4.死線
4-1 “願い”
窓から差し込むはっきりとした日の光が、未明の時間の終わりを告げる。
訪れた朝、キッチンの上。照らし出される、あれこれが並べられた小さな戦場。
エプロンに袖を通し、腕まくりをする。
習慣は、こういう時に身を助ける。睡眠不足に特有の過剰な緊張と、昨夜からのもやもやとした考えごとのあれこれが、いつも通りの作業の中で、少しずつ消えていく。
追加の食材は昨日の内に買っておいた。ので、頭数が増えた朝食でも、物量に不足はない。
湯が沸く。出汁の香りが漂う。油を引いたフライパンが温まり、溶いた卵を落とすとじゅうじゅうと音が立つ。
「よし、と……」
味噌汁の火を止めて、卵焼きを仕上げる。ベーコンを少し炙って盛り付けを済ませたら、準備完了だ。
そうしている間に、「あと五分」の遅刻を勘定に入れ、三度声をかけていた姉がしょぼしょぼと目をこすりながら出現。匂いに釣られて既に出没していた由祈と共に、コップに注がれた牛乳を手に取る。
「運ぶの手伝ってくれ」
ごくごくと一気飲みした由祈を運搬役に動員しつつ、最後の工程。
「いただきます」
手を合わせたら、揃っての朝食。
食べながら徐々に正気を取り戻していく姉、行儀こそ悪くないものの、俺以上のスピードで平らげしっかり二膳目を食べていく由祈。
それぞれの食卓風景を見やりつつ朝食を済ませると、冷ましておいた弁当を梱包。
由祈は朝からレッスンに出るという話だったので、多く取り分け、大きめの箱に詰めた。
警護のため、と戻ってきていた預言者に聞くと、悠乃も朝から調査のために動いているという。それならと、重箱式で持ち歩くのをやめ、予定変更。会った時に渡せるよう、予備の箱に詰めることにした。
ばらばらの出立時間に合わせ、二人に持たせて見送ったら、自分も大急ぎで着替えだ。
『なんとも甲斐甲斐しいねえ。こんなことを毎日やってるのか、君は』
「ええ、まあ」
朝食の時は隠れていたヌーズに、少し遅い朝ご飯を食べさせながら、制服のワイシャツに袖を通す。
『年頃の高校生としては、結構な負担なように思えるが。平気なのかい?やりたいこともあれこれとあるだろう』
「いや、別に」
準備の合間だったので、本心からの答えが出る。
我ながらつまらない返事だと思うが、それが預言者の関心を惹いたらしい。
『ふむ?』
怪訝な声。主の真似をしたのか、一拍遅れて小動物が首を傾げる。
『どうしてなのか、聞いても?』
「ん……」
差し支えはなかったのだが、すぐに答えが出てこず、少し考え込んでしまった。
確かに現状、家事その他で取られている時間はかなり多い。
姉と分担するなり、買い置きで済ませるなりして軽減処置を取れば、捻出できる猶与はそれなりのものになるだろう。単純に休んでもいいし、趣味、雑多な娯楽、勉強、何にでも使える。
そういう時間が欲しくないか、と問われれば、同年代の大多数は欲しい、と答えるだろう。
けれど、俺はというと。
「身が入らない、というか。昔から」
言葉を探しながら口にする。
記憶を辿れば、自分一人で何かをしていた時期というのもなくはない。が、覚えている限りでは、姉と二人で助け合うようになる以前から、こういう性根をしていたような気がする。
『何をしていてもつまらない?』
「でも、なくて」
なんだろう。
面白いは面白いのだ。
例えば散歩は好きだ。いくらでも続けていられると思う。外の世界を感触しながら、自分のペースでうろつき回る行為に飽きることは、この先もないだろう。
動画を撮るのも、基本は必要でやっているが、楽しんでいないわけではない。世界に意味があると感じられる時間は、端的に言って心地がいい。
けれど。
“どくん”。
「――先がない」
ぽつり、と。
考えている内に、ほとんど無意識にそんな言葉を口にしていた。
『――――』
言ってしまってから、意味を考える。が、夢の名残を取り落とすように、脳裏をよぎった思考は消えて、思い当たるための糸口はふっつりと途切れてしまった。
『……なるほど。なかなか興味深い回答だった』
少しの間を置いて、預言者は静かな声で言った。
そして、
『ところで、先程家を出た君の幼馴染みくんだが、どうやら忘れ物をしたようだ。このまま行くと、君が家を出た後で鉢合わせして、時間が押すことになる』
「え」
そういう時には連絡をしろと言っているのに、と顔をしかめてから気付いた。
どこかで自分のものでない端末が振動する気配。来客用の隣室へ向かうと、当たり。昨日の由祈はそこで寝ていた。
