ヴァツダの誇り

安藤もゆり

ヴァツダの誇り

 父は「ヴァツダ」と蔑まれていた母を愛した。母もその愛に応えて父を愛した。

 わたしは二人の愛を信じて、母から色濃く受け継いだ白い肌と青い血を卑下すまいと心に固く誓った。

 父は母を追うようにして亡くなった。その現実は変わらない。眼前の事に集中すべきだ。鉄の肺は壊れかけている。父の遺した説明書きを見る。この鉄の肺の中の命はわたしにかかっている。母を殺したのはヴァツダの血ではない。目に見えぬ病原体と呼ばれる敵だ。鉄の肺からは空気が漏れている。弁として機能していない七番管のバルブを一旦ひねり、止める。さすがは父の仕事だ。物がいつかは壊れるということを知っている。何が壊れても直しやすいように作るのは難しい。何にせよ終わりを意識せずに作り上げる人間の多いこと。父は違う。複雑で壊れやすい部品はそうだと予測して設計している。この鉄の肺も直り、中で寝ているレイシストもお陰で助かるだろう。七番管は外れた。新品の管を繋ぎなおす。

 皮肉なことだ。「青き血の民」をヴァツダとして街より排斥し、その民族特有の遺伝的病気とされて忌避されていた病に罹り(そもそもそれは勘違いであって、青き血の民が病原体を持っていたわけではないのだが)、そのヴァツダを愛した技師による発明で生きながらえ、その娘であるわたしが更に手助けしようとしているのだから。

 ヴァツダを排斥し、殺した者がヴァツダによって生かされるのだ。


 事の起こりは母の生前に戻る。

 母はある少数民族の出で、その部族は「青き血の民」を自称していた。北の山間に住み、山の恵を受けて生活している小さな部族だ。部族の人間は皆肌が白く、血管が青く浮くように見えるのだ。直射日光に負けるので大抵は朝方と夕方に活動する。

 さてその部族であるが、成人式で妙な風習があった。その年に十六になる者たち(生まれた年を一歳として冬が終わる頃に数字が加わる数え年である)を集めその中で最も体格の良い人物を村から追放する。村の隅に祀られている大甕(地面に半ばまで埋められた“かめ”である)を水で満たし、新成人は一人ひとりそれに頭の先まで身を浸して溢れた水の量を比べて最も多かった者が人身御供となるのである。村では、病を祓う人、という意味でマシナァタと呼ぶ。マシナァタは八日間続く成人の宴で祀られ、囃され、酒と薬草で浄められる。その後、撚り合わせた麻で桐の木片を繋いだ装束(桐装束と呼ばれていてこの目的でしか用いられない)を纏い、村長含む八人の選ばれた家長の手によって淵にそっと流されるのだ。このときすでに八日続く酒盛りと薬草でマシナァタは前後不覚になっている。不安を感じる暇もなく流されてゆくのだ。以上のような儀式を以て年ごとに体格の良い者を村から排除し続けた結果であるのだろうが、青き血の民は小柄な人物が多い。母も例に漏れずわたしの住むこの街ではかなり小柄であった。

 そして母はそのマシナァタであった。街では小柄な母も部族では大きかったのだろう。儀式に則って川に流されたが、下流の茂みに引っかかって生き延びたらしい。父が見つけたのだ。

 父の介抱により回復した母は、街の者の差別的な感情をよく知っている祖父(これは父の父である)の計らいで、隠されて生活した。この街では青き血の民をヴァツダと呼び、蔑み、忌避する。母とよく似ついて生まれたわたしもまた迫害にあった。


