住む気のいいおじさんで、会えば挨拶を交わすぐらいには馴染みの顔だ。おじさんは七海の前で足を止めると、息も絶え絶えに言った。
「大変だ、魔族が攻めてきた。今村に戻っちゃいかん」
顔面蒼白のおじさんにそう告げられて、七海はパニックになった。
魔族のことは少しだけ知っていた。何百年もの間、人間と戦争を続けている人型の魔物。人類の宿敵とも言えるやつらで、出会ったら命はないから気をつけろと教わったのだ。
その魔族が今、村を襲っているという。
納得がいかず七海が叫ぶ。
「でも! 国境付近には結界が張ってあって、有事の際には早馬が知らせに来るってソニアさんが」
「わからん、突然魔族が現れた。俺にわかることはそれだけだ」
おじさんは首を振ってから悔しそうに目を伏せた。
七海は必死の形相でおじさんにすがりつきながら問う。
「じゃあ、ソニアさんは? ソニアさんはどこ!?」
しかし、これにもおじさんは首を横に振って、
「わからん……俺も妻子の安否確認すらできちゃいないんだ。とにかく今は逃げて、ニルベ渓谷で合流するしかない」
ベレナ村には有事の際、村人同士が落ち合う場所が決められている。おじさんは悩むのは後だと言わんばかりに手でジェスチャーして、七海の行動を促してくる。しかし、
「戻らなくちゃ……ソニアさんは足が悪いんだよ……」
七海の決断は早かった。農作業道具を放り出し、その中から護身用に持っていた木刀だけを引き抜いて走り出そうとする。が、その手をおじさんは掴み「ダメだ。俺らにはどうすることもできないんだ。一緒に逃げよう」と説得された。
けれど、七海は聞く耳を持たなかった。強引に腕を振っておじさんの手を振り払うと、一目散に村へと駆けた。無我夢中だった。
村に到着すると血の臭いが鼻を付いた。死の臭いを間近に感じて、ようやく恐怖の感情が芽生えた。足が震えて上手く走れなくなり、よろめき転びそうになる。
こみ上げてくる吐き気を唾を飲み込むことで押し戻し、木刀の柄を握り締めてソニアの顔を思い浮かべる。異世界に迷い込んで途方に暮れる自分を助けてくれた恩人。赤の他人であるにも関わらず、親切に世話を焼いてくれたソニア。
その恩人が今、窮地に立たされているかもしれない。そう思うと、冷静な判断など利かず、駆けつけなければという気持ちだけが募る。一緒に暮らした日々が走馬灯のように頭の中を巡り、それらの記憶が焦燥となって胸を焦がすのだ。
「早くしないと。行かないと……早く!!!」
情けなくも震える太腿を力いっぱいに叩き、七海は吠えた。
そして再び走り出す。
もつれる足が幾度も絡まりそうになる。本当に自分の足なのか疑わしくなるほどに言うことを聞かない。それでも七海は前へ前へと進んだ。
事切れた村人の亡骸がそこらに転がっている。水で薄める前の絵の具さながら、どろっとした赤が地面を少しずつ侵食していく。倒れる人々の体から流れ出る鮮血は、惨劇が起きて間もないことを物語っていた。
周囲に魔族の姿はない。
首の後ろにチリチリと静電気のような嫌な予感が走る。血の池を飛び越え、死体と死体の間を縫うように駆け抜け、とうとうソニアの家に到着した。
息を整える時間さえ惜しく、七海は体当たりするようにしてドアを開けて家の中へと転がり込む。
「ソニアさん!!!」
室内はひどく荒らされていた。まるで巨人に持ち上げられてシャイクでもされたかのように家具がひっくり返り、中身が床にぶちまけられている。大地震が来たってここまでの惨状には達しないだろう。
「ソニアさん、返事をしてください!」
魔族に発見されるリスクなどお構いなしに声を張り上げて呼びかける。居間を抜け、寝室に入るがソニアの姿はない。窓が割れ、破片がベッドに突き刺さっているのが見えて、更に不安が掻き立てられる。