「またか……」
思わず溜息が出る。よくあるのだ、このパターンは。
『ははあ。その顔は“どうせならこうなる前に注意してほしかった”という顔だね?』
「……顔に出ていたつもりはないんですけど、おおむねその通りです」
鞄を担ぎ、自宅であるマンションの玄関を出ながら答えると、預言者は笑ってから言葉を続ける。
『いや、僕も出来るなら教えてあげたかったんだがね。今回の件は、こうなるまで僕にも顛末がわからなかったんだよ』
「?」
疑問符を浮かべた顔も視えているのか、水晶玉の向こうで苦笑する気配。
『この際だから話しておこうか。僕の預言というのは、
例えるなら、巡回をせず、たくさんの映像を同時監視している警備員のようなものかな。
と、到着したエレベーターの監視カメラに目をやったタイミングで、預言者が補足する。
『“当たるも
「自分の足でうろつく時より死角が多いし、融通も
『その通り。痛し
下っていくエレベーターの数字が「1」を指し、エントランスに到着する。
外に出て周囲を見渡すと、信号を挟んで、見覚えのある姿が戻ってくるのが目に付く。由祈だ。
「――……」
あちらも気が付いたのか、手を挙げながら何か言っている。
車も往来しているし、この距離では意味を聞き取るまでには至らない。
たぶん忘れ物のことだろうと、こちらも端末を片手に歩いて行こうとする。
が。
『――まずい、止まれ!!』
耳元で発された預言者の緊迫した声に、思わず歩を止めた。
次の瞬間。
――ぱきっ!
見えない障壁が砕けるような感触。
耳では聞き取れなかった。ただ肌で感じた。
背筋が凍る。
その破砕の感覚には、ぞっとするような重みが伴っていた。
直感的に理解した。
“結界”。
恐らくは昨晩と同じ、文香の護衛に代わる、守りの備えとして張られていたもの。
それが、何らかの手段によって破壊されたのだ。木っ葉微塵に。
『
苦く呟く預言者の声。
理由はすぐにわかった。
ぞわりと五感が粟立つ、あの感覚。
識域が開く時の、怖気の振るう感触。
場所は――、
「――由祈!!」
『やめろ、行くな!』
叫びながら駆け出す。
制止の声も聞こえない。考えるより早く身体が動いていた。
感覚が張り詰める。隔絶された場であろう、識域の境界の向こうから、こちらへ越境しようとする“何か”の存在を触覚が感じ取る。
視線の先の由祈は、こちらの行動に驚いたように目を丸くしている。
言葉を継ぐのも惜しい。
同時に意識に触れる、大気の振動。
今の由祈の現在地は信号のちょうど手前。歩行者側の信号は赤だ。
横合いから来る震えは、直進車両の接近を意味する。今飛び出れば、渡りきれずに
「(構うか――!)」
ここで行かなければ、ことが起こるのは確実だ。その事実だけが、今の俺には何より重要だった。
けれど、
『待つんだ!!』
道路へ駆け出した次の瞬間、ぐいと強烈な勢いで身体を引かれる。
まるで見えない大きな手で、襟首を掴まれたようだった。
急激な制動。寸秒後、バランスを崩した俺の目と鼻の先を、車両が通り過ぎる。
エンジンの激しい振動、風を切る車体の感触で、一瞬感覚が飽和する。
我に返った時、ついさっきまで目の前にいた由祈の姿は、どこにもなくなっていた。
後に残されているのは、識域へと続く境界の感覚だけ。
「…………っ!」
身を起こし、再び走り出そうとする。そこで再び預言者の声が響いた。
『直衛くん。僕の話を聞くんだ』
「そんな
『これは罠だ。君は戦ってはいけない。何も考えずに動けば、
その一言ではっとする。一拍遅れて、ようやく理性が息を吹き返す。
「……どういう、ことですか」
『ああ』
ヌーズが、今や明瞭に視認出来るようになった境界の暗い
『理由は二つある。一つは単純に、それが君の日常の崩壊に繋がるからだ』
静かな声で預言者が言った。
『現実を生きる人間にとって、覚徒として目覚めることは一つのリスクだ。逸路は、空想……すなわち識域に接点を持つ、現実の生命を喰らうことで己を維持する。覚徒は餌の条件を満たす理想的な存在だ。経験を積むことによって覚徒は力を増すが、同時に養分としての価値をも高めてしまう。戦うという選択は、日常を維持したい君のような人間にとっては、泥沼への入り口でしかないんだ』
“貴方は戦わないで”。
昨日、屋上で悠乃が告げた言葉を思い出す。
『二つ。以前にも伝えたが、君はこの事件の重要な関係者だ。詳細は不明だが、事件に君が関わる、または巻き込まれることで、何かが進行する可能性が高い。相手がそれを知っているかはわからないが、今ここで君を舞台に上げようとしていることだけは確かだ』
