山車人形:月乃眼天山 壱

 不尽ふじ山麓さんろく天台岳あまみだけ

 その頂に佇む神桑しんそうにて、月とくながった女がいたのだという。

 女は月の無聊ぶりょうを慰めるため、隕鉄いんてつの刀を捧げ、木陰に踊った。


 常夜の雲わけ ちはやぶる

 月のみかげと おろがめば

 やれ八重垣の 神室桑かむろぐわ

 恋ひし過ぎめや 望月の間に


 遠い夜空の伴侶に渡された刀舞は大層美しかったそうだ。

 星月夜に指が伸べられれば、その顔貌に女たちのため息が漏れ、

 刀玄妙にまわらば、男たちのどよめきが止まなかった――そう伝わっている。


 幼少のみぎり、真砂まさごが母から聞かされた御伽話だ。

 双羽真伝月乃眼流ふたばしんでん・つきのめりゅうという。

 月に捧げる巫女舞を武術として昇華せしめ、夫となる月以外の男人の往来を禁じ、絹造りで暮らす美しき巫女たちの小さなさと。深山幽谷たる天台岳に佇む、桃花源郷を思わせるごとき楽園なのだと。


 ……どうでも良いと、真砂は思っていた。

 美しいものがこの世にあるとは到底信じられなかった。父は外国とつくにとの戦に行ったあと、右手だけになった姿で帰って来たし、女手一つで自分を育ててくれた母は、身を売り、体を壊した末に、真砂が孝行する前に病で逝ってしまった。優しかった母の屍は痣と発疹に塗れ、醜かった。自分をなげうってまで真砂を生かしてくれた彼女の結末が、膿と琳液りんえきを垂れ流す肉の塊だとするならば、もはや真砂にとってこの世に美しいものなど在りはしない。ただ、己の名のごとく、砂のように零れ落ちる人の命だけが真実だと思っていた。


                   +


 双羽真伝月乃眼流は総本山、天台岳。その頂きにそびえる、男人禁制の月乃眼流の道場に真砂はいた。廃寺を築繕した、巫女たちの伽藍。蝋燭が照らす眼前には、月乃眼流最強の剣士の称号――『天山てんざん』を頂く女――月乃眼天山つきのめてんざん寝俎ねそべっていた。


 月じみてしろい女だった。例喩たとえではなく、髪、腕、肢――総身が真珠とでもいうべき柔らかさと輝きを備えている。香が焚き締められているのか、沙幕のごとく散らばった白髪は、幽谷に佇む香木のずいの匂いを淑やかに纏っていた。その中で、ただひたすらに紅い瞳だけが、真砂を射竦めている。

 当代最強との呼び声高い《人形遣い》。その御姿。

 ――この世に美しいものなど、在りはしない。

 すべて誤りだった。そうではないのだ。

 母の死後、蛍雪の功にて幕府に登用され、《人形》の存在を知り、『左義長合戦』を管理する『三業番さんごうばん』としての任を仰せつかった。そして、この世の裏に蔓延る《人形遣い》と呼ばれる神秘を知った。だがそれらは真砂にとって美しいものなどではなく、刀や槍、種子島と言った殺戮の手段がたまたま《人形》という形をとっていただけのことにすぎない。

