第10話:モフモフと絶氷の魔力

 七海の魔力は冷気を帯びている。


 放出する魔力濃度に比例して、冷気の純度も合わせて上昇する稀有けうなる力。万物を凍てつかせ氷へと変えるそれは、誰にも真似することのできない、彼女だけに与えられた天賦の才だった。


 血液のように体内を巡る冷たい魔力。必然、自在に操れなければ自身を凍りつかせてしまう。ゆえに、その制御は生まれた時から無意識の内に行われており、魔力の存在を認識してからは自分の意思で凍りつかせる対象を選ぶことが可能となった。


 体を覆うように展開すれば、一瞬で重量ゼロの鎧が完成する。物理攻撃はもちろん、魔法攻撃でさえも問答無用に凍らせてしまう絶対の防御壁である。


 今、七海の体よりみなぎでる絶氷の魔力は、ムー太だけでなく魔眼狼の体をも包み込んでいた。協力者である魔眼狼に、不届きにも攻撃する輩がいればたちまちに凍りつき絶命することだろう。


 守られているということを理解しているのか、魔眼狼はその圧倒的な魔力に怯えることなく、濃霧の中を一直線に駆けていく。


 視界は悪い。真っ白の世界。


 が、魔眼狼に迷いは感じられない。

 普段から森で暮らす魔物にとって、この辺りは庭みたいなものなのだろう。目を瞑っていても、大凡の位置がわかるに違いなかった。


 濃霧の中を進めば、細かい水の粒が体中にぶつかってくる。意識の外から飛来する物体に対しては無意識のうちに迎撃の判断がなされ、無害と判断される極小の粒は氷結の対象外だ。


 ムー太の綿毛は水分を含んで重くなり、元気がなくなっていくのがわかる。しおしおに枯れた草花のようにボンボンが垂れ下がり、心なしか萎んで見える白の球体。そんな姿もまた愛おしい、などと七海は思う。


 ――思いながら、ムー太を励ますことも忘れない。


「霧が薄くなってきたよ、ムー太。もうすぐ抜けるから頑張って」


 発言からそれほど間を置かず、霧海むかいの終わりへ辿り着いた。濃霧のカーテンを突き抜けると、開けた空間に躍り出る。


 その中央、巨大な魔樹が聳え立っているのが見えた。


 大地に下ろした極太の根は、地中だけでは窮屈だと言わんばかりに大きく波打ち、複雑に絡み合いながら地表に隆起している。強靭な生命力を感じさせる力強いその姿は、流石、樹齢千年を超える大樹というべきか。


 立ち込めていた霧は、魔樹に寄り付こうとせず、その周りを守るように渦巻いている。木々の隙間から僅かに差す陽光が、霧の中にいたせいか、やけに眩しく感じた。


「むきゅう!?」


 そして、その光景を目の当たりにしたムー太は、なにやらショックを受けているようだった。戻りすぎた、とでも言いたいのだろうか。七海にはわからなかったが、体が濡れていて元気がないことは理解できた。


 心なしかしぼんで見えるムー太を抱えたまま、七海は魔眼狼の背から飛び降りた。右手で魔眼狼の頭を撫でながら、


「ありがとう、ポチ。ここからは一人で行けるから、君は森に帰りなさい」


「クォーン!」


 魔眼狼は尻尾を振りながら嬉しそうに鳴くと、踵を返し霧の中へと消えて行く。


 それを見送り、七海はさっそく魔樹の元へと歩を進めた。

 波打つ極太の根の上にとび乗り、油断なく周囲を見渡す。その瞳はせわしなく動き続け、険のある顔からは緊張が窺える。


 根を踏みつけ、その感触を確かめてから呟く。


「鉄のように硬い……やっぱり、あの魔物は――」


 その時、根に絡み付いていた多くの蔦たちが、一斉に動きだした。触手のようにうねうねと脈打ったかと思えば、次の瞬間、風切り音を伴って振るわれていた。


 強制的に蔦へ意識が向けられる――その虚を突いて、七海の足へ別の蔦たちが絡みつく。何重にも巻かれた蔦たちは、鋼のように硬く頑丈で、簡単に外れるものではない。


「――――!?」


 飛び退こうとした七海の体がガクンと揺れる。


 鋼のように強固でありながら、鞭のように柔らかなしなりを見せる――二つの特性を秘めた蔦の鞭は、音速を突破した衝撃波と供に七海の首筋へと迫る。しかし、


「――甘いんだよね。その程度じゃ、私に傷はつけられない」


 絶氷の魔力とはまた別の、七海の常人離れした動体視力と身体能力が、振るわれた蔦の鞭を鷲づかみに捕らえていた。ピチピチと動く先端を睨め付け、魔力を込めて粉砕する。


 それを見た残りの蔦たちは、足並みを揃えて一斉攻撃を開始した。無数の蔦が様々な角度から全方位攻撃を仕掛ける。緑色の豪雨が降り注ぎ、傍目には万事休すに思われる。


 しかし、当の七海に危機感はない。もはや避けるのも面倒だと言わんばかりに仁王立ちしたところに、飛来した蔦の束が殺到する。が、寸でのところですべてが凍りつき、自ら振るった加速による衝撃でボロボロと身を滅ぼしていく。


