第二章

夢くらいは

 頭が痛くて堪らない。

 ふつうの頭痛なら、横になって痛みが過ぎるのをやり過ごせばいい。数字を数えながら運が良ければそのまま眠れるし、高熱にだって耐えられる。


 でも、はそうじゃない。そんな生やさしい頭痛なんかじゃない。


 身体を丸めてじっと耐える他はなかった。手足が痺れるのは気のせいだと思い込もうとした。横たわっているのに視界がぐるぐるする。気持ち悪さに耐えられなくなって何度か吐いた。ここ数日ろくなものを口にしていなかったおかげで、吐瀉物は黄緑色の胃液だけだった。


 これがもっとひどくなれば、今度は声がきこえてくる。

 女の声だ。笑ったり怒ったり泣いたりと、いろんな声が届く。あの子の声だと、ロキはそう思った。彼女がそこにいるなんてありえないのに、そのうちあの子の姿まで見えてくる。


 いよいよだめか。でも、これで終われるなら、そっちの方がいい。


 ふいにあの子の声が途切れた。代わりにきこえたのは男の声だ。ロキが何の反応を見せないせいか、声は次第に苛立っていた。夢くらいは、好きな夢を見させてくれ。ロキはそうつぶやく。


 あまりにも男の声がしつこいので、ロキは重たい瞼を開けた。

 さっきから額を蹴っていたのは男の足だ。やめろと、声にしたものの音となって出ていたかどうか。男の足を掴もうとロキは手を伸ばす。


「起きろ」


 できるものなら、とっくにそうしてる。


「薬だ」


 男はロキの頭に何かを投げつけた。額に当たったのは小瓶だ。ロキは起きようとして失敗し、転がっていった小瓶を這いながら追う。


「芋虫みたいだな、お前」


 男がくすくす笑っている。ロキはそれを無視して、必死に小瓶へと手を伸ばす。どうにか掴んだはいいものの、手が震えてうまく開けられず盛大にぶちまけた。


 くそっ。ロキは毒突きながら口を開ける。粉末ではなく液体にするなんて、底意地の悪い。地面に染み込んでしまう前に、ロキは舌を使って舐め取った。薬の切れる時間はとうに過ぎていた。自分でもよく持った方だと思う。


「よう、やっと起きたか」


 ロキがのろのろと身体を起こしたとき、どこから持ってきたのか男は椅子に座っていた。いつかあの足をへし折ってやりたいところだが、運び屋はこいつだからロキは我慢している。


「お前、感覚が短くなってないか? それじゃあ長生きしないぜ?」

「うるさい」


 頭痛と倦怠感がなくなってくると、今度は背中やら腹やらが痛くなってきた。どさくさに紛れてこの男はロキを蹴った。くそっ。ロキはもう一度、毒突く。やっぱり、こいつはそのうち殺そう。


 貧困窟には廃墟だらけで、乞食こじきや犯罪者たちが勝手に住み処にしている。ベッドも風呂も食料もぜんぶ上の街から盗んでくればいいと、そうロキは教わった。もっともいつの頃の話かは忘れてしまったが。


 鎧戸の隙間から見える光では時間がわからずに、ロキは困惑した。このあいだ盗んだ懐中時計は二日前に止まった。でも、たぶん夕方だ。明け方なんかにこの男が来ないことは知っている。


「あんたが来たってことは、仕事か?」


 何日も人と喋っていなかったので、声は擦れて出た。視線の先の男はにやにやしている。


「またエルムトに行けと?」

「いいや。あそこはまだ大吹雪だ。お前さんのせいでな」


 どの口が言うか。ロキは男を睨みつける。


「あれから三年経ってる。さすがにベルセルクルも回復してる」

「どうだか。シグ・ルーナはいまもあの国エルムトを冬にしたままだぜ?」

「じゃあ、なんで俺のところに来た?」


 ただ薬を与えるためだけじゃない。ヴェルネリはいつもロキに厄介な仕事ばかりを押しつける。掏摸すりに強盗に殺人、なんでもありのこの国だ。氷と雪と冬の国――エルムトとはちがう。あの子が本土と呼ぶこの国は、イサヴェルはまともな為政者がいないせいで乱れに乱れている。


「リーダーはお前さんに期待してるんだよ、ロキ」

「初耳だな、それ」

「ま、俺もあの人には長いこと会ってないんだが。お前さんの本当の出番はもちっと後だよ」

冬至の祭りユールが来るまで半年ある。それまで、他の仕事を押しつけるつもりだろ」

「そういうこった。お前さんと組むのは俺ってわけだ。嬉しいだろう?」


 どこがだ。ロキは失笑する。この三年間でヴェルネリと組んだことは一度もないし、ロキはほとんど単独行動だ。


「おいおい。もちっと嬉しそうな顔をしてくれよな? だいたいお前、俺がいないと困るだろ?」

「理解した。あんたが、薬を作ってるんだな?」


 ヴェルネリはウインクで応える。道理で間隔が短くなったわけだ。三年前、エルムトにいた頃は薬はレムがくれた。先生はロキの症状を知っていたから、わざとそういう調合をしていた。


 いま思えば、それが正解だったのだ。ヴェルネリは即効性のある薬ばかりをロキに寄越す。おかげでロキの依存症はますます進んだ。あいつの言ったとおり、長生きなんてできそうもない。


「出立は明朝だ。念入りに準備しとけよ」

「わかった」


 ロキは生返事だった。準備も何もない。ロキの得物はダガーだけで、古着のコートも組織のやつらのお下がりだ。十五歳のロキはそれなりに背が伸びていたので、古着でもとりあえず着られる服はありがたかった。


 ロキはベッドに転がる。腹が減っていたが眠気の方が勝っていた。ひさしぶりの頭痛からの解放だ。ヴェルネリがもっと早く来ていたら、ここまでひどい症状に悩まされなかった。たぶん、わざとだろう。あいつはいつか殺そう。


 瞼を閉じていれば、台所の方からがざごそと音がした。

 テーブルにはパンとチーズを置きっぱなしだったことを思い出した。一週間も放置しているから黴だらけかもしれない。ネズミが台所を荒らすのはいつものことだ。追い払うのも面倒で、ロキはそのまま瞼を開けなかった。

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