 しばらくそうして生活していた両親と祖父であったが、母の為に生活を整えつつあった頃、お互いを想い合っていた父と母は祖父と三人でごくごく小さな結婚式を挙げた。青き血の民の伝統風の結婚式ではなかったが、幸せだったのだろう。笑顔の三人の絵が残っていた。祖父と父の顔はよく描けていて、その優しそうな表情が二人の母への愛を物語っている。母の顔だけは少し絵柄からハズれていて、いきいきと可愛らしく描かれてはいるが、これを見て母を思い浮かべる人は少ないかもしれない。この三人の絵は母がヴァツダの呪いに罹り、病床に臥せっていた時に譲り受けた。わたしが欲しがっていたのを知っていて、それでも母が自分のものとして大切にしていた絵だ。その時のわたしは幼くて母の心情など知る由もなかったのだが、自らの最期を悟っていたのだろう。母は、自分の顔以外は自分が描いたのだ、そして母の顔だけは父が描いたのだ、と説明してくれた。母は暇があればその絵を見て幸せそうな表情をしていた。


 母が死んだのはヴァツダの呪いと呼ばれる病気のせいだ。この呪いを避けるために青き血の民はマシナァタを川の深みに供える。もちろんヴァツダの呪いと青き血の民はまったく無関係であるのだが。青き血の民はある程度以上の大きさに成長するとどうしても呼吸が苦しくなるようだ。息苦しい肺は遺伝的なものらしく、成長するに連れてより顕著になっていく。青き血の民は殆ど皆、肺が悪い。母も例に漏れず肺が悪かった。マシナァタとして捧げられたくらい発育が良かったせいで(この場合は結果が悪いので良いとは言えないかもしれないが)、風邪を引けば父や祖父より重くなり、そうでないときも苦しそうに音を立てて呼吸していた。わたし自身は今になってもそうした肺病の気配はないので、おそらくではあるがヴァツダの呪いからは逃れられるだろうとは思う(油断するべくもないが)。


 さて、わたしの考えに差別や社会的立場など片隅にすらなかったこどもの頃の経験であるが、父の計らいで(思えば治安への配慮もあったのだろうが)わたしたちは家族三人で(記憶の中で祖父は既に亡くなっている)街はずれに住んで、殆ど自給自足のような生活していた。本職が機械技師である父は農耕に用いる器具類の点検など自分でこなせるし、母も献身的に手伝っていたので大人二人とこどもひとり程度如何様にも養うことが出来たのだろう。わたしはそんな両親の愛を一身に受けて、畑仕事や機械整備など少しずつ身に着けていったのだ。お陰で独りになってもなんとか生活できている。

 そのように慎ましく生活していたある日のこと、数人で集まった街のこどもたちが冒険よろしくわたしたちの住む辺りに散策に来たようだった。わたしと年の頃を同じくする彼らは好奇心も旺盛で畑の作物のあれやこれやを物色してみたり、作業小屋の中にある農機具類をいたずらしてみたりと散々荒らしてくれたようだ。それを見つけた父は一人残らず捕まえて説教たれたようだ。優しく諭したと言っていたのを思い出すが、大人に捕まったこどもがそんなことを思うわけがない。親に話したやつが一人ではなくいたようで、翌日にそれらの親どもが謝りに来たのを覚えている。わたしと母は父に言いつけられて部屋から出ずに様子を見ていたが、わたしが部屋のカーテンをめくって窓から覗こうとしたせいでことが大きく急展開してしまった。

「ヴァツダだ」

 そのとき初めて耳にした言葉だったが、謝罪に来たはずの親どもが口々に「ヴァツダ」と言ってわたしを指差して父を詰ったので耳に残ってしまった。母に手を引かれて顔を引っ込める頃にはとき既に遅し、父は困り果てただろう。こっそり生活していたはずのわたしたちのことを彼らは迫害し始めた。わたしを取り上げてくれた助産師さんたちも黙っていてくれた母とわたしのことを街中に広めて、「近づくな」と言うくらいならましな方で、畑を荒らしたり、道具を壊したり、放火まがいの不審火すらあったりした。


 ヴァツダの呪いは、肺が悪い者が罹患すると重篤化して亡くなることが多い病気である。その患者の呼吸が肺の悪い青き血の民を思い浮かべるようだが、その実はまったく無関係である。

