7.天の日
7-1 オリジン
昔のことを思い出している。
私――悠乃文香という人間の中核にある、大切な記憶、オリジンを。
それはいつも、顔のない誰かの、意味のない言葉の羅列を思い出すところから始まる。
「――――!」
「――、――!」
「――――」
暗い部屋の中。錆びた寝台の上でうずくまっている私に向けて、声と物音が連続する。
孤児院の地下にある、私の部屋の前の廊下。食事の時間や自由時間になると、いつもこうして、私が部屋の外へ出てこないよう、嫌がらせが始まる。
大人たちも、私が表に現れないならその方がいいので、あまりうるさく咎めたりはしない。結果として今日も、
――そんなことしなくたって、別にあなたたちなんかに関わったりしないのに。
そう思っても、伝える手段はない。
扉を開ければ、声の一つを発する間もなく、誰も彼もが
原因は、私の眼にある。
私の眼は、
幼い私が力を制御しきれなかったこともあって、周りの人間は私を恐れ、
子供の無邪気な残酷さは、現実でも識域でも変わらない。大人にも嫌われている私は彼らにとって格好の的で、夜昼なく害意と悪意の対象にされた。
自衛のために、私はしばしば院を抜け出した。といっても、行く先が大してあった訳ではない。あまり一つの場所にいすぎると目を付けられるので、人気のない場所をさまよっては、何をするでもなく、ただ時が過ぎるのを待った。
唯一例外だったのは、“死者の河”のほとりだ。
街の外れにあるその場所は、忌むべき地とされていて、あまり人が寄りつかない。人目を避けて時間を潰したい私にはちょうどいい。
よく通った理由はもう一つあった。そこが私の生まれ故郷だと聞いていたからだ。
現実に根付かなかった命――その存在の破片が流れるこの河は、名前に反して、識域に命を産み落とすことがある。ほとりで拾われた私は、そうした命の一つなのだと教えられて育った。
多くの人はその事実を嫌うというけれど、私は、自分を拒絶しないこの場所が好きだった。
河の流れを見ている時だけ、私は人を害する不安に襲われず、心を休めることが出来た。
“彼”に出会ったのは、そんな日々の最中だった。
死者の河は、現実との天然の境界だ。ごくまれに“向こう側”からの迷い人が現れることがあるとは聞いていたけれど、実際に
「お前、一人なのか」
向こう岸からやってきた彼は、やめておけばいいのに、わざわざ私に声をかけた。
「そうだけど。それが、何」
愛想のない返事だったと思う。私なりの処世術だった。傍にいるのがわかっているのに、
関わりを持てば、私がどういう存在かわかった時、相手は離れていく。それなら、最初から寄せ付けない方がいい。
ところが彼は、少し考えた後、言った。
「俺も一人なんだ。厳密にははぐれたんだけど、大体似たようなもん。――隣、座っていいか」
小さく心臓が跳ねる。悟られないよう、そっけなく返事をする。
「……好きにすれば」
「ん」
頷くと、彼は腰を下ろして、沈黙した。
それきり、動きも喋りもせず、ただじっとしているものだから、段々落ち着かなくなる。
害して来るなら、遠ざけるか遠ざかるかすればいい。何か義務感で寄ってきたなら、心を開かず、適当に追い返してやればいい。
でも、どちらでもない。そういう人間にどういう対応をすればいいか、私は知らない。
「あなた、何」
考えて、ようやくそれだけ言った。
ひどい言い様。それでも、彼は気分を害した風もなく、自然体で答えた。
「最初に言っただろ、迷子だよ。帰り方もわからないから、ここでじっとしてる」
「教えたら帰るの」
「お前が帰ってほしいなら帰るけど」
「教える」
「わかった。じゃあ聞く」
「…………」
言葉に詰まって、再び辺りに沈黙が降りる。
感情を知られた恥ずかしさと、そのことに対する反感が、胸の中で渦巻く。
――私のことを気にしたから、こっちに来たんじゃないのか。
そう言いたくなる気持ちを抑える。
彼がこちらを見つけるより先に、眼で見ていたので知っていた。
誰かとはぐれたというのは本当だろう。けど、そこから先は違う。行こうか戻ろうか迷った時、川辺に座っている私に偶然気付いて、彼はわざわざこちらにやって来た。より深くに迷うとわかっていて、境界を踏み越えたのだ。
それなのに、彼は帰るという。何がしたいのかわからない。
「――くっ」
「お前、結構考えてることが顔に出るんだな」
かっと頬が熱くなる。一方で、顔はますます渋くなる。
それを見て、彼が音もなく笑いを深める。私はいい加減何か言ってやりたくなって、
すると、目が合う。彼が私を、初めからまっすぐ見ていたことに、ようやく気がつく。
「やっとこっち見たな」
彼が言った。
「よう。綺麗な目」
その声は、どうしてかとても優しくて。閉じていたはずの私の心の壁をするりと抜けて、胸の奥へと入り込む。
――暖かい。
その感触で、理解する。彼が待ってくれていたということを。
