鬼とJK

坂月つかさ

第1話 序

山々が連なる峰を雲が流れて行く。

山肌に綿が降り積もるように薄く、そして峰底にしたがい厚く。

降り積もる雲は、やがてすべての景色を包み込んで辺りを雲海へと変えて行く。

夕暮れ近くの陽射しが、そんな世界をゆっくりと黄金色に染めあげていった。


長野県飯縄山。

信濃の国の山深く修験道の行者が行を修めるその場所は、現代もなお人の往来を拒んでいる。

深く緑が生い茂る険しい山の中腹には切り立った崖があって、風がゆっくりと岩間を渡って行く。


その大きさは四畳半ほども有るだろうか。

夕暮れ近くの風がその向きを変えると、崖の中程から突き出した岩が風に煽られ、みしりと声をあげた。


元々はもっと高い位置にあったのだろうその大岩は、転がり落ちた先で小さな岩の先に引っかかり奇跡のようなバランスで鎮座していた。

片側を崖肌に預け半ば中に浮いた様にも見えるその様子は、今は金色の雲海に浮かぶ小島のように見えていた。

岩の食い込む崖肌からは今も少なくない土砂が崩れ、パラパラと崖底に吸い込まれてゆく。

そんな今にも崩れ落ちそうなその岩の上には、一人の男の姿があったのだ。


ざざざざざざっ


山の麓から岩に向かって風が吹き上がる。

風の道が雲海を二つに割り、左右になぎ払って行く。


結跏趺坐。


いつ崩れ落ちても不思議はないその上で、男は座行を行っていた。

落ちれば勿論命は無い。

けれど、その岩の上から見下ろす景観には特別の価値があったのだ。


雲が割れ、世界が生み出されて行く。

雲間から差す陽光が大地を焼き、全てを黄金に造り変えて行く。

まるで、全ての古き物が焼灼されるかのように。


師に教えられて以来、何度この景色を眺めただろう。

男にとってそこは特別な場所だった。


日が暮れて橙色の空が小豆色に、そして深い紫へと染まってゆく。

代わりに現れたまあるい月影が男の彫りの深い顔立ちに陰を落としていた。


半眼に開かれた眼差しに瞬きすら無く、風に吹かれるままその場所にただ置かれた姿は、身体ごと岩の一部の様だった。

それを三昧の境地と呼ぶのだろうか。

その眼差しはどこか菩薩のようで、穏やかさの中にどこかおごそかな物を感じさせる。


男が座行を始めてから既に丸一日が経過していた。

分厚い雲に月が隠れたのをきっかけに男がそろそろと息を吐き出す。

座禅を解くと、岩の上から崖を伝わって移動して行った。


登山靴のビブラムの靴底が岩を噛み、全く音を立てない。ただ淡い影がゆるゆると男を山の中腹へと押し上げてゆく。

男が移動した先には一本の大木があって、張り出した枝の下に小さなテントが設えてある。

そこが男の休息地だった。


◇◇◇


パリリ。


セロファンの包装を解くとファミマのおにぎりを頬張る。

一つ目は昆布の佃煮と決めていた。

たき火で沸かしたコッフェルの湯を、海苔の味噌汁の紙カップに注ぎ込む。


ゾゾゾッ。


その熱さに男は少しだけ眉をしかめた。

コッフェルと水のペットボトル。加えてインスタント味噌汁まで持ち歩くのは無駄を感じさせる。

だが、良いのだ。

このやり方が好きなのだから。


その昔、この辺を飛び回っていた頃は食事は木食か良いところ強飯を使う位で、火なんぞ使うことも無かった。

それは、この御山に畏敬の念を抱いているからだ。

けれど、それももう良いのだ。

行者は辞めたのだから。

男が心の中で独りごちる。


それに、こうして焚き火台を使えば御山の自然を損なうこともない。

ゴミは勿論持って帰る。

便利な世の中に堕落したのとは違う。拘泥する事を止めたのだ。


男が二つ目の梅のおにぎりに取りかかった。


プッ、プーッ!


けれど、おにぎりのセロファンの包装を外していると、どこからか間抜けな調子の電子音が響いていた。


嘘だろ。


この辺りは携帯の電波も届かない。文明とは隔絶された場所なのだ。

それに、自分のスマホは電源も切って・・・。


プーッ!


この着信は衛星携帯だ。

気付く間もなく着信許可を求める英語のアナウンスが流れて回答を勝手にスキップする。懐からごついバーアンテナの携帯電話が転がり落ちる。


「ゆっきー、聞こえる?」


呆れた顔で携帯を拾い上げると、良く知った女の声が流れていた。


「ねぇ聞いて聞いて。大変なのよ!」


ちっとも大変そうでは無いその声に、ごつい携帯と反対の手に持った梅のおにぎりとを見比べてしまう。


あーなんだ。


男にとって久方ぶりの本格的な座禅で、とても俗世と関わる心持ちでは無かった。

こんな晩はゆっくり星でも眺めていたい。


プッ!


男は咳払いを一つすると、おもむろに携帯の着信ボタンを押した。


「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになっておかけ直しください。」


プッ!


一息でそう言い切ると着信を解除する。

流れるような所作で電源ボタンを切ると、地面に置いたザックの中にそのまま携帯を放り込んだ。


パリッ!