 しかし。月乃眼天山はそうではなかった。

 御伽の話は、今、真砂が手を触れ得る距離に笑っている。


「『三業番』の方ね」


 天山の声は。

 在り物のような一言でさえ、夜露に濡れたような甘さを孕んでいる。

 仙女の如き声貌である。真砂は駿河に足を運んでいたはずだったが、ここ不尽山脈がこの世で最も天に近い場所であるのではないかと気をみだしそうだった。

 強く己を保つ必要がある。真砂は《左義長合戦》の名代みょうだい、『三業番』の一人として、この天台岳までやって来たのだから。


「真砂と……申します。万夫不当の《人形遣い》と名高い天山殿に拝謁叶い、この真砂、恐悦至極に存じます」

「……あなた」

 天山は小さく欠伸をして、口許に手を当てた。

「私みたいなただの《人形遣い》に、そんなにかしこまらなくていいのに。『三業番』は、『左義長合戦』の運営者じゃないの」

「『左義長合戦』は神事です。貴女がたは、《真我傀儡まがくぐつ》に選ばれた」

 真砂の肺腑から、押しつぶされるように言葉が漏れ出た。天山の言葉には、そうせざるを得ない何かがある。

「左義長の戦に馳せる《人形遣い》は、いわば神の駒。この根付は、それをあかすもの」

 真砂は持参していた桐箱を開けた。その中には、蝋燭の光を浴びててらてらと輝く、太鼓を象った木彫物――根付が収められている。

「来たる半年後、師走の候。この根付が、『左義長合戦』に参じる標となります。勝者には、如何なる姿にも変ずる《真我傀儡》が与えられる」

「ふうん」

 退屈そうな調子を崩さぬまま、天山は根付を取った。

「じゃあ、貴女は、私に『左義長合戦』で殺し合いをして欲しいわけね」

 真砂の胃の腑が、重くなる。自分は『左義長合戦』に月乃眼天山を誘い、そして……ともすれば、この絶佳ぜっかの生を手折ろうとしているのだ。

『左義長合戦』は神事であり、参加者は《真我傀儡》の編む阿弥陀籤によって裁定される。それら《人形遣い》に“参加証”である根付を届けに行くことも、真砂たち『三業番』の任の一つだった。

「……すべては《真我傀儡》が手繰り寄せた糸の結果であって、『三業番』は意思を持ちません。繻子しゅすの柄を案じる糸車がいずこに居られるでしょうか」

『三業番』は、幕府の支配に組み込まれた一つの機関であると同時に、《真我傀儡》の従僕でもある。長きにわたる二重の権力構造は、真砂から思考を奪うには十分すぎる堅牢さを有していた。

「そ。可愛いことね」

 対し、根付を弄んでいた天山の白い手が払われる。

 宙に掛けられた蜘蛛の糸を手折るように、ただ優雅だった。

「本当は……先代の“天山”から、『左義長合戦』の話は聞いているの。当の彼女が戦いの中で斃れたからこそ、私が後継者に成ったのだもの」

 天山は薄い唇を吊り上げた。

 確かに、

 彼女の師――十四代天山も、その『左義長合戦』に挑み、命を落とした者の一人だったのだという。真砂は『三業番』の任に就いてから日が浅いため、前段の『左義長合戦』については無知だったが、それでもその戦いの激しさだけは仲間から聞き及んでいた。

「偶然か必然か、《真我傀儡》は、再び“天山”たる貴女を左義長の戦に選びました。あるいは、天山どのの師の仇討ちも――」

「ああ、ごめんなさい。別にね、それはどうでもいいの」

 天山は想い人に秘め事を明かすような、粒立った声音こわねで囁いた。

「はっ?」

「『左義長合戦』には出るわ。私は強い《人形遣い》と戦いたいから」

「……どういうことです?」

「ねえ。真砂」

 名前を呼ばれた。その瞬間、真砂は自身の身体が縛り付けられたように――月の光に、心の蔵を穿たれたように感じた。

「強いことは美しいわ」

「……美しいものなど」

だから。

「美しいものなど、この世に在るのでしょうか」

 思わず己の生を縛る命題を差し出してしまったことにも、違和は覚えなかった。それが例え、天山に誘われた答えだったとしても。

「綺麗なものが怖いのね」

「怖い?」

 真砂は、自らが不要なことを口にしていると理解している。だが同時に、天山の瞳の揺らめきと、いぶる静謐な香から逃れることができない。

「貴女は美しさを愛している。でも、それがこわれるのが怖くてたまらない」

 真砂の喉がきゅうと締まる。反駁はんぱくすることなど、出来ようもなかった。

 母は美しかった。昔のことだ。

 死に際。母の陶器のように白かった肌は、梅毒のやまいに食い荒らされ、搔きむしる度に血膿を噴き出した。死ぬ直前、真砂の母は頬の疹瘡を小刀で切り取った。それでも掻痒は消えず、えた匂いの血をべっとりと掌に張り付けながら、彼女は息絶えた。美しさを保ち続けることなど叶いはしない。いつか損なわれ、跡には砂のように風化した骨だけが残る。真砂はそれが怖かった。