居間に戻り、階段を昇ろうとしたところで七海は足を止めた。
「……ちゃ……こっち……」
消え入りそうなほどに小さな声。その微かな呼びかけを七海は決して聞き漏らさなかった。跳ねるようにして方向転換すると、一直線に声の方へ。
「ソニアさん!?」
台所に入り、倒れていたソニアを発見。駆け寄った。
「ナナミちゃん……無事だったんねえ。よかったぁ……」
ソニアは力なくそれだけ言って、微かに笑ってみせた。よく見れば、彼女のわき腹は赤く染まっている。どくどくと流れ出る血を見て、七海は自らの袖を破り捨て止血に当てようとした。けれど、ソニアはそれを制するように言った。
「もうどうにもならんのよ。迷惑かけてすまんねぇ……」
「そんなことないです。まだ……まだ、治療すれば……だから、だから……」
床にできた血溜まりが、すでに手遅れであることを物語っていた。それは七海も承知していたが、それを認めてしまうのは余りにも辛くて、絶望的な現実を直視することができなくて、うわ言のように同じセリフを繰り返す。
そんな七海を見てソニアはふっと優しく笑い、虫の音よりも弱々しい声で、
「手を……」
言われ、飛びつくようにして手を握る。
冷たかった。
すでに体温が失われつつあり、命の灯が消えかけているような気がして、七海の胸が苦しくなる。なんて声を掛けたらいいのかわからない。涙がボロボロと零れて視界がぼやける。
「そんな……私、嫌です。こんな形でお別れなんて。まだ何も恩返しできてない」
固く握られた手にポツポツと涙が落ちる。
ソニアは穏やかに微笑んだ。
「恩返しなんて必要なかんね。娘ができたみたいで毎日が楽しかったんよ。一人で逝く運命だったんに、こうして看取ってもらえるんだからね。ありがとう、ナナミちゃん」
ゆっくりと瞼が閉じられていく。
七海は激しく頭を振る。号泣。
目を閉じたまま、ソニアは祈るように呟いた。
「世界から争いが無くなればいいんにねえ。ナナミちゃんは幸せになるんよ」
それが最後の言葉だった。
それっきりソニアはしゃべることなく、再び目を開けることもなく静かに息を引き取った。その死顔は穏やかで、苦悶に歪んでいないことだけが唯一の救いだった。
しかし、七海は納得できなかった。
「ソニアさん? ソニアさん!? うわあああああああああああああ」
深い悲しみを吹き飛ばすように湧き上がるのは、業火のような激しい怒り。
仇を討たねばならない。
彼女は形見となってしまった木刀を力の限り握り締め、脱力した体をゆらりと幽鬼の如く立ち上げる。数秒の間、停止。そして、決意が固まると同時、弾けるように地を蹴りダッシュ。ソニアの家を飛び出した。
一番苦しい時に手を差し伸べてくれたソニア。
得意料理を教えてもらった。掃除のコツを教えてもらった。制服姿では目立つからと、夜なべして新しい服を作ってくれた。この世界で暮らしていけるようにと、文字の読み書きまで教えてくれた。魔力の制御を七海が覚えると、自分のことのように喜んでくれた。
そんな菩薩のように優しいソニアに、恩返しがしたかった。ゆくゆくは魔法を覚えて魔導師の職に就き、裕福な暮らしをさせてあげたかった。それなのに、彼女はもうこの世に居ない。それらの夢はすべて粉々に砕けて散ってしまったのだ。
許せるはずがなかった。
勝算なんてあるはずもない。が、挑まずにはいられない。
震えて隠れているのは簡単だろう。しかし、それで生き延びたとして、自分はこの先何に頼って生きていけばいいというのか。そうなれば、これから一生後悔することだろう。憎き仇を目の前にして、背を向けて逃げた臆病者だと自らを罵って。
