獣はあなたのすぐ近くに

 嵐が来る前の数時間、アストリッドは祈りの塔で月の巫女シグ・ルーナたちと過ごした。


 ユハの作ったたくさんの甘いお菓子を食べて、たくさんお喋りをした。

 月の巫女シグ・ルーナは、機嫌の良いときはほとんど一日中歌っているらしく、今日は特に上機嫌のようで歌ってくれた。


 カウチでちいさくなっているアストリッドをよそに、月の巫女シグ・ルーナはたのしそうに歌っているし、ユハもにこにこしている。


 このひとたちにとって、これが日常なのだわ。


 アストリッドはちょっと安心した。


 祈りの塔にはエリサとユハしか住んでいない。

 大きなベッドもテーブルもクローゼットもあって、他の階には台所やお風呂といった生活に必要なものは一通り揃っている。


 つまり暮らすのには不自由はないらしく、おまけにエリサはときどきユハを連れて祈りの塔を抜け出している。花が咲く時期だったり、風が気持ちいい日だったり、小雨の降る時間だったり。


 エリサは少女の頃からお転婆だった。


 月の巫女シグ・ルーナをよく知る養父のイヴァンがそう言うのだから、本当なのだろう。


 もしかしたらアストリッドのちいさいときのように、木に登って落っこちたとか、小川に飛び込んで風邪をひいただとか、そういうやんちゃなエピソードのひとつやふたつくらいあるのかもしれない。


 アストリッドのイメージする月の巫女シグ・ルーナは清楚で大人しく神秘的な大人の女性だ。


 それでいえばエリサはたしかにイメージにぴったりなのだ。


 ふわふわピンクの波打つ長い髪、アイスブルーは養父のイヴァンとおなじ色、象牙色の膚に華奢な手足。おなじ十代の少女だと言っても、疑いもせずに信じてしまうくらいの美少女がエリサだ。


 たしかにそうかも。アストリッドはそっとつぶやく。


 似合わないからやめろと彼は言った。面と言われたときにはなんとも思わなかったのに、こうしてエリサを前にするとじわじわ落ち込んでくる。


 男の子みたいに短くしている赤褐色の髪、雀斑そばかすだらけの頬、目鼻立ちも普通で平凡なのがアストリッドだ。


 戦乙女ワルキューレのときには気にならなかったのに、急に恥ずかしくなってきたのはどうしてだろうか。


 でも、そんな理由でいまさら断れないよね。


 アストリッドはますます縮こまる。ついさっき、お祝いだと言ってエリサがアストリッドにキスしてくれた。額にエリサの唇が触れて、アストリッドはどきどきした。


 だいじょうぶ。二人とも、祝福してくれている。


 エルムトの巫女が代替わりするときは、巫女が死ぬときだ。

 エリサの前の巫女が亡くなったとき、アストリッドは生まれたばかりだった。先代の巫女は美しく、そして厳しい人だったらしいので、自分の寿命が尽きるまで他者に巫女を委ねるのを許さなかったとか。


 だから、今回の巫女の継承は異例中の異例だとも言っていい。


 正直に言えば、アストリッドには自信がなかった。

 巫女としての立ち居振る舞いもそうだし、ここでの生活も不安ばかりだ。


 祈りの塔は閉ざされていて、巫女と面会が許されているのも一部の人間だけである。近親者がそこに含まれているから、すこしは落ち着いていられるのだけれど。


 でも、わたしには嵐の獣ベルセルクルがいない。


 巫女にとってもっとも近しいものが巫女の眷属けんぞくとなる。養父のイヴァンやレムを除けば彼しか思いつかなくて、アストリッドは思わずかぶりをふった。

 

「嵐が来ましたね」


 ユハの声でアストリッドは顔をあげた。


 せっかくのたのしいお茶会だったのに、どんな暗い顔をしてしまっていただろう。エリサが心配そうに見つめている。


「わたし、行かなくちゃ」


 やおら立ちあがったアストリッドは、にっこりと笑みを作った。


「ねえ、アストリッド」


 エリサに呼び止められて、アストリッドは足を止めた。巫女だったその人がアストリッドを見つめている。


「忘れないで。巫女の獣は見つけるんじゃないの。獣はあなたのすぐ近くにいるの」


 それはエリサとユハのように。


 アストリッドはにこっと笑った。わたしは、だいじょうぶだと言うように。 


「あいつら、きっとまた来ます。お二人がこれからも安心して暮らせるように……。だから、行ってきます」


 エリサが何か声を落としていたがアストリッドは振り返らずに、ふわふわピンクのお姫様の声を背中できいた。

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