第20話:モフモフとお風呂

 立ち込める湯気がフワフワの白毛を湿らせる。


 ムー太は今、地獄の入り口へ連行されようとしていた。


「むきゅううう」


 ジタバタと暴れてみたけれど、体を縛る拘束が緩むことはない。


「ダーメ、もう離さないって決めたんだからね。ずっと一緒だよ、ムー太」


 無常にもそう告げたのは、服を脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿となった七海だった。


 スレンダー体型で痩せている彼女ではあるが、胸は意外と大きかったりする。布を挟まない柔らかな胸に押し付けられるようにして、しっかりとムー太は拘束されていた。


 時刻は夜に移り変わっている。昼頃、兄を迎えに行くと言うサチョと別れ、その後は無用なトラブルを避けるよう宿屋で待機。そして今、ムー太は地獄の入り口――つまり、宿に設けられた脱衣所の一角にいるのである。


 隣には扉を一つ挟んで大浴場があるらしく、扉の隙間から漂う湯気が脱衣所にまで侵入してきている。その湿気に敏感に反応したムー太が、いやいやと体を振っているのが今の状態だ。


 七海の左手に引っ掛けられたタオルが、だらりと垂れて巧妙に下半身を隠している。胸元にはタオル代わりにムー太が抱かれていて、彼女はそのまま大浴場の入り口へと向かう。


「むきゅううう」


「キレイに洗ってあげるからね、ムー太」


 ムー太の抗議を無視した七海は、鼻歌交じりにフローリングの上を歩き、木戸に手を掛けるとそのまま開け放った。瞬間、ムー太の全身を熱気が叩いた。


「むきゅう!?」


 驚きの鳴き声と共に、目を白黒させる。害のある熱さではないけれど、急激な気温の変化にムー太はビックリしたのだ。


 次いで、全身を白い湯気が包み込み、徐々に白毛が水分を含んで重くなっていく。体の重量が増せば、それだけ動きも鈍ることになる。そうなれば、いざという時に危険から身を守れないため、本能的にムー太は濡れることを嫌うのだ。


「大丈夫、怖くないよ。何かあっても私が守ってあげるから、ね?」


「むきゅう……」


 確かに彼女と一緒ならば安全だろう。けれど、やっぱり体が濡れるとしょんぼりしてしまう。弱々しく鳴いてから、身を縮めて被弾面積を減らしにかかるムー太。


 大理石が敷き詰められた高級感のある浴室内を移動して、階段のような段差の上へと七海は腰を下ろした。その脇にムー太も置かれたので、ボンボンで湯気を追い払うように振り回してみる。


 と、振り回していたボンボンに湿気が集まり、重くなってしまってムー太は涙目だ。湿気を振り落とそうと、今よりももっと強く振ることで、更に多くの湿気が付着するという泥沼に陥っている。


「むきゅううう」


 助けて欲しくて七海を見上げる。

 彼女は微笑のまま、湿った毛並みを優しく撫でて、


「後でしっかり拭いてあげるから。今は我慢だよ、ムー太」


「むきゅう……」


 いつもは、何でもお願いを聞いてくれる七海だけれど、今回は決意が固いらしく首を縦に振ってくれない。ムー太は諦めて、大人しく耐えることにした。


「ムー太は、シャワー浴びるの初めてでしょ?」


「むきゅう?」


 正面には、手を伸ばせば届く距離に大理石の壁がある。壁面には魔法式が刻まれた石版が埋め込まれており、その左斜め上に四角い穴が空けられている。石版と四角い穴は、二つで一対となっているようだ。