偶然か必然か、赤信号の向こうの人通りは絶えている。識域への入り口は開いたまま、閉じる気配がない。
『我々覚徒には、識域の現実への接続を感知する手段がある。我々が現実に降下していなかった一昨日ならともかく――襲撃者にとって、長く識域の
「俺を誘ってる……ってことですか」
『そうだ』
短く、肯定の
『君は勘が鋭く、傍には僕も付いている。結界を破る手段があったからといって、狙い通りに識域に引き込むのはそう簡単ではない。自発的にやってくるよう、君の幼馴染みを利用したと見るべきだ』
息を吐いて、状況を把握しようと努める。
相手の狙いは、由祈よりも俺だ。言い方を変えるなら、由祈は釣り餌だ。俺があちらに飛び込めば、場合によっては、由祈は用済みとして処分される可能性がある。
そして仮にそうでなくても、ここで戦えば、次の危機が引き寄せられることになる。場合によっては、敵の目論見通りに。
預言者が俺に言い含めようとしているのは、恐らくそういうことだ。
『文香が来るまで待つんだ。それが、君の日常を守り、相手を利さずに済む、最善の手だ。自分の“願い”が何なのか、よく考えるんだ』
理解を促すように、預言者が繰り返した。
「俺の、“願い”……」
脳裏に、雷雨の識域で見た死の光景が蘇る。
一つの
少女の横顔に、由祈の死相が重なる。
「(俺が、願うのは――)」
――どくん。
『っ、待ちたまえ、直衛くん!』
青に変わっていた信号。車両の姿も、人影もない道へ一歩を踏み出した俺に、預言者が制止の声を上げる。
『わかっているのか!?君が戦ってしまえば、全てが望ましからぬ方向へと傾きかねない!君自身の生存すら保証されないんだぞ!それでも、君は――』
収束した“
信号を渡りきる。境界の前に辿り着く。
もう一度、思考を整理する。状況を正しく認識しようと、理性を動員する。
預言者の言っていることは正しい。けれど、口にされていない推測がある。
“仮にこのまま待ったとして、相手はいつまで釣り餌を構えておくか?”
悠乃の存在は、罠を張った相手に恐らく知られている。少なくとも、悠乃がこの場に着くまで境界が開いていることはないだろう。
では、その後は?相手は由祈を人質として生かし、追う悠乃と戦おうとするだろうか?
戦わない――“逃げて由祈を糧にする”可能性は十分に考えられる。
由祈を処分しても、まだ姉が残っている。守るべき相手がいる側が不利なことは言うまでもない。今回にしても、悠乃や預言者が手を抜いたとは考えられない。敵の手数は不明、人手が揃う前に仕掛けられたら、また同じことが起こりうる。
つまり、俺が待てば、高い確率で由祈が死ぬ。
俺の選択は二つに一つ。今ここで状況を静観して由祈を見殺しにするか、未来に
――どくん。
心臓が熱を持つ。
「
見上げる。折しも雲は太陽を隠し、その向こうにあるはずの、青空をも塞いでいる。
「俺には、見えない。見えても、何も感じない」
世界は、俺にとってただあるだけのものだ。
けど、あいつにとっては違う。
あいつの見る空には意味がある。あいつが生きている
誰もがあいつを見て、それを感じる。そこには、眩しい価値が脈を打っている。
「戦います。この先必要なら、何回でも。俺がやったことが何かを招くなら、俺が代償を払います」
現実にいられなくなってもいい。擦り切れても、喰われたとしても構わない。
だから。
「行かせて下さい。それが、今の俺の“願い”です」
周囲に、妨害――先程俺を引き戻した、大きな力が起こる気配はない。
そう頻繁に使えるものなら、俺を力づくで捕まえておくだろう。それが出来ないから、預言者は俺を説得しようとしたのだ。
沈黙を、消極的承認と取った。
無感覚の浮揚。転移は一瞬。
静かだった現実とは打って変わり、そこは耳障りな、低音の猟意の騒音に満ちている。
右手に円環の痣が姿を現す。感触される世界が精細さを増し、鼓動と共にその様相を伝え始める。
『
やれやれといった口調で、預言者が溜息を吐く。
「後で一緒に謝ります。だからそれより、今は力を貸してください」
『ああ、そうするしかないようだ。ここは死地だぞ、直衛くん。心して構えたまえ』
歪んだ市街、まだらな
その
逃げ惑うためではなく、戦うために。
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