梅のおにぎりを頬張る。

海苔の味噌汁がやたらと旨く感じられた。

やっぱ、味噌汁はファミマだよな。


何事も無かったかのような顔で夕餉を再開する。

けれど、コンビニ袋のゴボウの味噌漬けに手を掛けた所でザックから携帯電話が飛び出していた。


『何で切っちゃうのよ!』


カサカサカサッ。

携帯から足が生えていた。

取り上げようとする男から携帯がおもむろに距離を取る。

見るとアシダカクモのようなドローンが、地を這いながら携帯を操作していた。


「それに、着信拒否の台詞が無駄にさわやかでムカつくんだけど!」


いわれの無い糾弾に空を見上げると、厚かった雲が切れて再び月が覗いている。

男はふうと溜息をついて諦めたように首を振る。


「今日はさ、荒事の気分じゃ無かったんだよ」


そう言うと、電話の向こうで声の主がしょげ返るのが分かった。

だからこそ、今夜は会話を撰びたくは無かったのだ。


「ごめんなさい・・・。でもでも、ゆっきーじゃないとなんとか出来ないのよ。」


こいつの手駒には幾らでも優秀なのが居るはずなのだ。今更自分の様なロートルが出しゃばる迄も無いだろうに。

けれど、そんな考えは次の言葉で消し飛んだ。


「早くしないと小萌ちゃんが・・・。」

『馬鹿野郎!早く言いやがれ!』


残ったおにぎりを口に放り込み、味噌汁で飲み下す。

小萌は昔世話になった武蔵の孫だ。トラブル体質で良く事件に巻き込まれる。知人のピンチとあれば、どんな案件であろうが選択の余地なんぞ無い。


「えっと小萌ちゃん、今度は米軍の特殊部隊に襲われているの。場所は近くて、ゆっきーのいる場所から西に1800メートル」


男はゆっくりと西側を振り返った。

1800メートルは確かに近い。目と鼻の先と言って良い。

けれどそれは最悪のシチュエーションだった。


「美帆よ。おまえ、グーグルマップで見てるな?」


男の口調には諦念の色があった。


「何よぅ。そんなの当たり前じゃな」

「西は崖だ」


「えっ?」


間抜けの顔が目に浮かぶ。

以前なら国土地理院の地図で見ていた筈なのだ。そこには等高線があって状況の把握を助けてくれる。ネット地図は確かに便利だが航空写真で山の詳細は分からない。

西側は男が座行を行っていた崖側だった。直線距離が短くとも崖を回避すれば近くはない。山を迂回すれば3、4時間では済まない。


「あっ、でもでも、それだったら翼を送るから・・・。」

「米軍の特殊部隊に凧で強襲しろってか。この月明かりの中で?」


声の主が絶句する。

夜の暗闇があれば空からの強襲は良手である。だが、動力の無いスカイダイブは回避行動が取りずらい。

月明かりの下では射的の的だ。それは間違いなく蜂の巣になる案件だった。


「美帆、倉に鈴懸を預けてあったな。出せ」


一瞬考えて男が言う。


「鈴懸って行者の法衣のこと?倉に入れてたならそのままの筈よ」

「なら、への七番だ」


男が言うやいなや何も無い空間にコンテナが出現する。そこには山伏の正装がしまい込まれていた。


「待って!コンバットスーツを送るから今回はそっちを使って。向こうはゆっきーの事知ってるし、自動小銃だって装備してるわ」

「必要無ぇ。この辺は俺の庭だ。こっちの方が力でる。」


パーカーを脱いで裸となり、ギリシャ彫刻の様な躰に褌を締める。登山の装いの代わりに行者衣装を身に纏う。

ビブラムの登山靴を脱いで、足袋に脚絆、そして、一本歯九寸の高下駄。

毛皮の引敷の代わりに鉄製の焚き火台を腰に当てる。


鋳鉄製のカラス面、金剛杖。そしてコンテナの底から取り出したのは楓の葉の団扇だった。

握り手が西洋の宝剣の様で、男がそれをふる度に団扇の部分が巨大化する。


「ああっ、芭蕉扇じゃない!そんな所に隠してたんだ!」


その声を聞いて男が顔をしかめる。


「芭蕉扇じゃねえ。こいつは御師様からお預かりした大団扇だ」


ドローンで様子を見ていたのだろう。声の主は昔からこの大団扇を欲していたのだ。


◇◇◇


この場所は飯縄権現様を奉る御山。そして、男の着ける面は権現様の御姿を写し取っていた。

おもむろに手印を組んで真言を唱える。


「オン チラチラヤ ソワカ」


それは、この御山を象徴する飯縄智羅天狗、彼の師匠の真言だ。


地の印、水の印、そして月の印。

流れるように手印を組むと飯縄権現の力を借りる。


『ごうりき!』


単に力が強くなるばかりでは無い。感じる力、考える力が格段に引き上げられる。

そこにいる男は既に人を超えた何かだった。


「救助の対象は小石川小萌、十七歳。確保したら登山口の方へ回って。セーフハウスを用意してるから。」

「分かった。」


直ぐにも飛び出そうとする男に携帯電話が待ったをかける。


「それと、倉は全て開放してるから中の物は自由に使って。」


此処で言う倉とは、いわゆるゲームのインベントリの様な物だった。声の主が提供する力で、カバン無しで幾らでも物を収納できる。

その中には、男がこれまで集めた色々が収納されている筈だった。

制限なしの倉の使用は破格の条件で、だからこそ油断出来ない敵と知れた。


「あと、絶対無事に帰ってくる事」


その表情が眼に浮かぶようで男の口元が笑う。声の主とは長い付き合いだった。

度々喧嘩もしたが、これだけ長く関係が続いたのは彼女の性根が真っ直ぐだからだ。

ミスで窮地に立たされる事はあったが、騙された事は一度も無い。


「ちっと行ってくる」


今度、土産でも持って顔を見に行くか。一瞬そう考えてから心を切り替える。


「それとな美帆、俺の名は与四郎だ。ゆっきーって言うな!」


そう告げて虚空に身を躍らせた。


男にとって、それはいつ終わっても良い旅だった。

けれど、この手で救える命があるのなら、もう少し続けても良い旅だったのだ。


◇◇◇

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