 十分なスペースを空けて、同じような石版と穴が等間隔に設置されていることを確認。謎の装置を前に、ムー太は体を傾けて疑問符を浮かべた。


 七海は上半身を前屈みに倒し、壁面に埋め込まれた石版へと手を伸ばす。微量の魔力を右手に篭めた瞬間、壁に空いた穴からお湯が勢いよく流れ出て、白い湯気が立ち昇った。


 それが何だかとっても面白そうで、ムー太は嬉しそうに鳴いた。


「ん? ムー太もやりたい?」


「むきゅう!」


 飛び跳ねて壁面に移動し、お湯が流れ出た穴から十分な距離を確保して、別の石版へとボンボンを伸ばす。と、


「あ、ムー太。そこだと――」


 七海が言い終わる前に、ムー太は魔力を篭めていた。微量の魔力ぐらいなら、自分だって放出できるのだ。先程、お湯が出た穴に視線を固定し、期待を込めて見つめる。しかし、


「むきゅう!?」


 頭の上に衝撃を感じると同時に水飛沫が上がり、ムー太の全身を温かい水が伝い落ちた。一瞬、何が起きたのかわからず、呆然。


 白毛からポタポタと滴り落ちる水滴と、急激に重たくなった体の調子から、ずぶ濡れになったのだとムー太は理解した。


 見上げれば、自分の真上に空いた穴から、お湯が滴り落ちている。先程、七海がお湯を出した隣の穴には、何の変化も生まれていない。


「むきゅう? むきゅううう?」


 納得がいかず、ムー太は濡れたボンボンを使って、ぺちぺちと壁面を叩いて抗議した。一部始終を見ていた七海が、吹き出しそうになるのを口元に手をやり我慢して、彼女自身が使った石版を指差した。


「こっちの石版を使うと、私の前の穴からお湯が出るの」


 次に、ムー太が使った石版と、その頭上に空いた穴を指差して、


「でも、そっちの石版を使うと、ムー太の頭上の穴からお湯が出るんだよ」


「むきゅううう」


 ようやく理解が追いついて、自分を引っ掛けてくれたトラップを恨めしげに見上げる。それでもやっぱり納得がいかなくて、もう一度、石版にボンボンを当てて魔力を篭めた。


 再度お湯をかぶってしまったけれど、すでにずぶ濡れなので失うものは何もない。こうなったら、とことん遊ぼうと腹を決め、何度も石版にタッチしてお湯をかぶる。それを見た七海が苦笑して、


「じゃあ、ムー太から洗っちゃおうかな!」


「むきゅう?」


 七海は横へとスライドしてムー太を正面に捉えると、謎の液体を振りかけた。冷たい感触が毛の隙間に入ってきて、何だかちょっぴり気持ち悪い。


 液体が落とされた周囲の白毛をぐりぐりとされて、困惑の表情を浮かべるムー太。と、次第にモコモコとした泡が白毛を包み込み始める。


 ふわふわした感触が体のあちこちに生まれ、ムー太は何だか不思議な気分だ。


「泡が入ると痛いから、目瞑ってたほうがいいよ」


 注意され、ムー太は素直に、ぺちんとボンボンで目を覆った。


「違うよ、ムー太。目を覆うんじゃなくて、目を瞑るんだよ」


「むきゅう?」


「おやすみする時にやる方だよ。ほら、寝る時に目閉じるでしょ?」


「むきゅう!」


 今度こそ了解して、つぶらな瞳を閉じてみる。しゃかしゃかという音が周囲に響き、何やらソフトな感触が全身を覆っていく。マッサージを受けているみたいで、思いの他、気持ちがいい。


 白いモコモコが肉付けされて、ムー太の体積が三割増しになったところで、ザバァとお湯が掛けられた。シャワーという装置を七海が使い、絶え間なく流れ続ける小さな滝が、全身の泡を洗い流していく。


「はい、終わり! もう、目を開けても大丈夫だよ」


「むきゅう?」


 体の汚れが取れて綺麗になったのだけれど、ムー太には自分の体が見えないので、何が変わったのかよくわからない。


 結局、マッサージを受けて気持ちが良かった、という感想だけが残るのだった。


「私も急いで洗っちゃうから、ちょっと待っててね」


 そう言うと、彼女は艶やかな黒髪を泡立てて、両の指を使って念入りに擦り始めた。泡の面積が次第に広がり、髪の毛全体を覆っていく。その様子を見て、先ほど自分も同じ状態だったのだと、ムー太は思った。


 七海は頭を洗い終わると、今度は持参したタオルを泡立て、体を洗い始める。繊細な指先から腕へと続き、ツンと張りのある胸、引き締まったお腹、見事にくびれた腰回り、優美な曲線を描く背中、白く細く伸びる脚……