 そうなることがわかっていた彼女は、豪雨が止んだのを見てつまらなそうに視線を上げた。足に絡まった蔦を蹴飛ばせば、砂山のように崩れてしまう。


 ため息をつき、魔樹を見据えて言った。


「小手調べのつもりか知らないけど、本気出さないなら次の一手で終わりにするよ?」


 そう宣言すると、七海は懐に差してあった刀を引き抜いた。


 名は氷雨。冷属性の魔力を増幅するように作られた、七海専用の刀である。


 その刀身は氷のように透明で、鏡の如く周囲の緑を反射する。万華鏡のように美しい刀だが、一振りすれば無手のときとは比べ物にならないほど絶大な威力を発揮する。ゆえに、これを使うのは随分と久しぶりだった。


 視線を落とせば、例のごとくムー太はボンボンで目を覆って防御の姿勢。暴れられては困るので、一安心といったところである。


 と、ふいに大気がざわめいた。


 つよい風が吹き、ムー太の毛並みとボンボンが後ろへ倒される。それと同時、耳へ届いたのは女性の声だった。


「人のことわりを外れし者よ。なんじは一体、何用で参ったか?」


 七海は左腕の力をぐっと強めて、ムー太が落ちないように固定。右手で持った刀を正眼に構え、ムー太を庇うように右肩を前へ出す。風ではためくマフラーの裾を、肩の動作だけで後ろへ流し、不敵に笑う。


「人間への攻撃を止めに来たんだよ。とぼけても無駄だからね」


 構えを取った七海の前方、根の一部に変化が起こる。


 人の等身大まで木の根が隆起したかと思えば、それは人の形へと変化してゆき、あっという間に女性の姿と相成った。


 腰まで伸びた緑色の髪の毛と、その間から覗く真紅の瞳が印象的だった。葉を象った深緑のドレスを着ていて、実りある膨らみが胸元に二つある。魔樹の下僕とは明らかに違う、神聖な雰囲気をまとった女性だった。


わらわと一戦交えようと申すのか?」


 真紅の瞳がギロリと睨みを利かせる。そのプレッシャーは相当なものだったが、七海は怯んだりしなかった。堂々と背を伸ばし、余裕を持った口調で告げる。


「話し合いで終わるなら、それに越したことはないよ?」


「笑止。話し合いの余地など一切ないことを知れ」


 憎悪に歪む真紅の瞳が、七海を射抜く。

 そして、女は腕を掲げて人差し指を天へと向けた。円を描くように指を動かすと、その尖端には光の輪が出現。ゆっくりと上昇していき、女が魔力を篭めると一気に巨大化した。


 それは巨大な魔法陣。


「見るがいい、愚かな人間たちの末路を」


 魔法陣に映し出されたのは、開拓村の様子。


 映像は一定の間隔で切り替わり、様々な場面を映し出す。


 冒険者の振るった剣が虚しく砕け散り、魔樹の下僕に急所を貫かれる場面。


 開拓民が悲鳴を上げながら逃げ惑い、無力なまま餌食となる場面。


 霧に飲まれて消えていく人々を映し出した場面。


 奇襲を受けた冒険者たちは、満足な陣形を組めないまま、蜘蛛の子を散らすように分断されている。霧の影響で全体を見通せない冒険者たちは、散った先で各個撃破されるか、濃霧に飲まれて消えるかの二択だ。


 そして――


「――アヴァン!?」


 満身創痍で戦い続けるアヴァンの映像が流れ、七海はとっさに叫んだ。


 その顔が見たかったと言わんばかりに、女は残忍な笑みを浮かべる。


「羽毛の如き軽い命を燃やし、妾を楽しませる遊具となることを許そう。繁殖力だけが取り柄の下等生物――家畜同然の卑しき存在が、最後に役に立つのだ。ありがたく思え」


 人間を虫けら以下にしか思っていない傲慢な言い草。それは魔族に共通する思想である。風化しつつあった魔族に対する憎悪の念が、胸の中で燃え上がるのを七海は感じた。


 一番辛かったときに手を差し伸べてくれた恩人がいた。行く場所のなかった彼女に居場所を提供し、娘同然に可愛がってくれた。それがどれだけ心の支えになったことだろう。

 しかし、その人は死んでしまった。ロクに恩返しもできぬ内に、その機会は永遠に失われてしまったのだ。


 そう、魔族の手によって。


 膨れ上がった怒りに七海の両肩が震える。それを見た魔樹と思わしき女は饒舌に続けた。


「汝の恋人はなかなかの強さだな。だが、あの傀儡くぐつ人形は、妾の魔力が続く限り生まれ続ける。あの者の魔力が尽きたとき、命運もまた尽きるのだ。だが、今すぐに引き返せば、汝なら救えよう」