 月乃眼天山もいつか、醜くかばねを晒す日が来るのだろうか。

「確かに、私は……恐れているのやも知れません」

 訥々とつとつと言葉が漏れる。天山の視線が、初めてはっきりと真砂の方に向いたことを感じた。

「『左義長合戦』は神事であると同時に、紛れもない殺し合いです。生き残るのはたった一人。天山殿といえど、他の《人形遣い》に敗れ、骸を晒すこともありましょう」

 ……それでも。《人形遣い》であれば、『左義長合戦』を戦わない、という結末はない。誰もが何かに縛られている。《人形遣い》ならば尚のことだ。《真我傀儡》は如何なる姿にも変化する神の傀儡である。

 《人形遣い》は師から、親から、あるいは仲間から――その存在を伝承されて育つのだ。歴史の闇の中に埋もれ、神の《人形》だとしか伝わっていない《真我傀儡》が、それでも本物だと。

 真理、証明――《人形遣い》は、姿

「――けれど。“根付”を奪うことは許容されているのでしょう」

「……その通りです」

 天山は当然のことのように語ったが、それこそが真砂の話の肝だった。左義長の戦に参ずる資格――根付の奪い合いは、許されている。もしも真に《真我傀儡》が、自身の択んだ《人形遣い》による殺し合いを望むのならば――そも、“根付”を真砂から天山へ、《人形遣い》から《人形遣い》へ、受け渡すことなど不可能なはずだ。だが現実には、“根付”を奪い合う戦いが、既に世界各地で起こっているとの報せがある。第七警邏の漸蘭ざらんは出処不明の『絡繰人形からくりにんぎょう』と共に『小芥子人形こけしにんぎょう』遣いを屠っている。遠く異国の地では無名の『錬金人形ごうれむ』遣いが『聖列境会きょうかい』の擁する《人形遣い》を殺し、根付を奪ったのだという。印海を越えた咬𠺕吧じゃがたら(※インドネシア)の地での紛争には、影を操る《人形遣い》が表舞台に姿を現し、『左義長合戦』にて勝利することを誓ったそうだ。『三業番』はこうした動きについて、一切の干渉を持たない。彼らは『左義長合戦』の管理者でこそあるが、根付をめぐる《人形遣い》同士の諍いについては静観する構えだった。それはつまり、《人形遣い》が殺し合うことこそ、《真我傀儡》の真意だと――そう認めるに等しい行いでもあった。

「なら、私の根付もいつかは奪われてしまうのかしら」

 天山は薄く、しかし含むように笑った。逢瀬を待ち詫びる寵姫のようだった。

 だが、真砂はそれを否定する必要がある。なぜならば、『三業番』にとって月乃眼天山は守るべき対象でもあるからだ。

「十七年前に行われた、前段の『左義長合戦』……その勝者の所在を、我々『三業番』は握っています。彼女が貴女を護ります」

 初めて、天山の白眉が大きく動いた。偽りではない。前回の『左義長合戦』を生き抜いた『皐月人形さつきにんぎょう』の遣い手――七鉄守屋なながねもりやは健在である。

 今も天台岳のどこかに、潜んでいるはずだ。『皐月人形』を纏って。

 だが、天山は――自身が『左義長合戦』の勝者に守られることになると聞いても、露骨に表情を歪めた。

「『三業番』は、《人形遣い》同士を争い合わせるように仕向けているのでしょう? 私を生かしておく理由があるかしら」

「我々の務めは、『左義長合戦』の運営ないということです」

「ああ……『三業番』は幕府の所属だったわね。『左義長合戦』は国内外を問わず、幕府を脅かす《人形遣い》を殺し合わせるいい機会になる……根付を奪い合わせる“予選“まで含めれば」