 女の子なだけあって、丁寧に体全体を洗っていく。


 待っている間に、ムー太の体はだんだんと冷えてきた。すでに濡れることへの抵抗はなくなっていたので、石版へボンボンを当てて、お湯を出して温まる。


「むきゅう」


 お湯に打たれて目を瞑るムー太は、ちょっぴり幸せそうだ。


 修行僧のような状態で瞑想に勤しんでいると、七海の弾むような声が頭上から降ってきた。


「あら、もうすっかり慣れたんだね」


 体の洗浄を終えた七海は、隣のシャワー装置を使って泡を洗い流しているところだ。その作業が終わると、今度は備え付けられていた桶を持ってきてお湯を汲み、そして彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべると――そのまま、ムー太へぶっかけた。


「むぎゅぎゅ」


 大量のお湯が口元を通り過ぎ、普段とは違うくぐもった鳴き声が上がる。


 突然の暴挙にムー太は抗議を込めて、濡れたボンボンを使って彼女の太ももをペチペチと叩く。しかし、


「はい、もう一回」


 ザパァンと頭の上からお湯を掛けられた。彼女はとても楽しそうに笑っている。


 どうやらこれは、彼女なりのスキンシップのようだ。ムー太は理解し、そして次に脳裏に浮かんだのは、湖で仲良く水浴びをする魔物の親子の姿だった。


 生まれたばかりの頃、ムー太は一人ぼっちだった。だから、その仲睦まじい光景を見ているのが辛かった。けれど、今は一人ぼっちではないし、こうしてじゃれ合う友達ができた。


 母親が子供に水を浴びせかけるように、七海はムー太にお湯をかけてくれる。それが何だかとっても嬉しくて、体だけではなく心までもが温まる気がして、ムー太は幸せいっぱいに笑顔を咲かせた。


「むきゅう」


「あれ? 何だかすごく嬉しそう?」


 その心境の変化を読み取れなかった七海は、首をひねり苦笑した。


 もっともっと、とせがむムー太に何度かお湯をかぶせた後、おもむろに七海が立ち上がる。ムー太を胸に、向かう先は大きな湯船だ。


 白煙が上がる湯面、他の宿泊客のいない貸切の湯船に浸かると、七海はゆっくりと腰を下ろす。泳いだ経験のないムー太は、迫り来る眼下の湯水を前にうろたえた。


「むきゅう? むきゅう?」


「力を抜くんだよ、ムー太。ぼけーっと浸かるのが、温泉の醍醐味なんだから!」


 お湯を飲まないようにとの配慮からか、ムー太は上向きに抱かれている。その背が湯面が接触すると、体中に熱が伝わった。しかし、


「あれ? もしかして、ムー太って水に浮くの?」


 体が半分ほど沈んだところで、それ以上、入水することを真ん丸の体が拒んでいる。強力な浮力が働き、プカプカと湯船の上を浮かぶ。固定していた手を七海が離しても、沈むことはなかった。


 それは、柔らかい地面に寝転んでいるような感覚。湯船はベッドの中のように温かく、寝返りに合わせてその形を変えてくる。その新感覚が楽しくて、ムー太は嬉しそうに鳴いた。


「むきゅう」


 七海は感嘆の吐息を漏らし、ツンツンとムー太を突っついた。押され、ゆっくりと湯面の上を流れていく。それがまた楽しくて、キャッキャとムー太は歓声を上げて喜んだ。


 湯面をボンボンで漕げば、自分の意志で移動できることに気がつき、ムー太は一生懸命になって触角を動かし回す。


 と、勢い余って半回転。目と口の部分が湯船に沈み、呼吸ができずに混乱。


「むぎゅぎゅぎゅう」


 すぐさま七海に助け起こされて、事無きを得る。ムー太はケホケホと咳き込み、額の三本線を歪めて困惑顔だ。


「うーん、危ないから私の横で大人しくしとこうか」


「むきゅううう」


 恐怖よりも楽しさが勝ち、ムー太はいやいやと体を振った。


「じゃあ、自力で持ち直せるように練習しようか」


「むきゅう!」


 七海監督の元、体を回転させる練習を積んだ。時が進むに連れて、自在に回転が可能になり、溺れることはなくなった。


 そして、回転しながら湯船を移動できるほどに上達した頃、二人はすっかり逆上のぼせていた。ふらふらになりながら、浴室を後にしたのだけれど、ムー太はすっかりお風呂が好きになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る