 戦わないで去れと言いたいらしい。冗談ではない。自分は魔樹を討伐しに来たのだ。戦闘を避けたいのかもしれないが、そうはいかない。

 ぶっきらぼうなところもあるけれど、お人好しで優しい青年。受けた恩は返さなければならない。戦う理由は十分にある。


 上空に浮かんだ投影魔法陣。視界の端に映るアヴァンの動きは鈍い。体力的にも魔力的にも、限界が近いのだろう。和平を結ぶ気のない相手とゆっくり話している時間はなさそうだ。だから七海は対話を拒否し、宣戦布告した。


「確かに、命の重みは違う。でもそれは、絶対的なものではなくて、相対的なものに過ぎないんだ。私から見れば、軽いのは――魔樹、君の命だよ。攻撃を止めないのなら、今この場で滅びることになる」


 真紅の瞳に殺意を乗せて、女の瞳孔が鋭く引き結ばれる。苛立ちを隠したいのか、感情を殺した低い声で女は言う。


「……ほう。妾を侮辱するとは命知らずなことだ」


「命知らずはどっちだろうね。悪いけど討たせてもらう」


 全身から魔力がほとばしり、濃度を深めながら七海の周囲に展開されていく。問答無用のその姿勢に、女はため息をついた。


「戦闘は避けられぬか、仕方のないことよ。だが、その前に胸に抱いている魔物を解放せよ。その魔物が傷つくことは、汝にとっても本意ではあるまい」


 予想外の提案に虚を突かれ、一瞬だけ七海の思考が停止する。怪訝に思いながらも、


「それは無理」


 短く拒絶する。


 ムー太が可愛すぎて離したくない。などという女の子的な思考によるものではない。単純な話、七海の魔力特性を加味して考えた場合、抱いている今の状態が一番安全なのである。

 ゆえに、女の提案を受け入れる理由がない。拒絶するのは至極当然の結果であり、ムー太を大事に思うからこその返答であった。


 しかし、そうとは知らない女は怒りを露にした。眼球のすべてが真紅に染まり、人間ではありえない角度でつり上げられる。お上品にまとまっていた口は耳元まで裂けて、凶暴な様子に拍車がかかる。


「おのれ、卑劣で下賎な人間め。我が子を盾にするか!」


 女が怒号を発すると、呼応するように魔樹が輝き出した。発言の意味を七海の頭が理解する暇を与えず、みるみるうちに眼前の女に魔力が集中していく。

 地に下ろした根は、蜘蛛の巣のように複雑に枝分かれしながら、地中を走っている。その森全体に通ずるネットワークを介して、膨大な魔力を集めているようだ。


 そして地中からは、新芽が顔を出すように魔樹の下僕が生えてきた。視界を埋め尽くすほどの圧倒的なその数は、百や二百では利かないだろう。


 女の顔に狂喜が浮かぶ。


 考えている時間はなかった。揺らぎかけた心を鎮める。魔力濃度を更に深めて、そのエネルギーのすべてを刀に集めていく。


 二つの強大な魔力がせめぎ合い、その境目では暴風が吹き荒れていた。


 そして、先に魔力を練っていた分、いち早く準備を終えたのは七海だった。刹那、満ち溢れていた魔力の片割れが跡形もなく消え去って、七海の周囲に空白が生まれた。


「我が冷気を帯びた魔力を糧として、万物を停止させる冷風を巻き起こし、の者たちを永久とわの牢獄へ幽閉せよ――封氷捕縛陣ふうひょうほばくじん!」


 叫び、刀を逆手に持ち直す。大きく振りかぶり、大地へ突き立てる。


 その瞬間、緑一色だった森の中は、白一色へと書き換えられた。


 それは、太陽が雲の合間から覗いたとき、一瞬にして大地から影を消し去るのと似ている。緑豊かだった森の中は、一瞬にして凍りつき、白一色の樹氷へと変わってしまったのだ。


 すべてが凍りつき動くものは何もない。


 数百とひしめく魔樹の下僕はもちろん、その主である女までもが完全に凍り付いている。その後ろに聳える魔樹でさえも氷に包まれており、その力強い生命の息吹を感じ取れない。


 氷を砕いてしまえば魔樹の討伐は完了する。


 早くトドメを刺さなければならない。迷っていれば、惨事に気づいたムー太が止めに入ることだろう。その愛くるしいお願いに抗うすべを七海は持たない。ゆえに迅速な行動が必要なのである。


 しかし、七海は動けなかった。魔樹が最後に言ったセリフが耳から離れない。


 ――おのれ、卑劣で下賎な人間め。我が子を盾にするか!


 そんな馬鹿な、という気持ちのほうが強かった。けれど、万が一を考えると、どうしても決断できない。


「まさか……」


 魔樹は戦いを避けようとしていた節がある。わざわざ村の様子を七海に見せて、戻ることを促していた。それはムー太を傷つけたくなかったからなのではないか。


「むきゅう」


 ぽふぽふ、と頬が叩かれる。どうやらタイムアップのようだ。


 しかし、それでいいと七海は思う。真実を確かめなければならない。


「わかってるよ、ムー太は優しいもんね」


 そう言って友の体を撫でると、眼前で氷像となった女の呪縛だけを解いた。

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