 天山はほそやかな指を折り数えて、柔らかく微笑んだ。

「少なく見積もっても、二十人ほどは死ぬわね」

「名算です。しかし……」

「私が『合戦』の中で斃す人たちも含まれているのでしょう」

 ――言った。天山は、『三業番』たる真砂の前で、全くの躊躇なくその事実を口にした。彼女は真砂たちを牽制している。その事実を指摘しても、なお生き延びる自信――否、確信だ。彼女はその幽玄とした外見とは裏腹に、謀事への頭の回りも、怖気を覚えるほどに敏速である。

 だが、彼女が求めているものは、強き者との戦いだけなのだという。

 ……故にこそ、恐ろしいのだ。《人形遣い》は。

「歴史の闇に隠れ、怪力乱神を振るう。そのような力を持ちながら、皆なにかに縛られ、戦い続けている……貴女方は獣ではない。縛られているからこそ、その繋がりのため何もかもを叶えようとする。私には、それが恐ろしい」

「だから、私だけを保護して、『三業番』の駒にしようとしているのね。何故私なのかは、疑問が残るけど」

 そう。『三業番』の……運営側の特権。すなわち、

「至極単純。貴女が最も強く、最も勝ち上がる目算が高いからです。果てなき戦いが待ち受けています。あるいは、天山どのに比肩する強者も出て来るやも……」

 『三業番』にとり、月乃眼天山との協働は、『左義長合戦』の本戦まで秘めることを狙いとした一手であった。”予選”で消耗させるつもりも、ましてやその露払いをさせる予定もない。『三業番』には、もう一つの絶対的な勝ち札がある。『皐月人形』――七鉄守屋の存在が。

 あとは、天山が首を縦に振れば、労せずして左義長の戦の趨勢は決する。

 そのはずだった。

「――つまらないわ」

「は?」

「つまらないと言ったの」

 恐ろしいほど冷えた声音で、天山は背後の壁に立てかけられた刀を抜き放つ。

 異形の太刀だった。鍔が三日月のように湾曲し、極めて細い刃が糸鋸のような骨組みに渡されている。 “天山”のみが代々引き継ぐ、隕鉄にて織られたあしぎぬという刀だった。

 

 次の瞬間、

 天山の刃が、

 首元にる。


「……も」

――斬られる。

「守屋どのッ!」

 そう叫んだ直後、真砂は天山の意図に気付いた。

 彼女は、強者との戦いを求めている。圧倒的な強者である彼女が、真砂に偽る意味はない。阿る意味も、ましてや殺す意味さえも。天山はその言動に反して、はかりごとたぐいもまるで苦にしない。そして、『三業番』である真砂に、感情以外で刀を向ける狙いといえば。

(……まずい。釣られた!)

 既に、天山の視線は真砂には無い。

「ずうっと。美しい、あなたのことを待っていたのよ――」

 轟音。

 静謐に満ちた伽藍がらんを突き破り、黒い巨影が真砂と天山の間に聳えはだかる。

 ――それは、身の丈二尺を超すかという大具足おおよろいだった。畢竟つまり、ひとの纏うものではない。黒具くろぞなえの胴丸と脚絆に大袖を纏い、兜は甲虫の如き一本角。面頬は鬼神を象っており、その瞳があるべき部分には水晶が嵌め込まれ月の光に濡れている。大具足は薙刀は脇を締め、自らの獲物――丸太ほどの丈を持つ大薙刀を構えた。

 ながさは五尺。おもみは五貫。

 刃ばかりか、長柄ながえまでをも鋼にて拵えられたそれは、人が把持はじしうる最大荷重の冷兵器のひとつであり、《人形》の体躯でさえなますのように切断施仕せしめる。極点の武技で力を鎧いし、それは鋼の獣である。


『そうかい。あたしゃ、お嬢ちゃんには会いたくなかったけどね』


 面の奥より、しわがれた声がぐつぐつと笑った。

 皐月さつき人形。銘を艾草がいそう

 操演者。名を七鉄守屋なながねもりや

 十七年前の左義長の戦を生き抜いた、比類なき強者である。


「初めまして――強いのね。大好きよ。守屋」


 戦いそのものを前に、天山の頬にはただ朱が差した。

 月に咲く花のようだった。


「――死ぬまで戦いましょう」


 己よりほか強き者全てをぐ在り方は、一つの美に似ている。

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