湧き上がるどうしようもない激情が、冷静な思考を妨げた。
憎悪の感情に身を任せ、怒りが体を突き動かす。
中央にある広場に近づくに連れて獣臭が鼻を付いた。
魔族だ。そう直感した。
全力疾走からの更なる加速。張り裂けそうな胸の鼓動、その苦しさが今はなぜだか心地よい。痛みに意識がいって余計なことを考えなくて済むから。
「見つけた」
広場の入り口に立つ一匹の魔族。獣系の魔族で二メートルを超える巨体を鼠色の体毛が覆っている。上半身には皮製の胸当てと、トゲの付いた肩当てを装備。腕は丸太のように太く、なぜか毛の生えていない腹筋はブロック状に割れていた。
更にその奥。広場中央には魔族が集結していて勝ち名乗りを上げている。そんな中に飛び込めば、命があるはずもない。が、七海は躊躇しなかった。
「はああああああああああああああ」
気合の雄たけびと共に、木刀を振り上げ入り口の魔族に向けて斬りかかる。
多芸を極める彼女は、様々な武術をかじったことがある。その実力は高く、同年代の男子にすら負けたことがない。が、それが魔族に通用するかといえば、限りなく望みは薄いわけで。
鋭い閃光のような斬撃が魔族の腹部にめり込んだ。同時に木刀の魔法式が輝き、突風が発生する。剣道だったならば、一本といったところだろうか。
しかし、七海の攻撃は軽すぎた。体重差は軽く五倍以上あるのだから、ダメージが通らないのは当然だ。木刀から放たれた突風も、所詮は遊具程度の威力しかなく、魔物の進化系である魔族にダメージを与えるには至らない。
虚を突いた先制攻撃が不発に終わり、けれど諦めることなく二撃目を放つ。が、今度は魔族も黙っていない。斬撃の軌道に合わせるようにして、鋭利な鉤爪を大きく振って迎撃。二つの軌道が交差する。
激突の瞬間、七海の両手に激しい衝撃が走った。なんとか柄から手を離さないで堪えたものの、木刀は根元からぽっきり折れてしまった。ビリビリと両の手が痺れて感覚がない。
が、七海はそれに頓着せず、今度は上体を大きくひねると回し蹴りを一閃。
かかとがわき腹にめり込んだ刹那、魔族は真っ赤な目玉をぎょろりと動かし、七海の足を掴もうと腕を伸ばした。重量を感じさせない素早い動き。捕まったかに思われたが、
「うがっ」
魔族は呻き、吹き飛んだ。
巨体が地面に転がり、民家に激突。魔族は驚きに目を見開き、七海を凝視。頭を振って気を取り直すと、紅の眼に殺意を灯して体を起こす。が、立ち上がること叶わずにバランスを崩して盛大にすっ転んだ。
そこで魔族は、自分の体を襲う違和感に気づいたようだった。
七海に蹴飛ばされたわき腹を中心として、胸から右太股までに掛けて凍り付いているのだ。その面積は、全身の四分の一を占める。右足を持ち上げようとしたところで、自由が利かず、バランスを崩して転倒したというわけだ。
一方、七海の全身からは溢れんばかりの魔力が立ち昇り、ゆらゆらと炎のように揺れていた。力が
一体、何が起こったのか。七海は理解できなかった。
ただ一つ理解できたのは、今こそが千載一遇の勝機だということ。
地を蹴り、跳躍。起き上がろうと苦心している魔族に飛び掛り、次なる一撃、首を刈り取るような鋭い上段回し蹴りを放った。
そして易々とその首を跳ね飛ばし、次なる標的に狙いを定める。広場に集っていた魔族たちは、すぐに異常事態を察知して戦闘態勢へと移る。
虐殺を行った魔族たちは、今度は自らが虐殺される番とも知らずに、新たな獲物の到来に歓喜した。
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