 偏見に悩んだ父はヴァツダの呪いを克服すべく、今では鉄の肺と呼ばれる呼吸補助器具を作成しようとした。もし母が罹患しても生き残ることが出来るように、との願いが込められていた。そもそも母も健康なうちに作られ始めたその鉄の肺であったが、材料も社会的な立場も恵まれない父だ。作るのは非常に難航した。

 街の人間からの迫害に悩まされ、うまく行かない工作に、幼いわたしを守らなければならないという義務感もあって、父は段々余裕のない人間になっていった。

 わたしも母も畑仕事や機械整備などの父の仕事をできる限り手伝い、サポートしたり、幼いなりにわたしも出来ることは積極的に頑張っていた。


 そんな折にヴァツダの呪いが流行してしまった。


 それからというものあまり思い出したくもない。

 病気で疲弊した街の人間どもがやりどころのない不安や怒りを母やわたしのせいにして迫害は加速した。街の外れで普通に生活していることすら気に食わないようで、畑や小屋など使い物にならないほどに壊されてしまう。

 しかし、父は諦めなかった。街の病院で機械技師として医師を手伝い、病が収まるだろう雨期が終わるのを待ちわびた。幸運にもその流行では母は無事だった。しかし、多くの人が亡くなった。

 この時のことがきっかけで、街の医師は父にかなり協力的になった。父の鉄の肺の草案にも興味を示した。かなり協力的になって、父の難航していた作業も進み始めて順風を受けた帆船のように進み始めて心持ち穏やかになったのをよく覚えている。


 そうやってヴァツダの呪いが流行ったり収まったりした。街の人たちはそれに合わせて思い出したようにわたしたちを攻撃したり飽きたりしていた。

 何回か繰り返して、母は無事だったものだから、母が呪いの首謀者だと糾弾し始める人物が現れた。

 ヴァツダの呪いが流行るたびにその人物を中心にわたしたちの家に来るものだから、父はその相手で仕事も鉄の肺の作業も進まない。

 そうこうしているうちにその仲間が病原体をもってきたようで、母が罹患してしまう。

 父は焦った。早く鉄の肺を完成させねば、と。しかし、間に合わなかった。迫害者たちの邪魔のせいであった。


 思い出すたびに静かに怒りの気持ちが湧いてくる。母はそいつに殺された。


 いまここで鉄の肺に眠るこいつに殺されたようなものだった。

 様々な感情が綯い交ぜになって心に過去が吹きしてしまった。

 ヴァツダに呪われて白くなっていた顔色は血色が良くなっている。

「ありがとう、お嬢さん。この機械、お父さんしか直せないと思っていたよ」

「いいえ、当然のことをしたまでです。それで、この人は助かりますか」

「ああ、大丈夫そうだ」

「良かった、です。痛っ」

「おや、血が出ているじゃないか、見せてみなさい」

 金属部品の尖った部分で切ってしまったらしい。指先に赤く血が滲んでいる。

「青き血なんて言いながら出てきたら赤いんだものな。わたしたちは同じ人間じゃないかねぇ」

 医師はかばんから薬品やら脱脂綿やらを出してわたしの手当をしてくれている。

「同じ、なんてくくったらまた同じじゃないように見えるものをいじめたりするんですよ」

「ははは、耳が痛いねぇ」

 鉄の肺の中で唸るような声がした気がした。

「はい、出来たよ。早く良くなると良いねぇ」

 医師はそう言うと自分の荷物を取りまとめ、さっさと部屋を出てしまった。

 わたしも道具を片付ける。

 部屋を出る前にもう一度、鉄の肺を眺め、不具合がないだろうかと点検してみる。

 そうしているうちにうっかり怪我をした手に力を込めてしまい、傷が開いて血が滲んできた。

 赤い血と、白い肌と、青い血管。

 わたしは医者にでもなろうかと、先程出ていった彼の後を追いかけることにした。

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