こわかったから

 レムとロキ。ふたりに追いついたアストリッドは、とっさにその子どもを受け止めていた。

 逃げる少年の他に、もうひとり仲間がいることはわかっていた。痩躯そうくの男がずっとロキを呼んでいたからだ。


 じゃあ、あれも組織の人間だ。


 けれどもアストリッドは、まだロングソードを鞘から抜くのを躊躇っている。レムとロキは、パレードに集まっていた人たちを巻き込みながら戦っている。突き飛ばされたり押しのけられたり、ともかくひどい混乱状態だ。


 レムの強さはアストリッドも知っている。

 アストリッドがレムに助けられたのは三年前。ただの医者があんなに戦えるなんて納得がいかずに、養父のイヴァンに問い詰めた。イヴァンは困った顔をするばかり、けっきょくレム本人の口からきくことになる。


「僕はね、テュールなんだ。そう、引退した君の父さんとちがって、現役のまま」


 軍神テュール。アストリッドはつぶやいた。男の戦士たちは軍神テュールと呼ばれ、エルムトを守っていた。

 

 むかしの話である。養父のイヴァンは負った傷が原因で戦士ではなくなったし、他の仲間もいなくなった。アストリッドの本当の父さんのように、多くの戦士たちが死んだときいた。


 事実上、解体された軍神テュールの残ったひとりがレムなのだろう。

 たしかに、先生は強い。でも、それではおかしい。レムは組織の人間ではなかったのか。

 アストリッドは無遠慮にきいた。レムはちょっと困ったように笑いながら、応えてくれた。そう、記憶している。


「先生!」


 どうにか追いついたとき、レムの剣がロキの左肩を刺すのが見えた。たぶん、アストリッドが戦乙女ワルキューレじゃなかったら、悲鳴をあげていた。


 痩躯の男が、レムに目掛けて子どもを投げつけたのは、そのすぐあとだった。

 考えるよりも早く、アストリッドの身体は動いていた。ぜったいに落っことしてはだめ。そんな心配も要らないくらいに、子どもは軽かった。


 と、そこまではよかった。

 

 アストリッドが受け止めた子どもはすぐさま暴れ出した。本気の抵抗だった。知らない大人にいきなり投げられたのだ。混乱しても当然である。アストリッドは意地でも離すまいと、とにかく子どもが落ち着くのを待った。殴られても引っ掻かれても、髪を引っ張られても、蹴られても噛みつかれても耐えた。


 そうこうしているうちに、ロキと仲間の男の姿は消えていたし、レムも彼らを追わなかった。いや、追えなかったのかもしれない。


「こらこら、暴れないの。大人しくしなさい」


 レムはアストリッドから子どもを奪い取ると、背中をぽんぽんとたたいた。そんなもので大人しくなるなら、アストリッドもそうしていた。ところが、びっくりするくらいに子どもは静かになった。


「もう、なんなのよ……」

「ふふん、僕はママだからね」

「誰がママよ」


 軽口に付き合うのも面倒なくらいに、アストリッドはボロボロだった。子どもはとにかく手加減というものを知らない。


「先生。はやくこの子の親を探さないと」

「ああ、その必要はないよ。この子、あいつらの仲間だから」

「えっ……?」


 アストリッドは信じられなかった。しかし、よく見てみれば子どもは乞食こじきみたいに汚かった。ぼさぼさの髪に衣服だってすごい襤褸ぼろを着ている。ケルムトは豊かな国だから、そこらに乞食を見かけない。ましてや子どもが餓えるなんて、あり得ない話だ。


「じゃあ、仲間をおとりにしたってこと……?」

「そうみたいだね」


 組織にいたことのあるレムが断言するのだから本当だろう。アストリッドは激しい怒りを感じた。怒り、いやこれはあいつらに対する嫌悪感だ。


「先生。わざと、逃がしたでしょう?」


 レムならもっと簡単にロキに追いついていたし、彼を殺すことだってできたはずだ。問いにレムはくすっと笑った。


「それはね、こっちの台詞だよ。アストリッド、どうしてもっと早く来なかったの?」


 ああ、敵わない。舌戦を繰り広げたところで、レムには勝てない。アストリッドも微笑む。


「こわかったから」


 紛れもない本音だった。レムはもう何も言わず、子どもを抱えたままアストリッドの肩をやさしくたたいた。




       *




「せっかく教えてあげたのに、逃がしたってわけ?」


 黄金の宮殿グラズヘイムに戻ったアストリッドたちを待っていた太陽の巫女ベナ・ソアレは、ものすごく不機嫌だった。


 面目次第もないとばかりに、アストリッドは悄気しょげている。レムも言い訳するのが面倒だったようで、大人しく黙っている。


「うわあ、なんです? この子どもは」


 床を見つめていたアストリッドは、そこでようやく気が付いた。太陽の巫女ベナ・ソアレの傍には、ヘルガともうひとりがいる。小柄で栗毛色の髪をした少年は、アストリッドよりもすこし年下にも見える。


「ちょうどよかった。セサル、この子をお風呂に入れてあげてよ」


 レムは何でもないことのように、少年に子どもを押しつけた。アストリッドはぎょっとする。たしかに子どもは汚れていて、おまけにひどいにおいだ。


「えー、僕ですかあ? まあ、子どもは嫌いじゃないですけど」


 ぶつぶつ言いながらも、セサルと呼ばれた少年は部屋を出て行く。あれだけ暴れていた子どもも、レムに抱っこされてからは嘘のように静かになった。


「ちょ、ちょっと先生」

「大丈夫大丈夫。セサルは良い子だから」


 そういう問題ではない。たしか、セサルという名は嵐の獣ベルセルクルの名前ではなかったか。


 アストリッドは思わず太陽の巫女ベナ・ソアレを見た。彼女は広すぎるベッドで横になって欠伸をしている。レムはいつもの調子で、びっくりしているのはアストリッドとヘルガくらいだ。


「で? 他にも見つけたんでしょ? ネズミの住み処も」

「ああ、いるいる。五、六匹ってところかな?」


 太陽の巫女ベナ・ソアレとレムの会話はつづく。アストリッドも加わる。

 

「それって、組織の……?」

「出っ歯の栗鼠」


 レムの声に、アストリッドは目をぱちぱちさせる。


「ラタトスク?」

「そう。僕はあいつらをそう呼んでる」


 出っ歯の栗鼠ラタトスク。それが、組織の名前。そこにロキはいる。


「むかしの話だよ。リーダーだった男が出っ歯なやつでね。それが名前の由来。ま、僕がそいつを殺したし、組織は壊滅させたんだけど」

「待ってください。それは、十三年も前の話なのでしょう? 壊滅した組織が、どうしていまも動いているのでしょう?」

「そうだよ、ヘルガ。組織はたしかに僕がぶっ壊した。でもねえ、ネズミってのは次から次へと出てくるものなんだよ」


 そいつらが。アストリッドはつぶやく。


「シグ・ルーナを狙っている。何度失敗しても、あいつらはまたやってくる」

「そうだよ、アスラちゃん。だからね、見つけたらすぐネズミ退治しないとね」


 アストリッドはうなずく。


「それにね、ロキにもまた会えるかもしれないし」


 感動の再会にはならない。レムはアストリッドにそう言っている。

 わかってる。次はもう遅れなんて取らない。アストリッドは、戦乙女ワルキューレだ。

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