どうしてか、私に本当に関心を持って。何か働きかけようと思ってくれたということを。
「見覚えあったんだ、お前みたいなやつ。からっぽでいたくないけど、からっぽでいるしかない。――そういうの、きついだろ」
理由を問うと、彼は言った。
「からっぽ……」
その言葉選びが、妙に腑に落ちる。
そうだ。私は、からっぽだったのだ。
何かを感覚して、知って、考えて――そうして人が私に干渉する理由を知りたくないから、自分の内側をからっぽにして、ただ時を過ごす。
でも本当は、そうしないで済むものなら、しないでいたかった。だって私は、生きている。皆と一緒の場所と時間の中で、存在している。
少しだけ、視界が滲む。水面の照り返しが眩しい。
その時、私は感覚している世界のことを、初めて綺麗だと思った。
――それから、私たちは少し話をした。
名前、境遇、過去。住んでいる街のこと、好きなもの、嫌いなもの。
記憶が曖昧だということも聞いた。最近は調子がいいけれど、もしかしたら今日の出来事も、忘れてしまうかもしれないということも。
「……それって」
「うん」
けっこう困る、と彼は笑いながら言った。
作り慣れている、と、見た私の眼が看破した。
自分を取り巻く人たちに、余計な心配をさせないための笑顔。
“そういうの、きついだろ”。
ああ、と思う。
この人は、自分で言うよりも、ずっと。ずっと――。
「どうした?」
「……何でもないわ」
隣で不思議そうな顔をする貴方に、私は頑張って言い返す。
ここで私が気持ちを伝えたところで、何にもならない。
そもそも、貴方は異界のひと。生きていく場所は、
居場所のない世界にいつづける苦しさは、誰より私が知っている。
引き留めるような、名残が生まれるようなことを、口にしてはいけない。
「ねえ」
「ん?」
……だから代わりに、私は一つ、わがままを言った。
できることをするために。
そして、この胸の未練に、この場できちんとけりをつけるために。
「もしも、許してもらえるのなら――」
彼は応じてくれた。
確かに事が成ったのを確認した後、私は、彼の記憶を、消した。
現実の人間にとって、識域は異界だ。異なる
現実から来た、それも精神が不安定な人間が相手なら、当時の私でも、術をかけることは難しくない。
半ば
預言者に拾われ、覚徒となった後も、彼のことは探さなかった。
悠乃文香という人間が直衛佑に会ったのは、この時が最初で最後。
今回の降下に当たっても、面識があることは伏せておくと決めた。
それでいい。よかった。
数時間にも満たない、束の間の交流。そんなちっぽけな出来事のために“願い”をかけるなんて、馬鹿げていると言われるかもしれない。
けれど私に言わせれば、そんな
悠乃文香は“からっぽ”だった。
世界の眩しさも、生きていく理由さえも、忘れかけていた。
その虚しさ、うすら寒さを、取り除いてくれたあの時間を、私は見失わない。
そう在り続けることが、私が“私”でいるための最低条件だと、この胸の思いが、歌い続けているから――。
意識が浮上する。霧がかる夢の中で、大事なものを掴み直して、覚醒する。
「――――」
「おはよ、悠乃ちゃん」
目を開けると、覚えのある声が私を出迎える。
天蓋付きのベッドが置かれた、大きな鳥かご型の識域の中に、私は閉じ込められている。
目の前に立つのは、あの人が想う大切な人、大﨑由祈。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
浮かべる屈託のない笑顔は、あの日のあの人が見せたそれに似ている。
「ほっとくつもりだったんだけど、佑が気にしてそうだったから引っ張ってきちゃった」
「……何をするつもりなの」
そう尋ねると、彼女は言う。
「悠乃ちゃんが考えてるのと同じこと。たぶん」
「……そう」
復旧した魔眼で識域の
常識外の出力で作られた閉鎖空間。外部からでなければ開けられない構造だとわかった。
どうやら決着が付くまで、私はここで大人しくしているよりないようだ。
「それがいいよ。傷も深かったみたいだし、安静にしてて」
「
「申し訳ない。こっちも集大成なもんで。一生かけてきたことの」
微笑み。
「待ってる間、ちょっと世間話に付き合ってくれる?同じデクノボーに惚れちゃった
椅子に掛けて、一眼レフカメラの画像を見返しながら、大﨑さんが言う。
「ええ」
頷いて、ベッドの上で身を起こす。
「ありがと」
言うと、彼女は口を開き、語り始める。
それを聞きながら思う。
あの人は――直衛佑は、果たしてどちらを選ぶだろうかと。
もし私の想像している通りなら、彼は、きっと。
「――少しだけ、貴女が羨ましい」
告げると、大﨑さんは笑った。
「役得ってやつかな。まあ、その辺はお互い様ってことで」
悪びれずそう答える彼女の横顔は綺麗で、私の眼で見ても、とても眩しく、輝いて見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます