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 玲奈の傘をバックパックにしまったままキャンパスに通うこと数日。

 あれから玲奈と講義がかち合うことはなかった。

 まあ、いざ一人の人間を捜そうとしても簡単には見つからないのがキャンパスだ。何しろ学生だけでも一〇〇〇〇人からいる。ましてや今は前期で受ける講義を決める履修選択の時期だ。試しであちこちの講義を受ける学生は多く、加えて四月のこの時期は新入生もいて、普段以上にキャンパス内は人でひしめき合っている。

 特に校舎が建ち並んだ表側の通りの人の多さに湊斗はげんなりし、とても玲奈を捜そうなんて気力も湧かなかったのだが──今日は違う。

 今日は初めて玲奈を見かけてから、ちょうど一週間。つまり比較文化人類学の講義がある日だ。まだ履修登録の確定前だが、一度受けたのだから履修候補なわけで、玲奈が受講する可能性は高いだろうと思っていた。

 とはいえ湊斗としては、前回のように最前列に近い席に座るのはめんだった。だから前の授業が終わらぬうちから入り口で待ち構え、昼休みになるなりいの一番で大教室へと入った。そのあって、今日の湊斗は最後列の窓際の席を確保している。

 講義が始まるまでまだ一時間近くあるが、それはまあ気持ちの安らぎを得るためのやむをえないコストと湊斗は割り切っていた。

 昼休み前に購買で買っておいたパンをかじっていると、ちらほらと学生たちが集まってきて、みるみる湊斗の周りの席も埋まっていく。三限開始の一〇分前ともなればもうほとんど空席はなく、かろうじて教卓の前付近だけがぽっかりと空いていた。

 それは講義開始前のギリギリの時間でこの大教室に入った先週と同じ状況で、湊斗はあのときの背中に刺さる視線の不快さを思い出し嫌な気持ちになっていたら──大教室中にひしめいていた学生たちによるけんそうが急に静かになった。

 それだけで何が起きたのかを察し、湊斗はドアの方へと目を向ける。

 大教室の後ろのドアの前──案の定、そこに玲奈が立っていた。

 多くの学生が口をつぐみ、玲奈をめつけている。休講になったドイツ語の講義のときは玲奈を凝視する学生などいなかったが、人が多いと気も大きくなるのだろう。べつと嫌悪と奇異がぐちゃぐちゃに入り交じった無数の目線が、遠慮会釈なく玲奈の身に注がれていた。

 だが玲奈も負けじと一番高い後部側から、教室の中の学生たちをしばしへいげいした。それから無言で、刺すような視線を一身に受けつつも玲奈は教室の真ん中を歩き始める。

 向かうは教壇側。玲奈は迷うことなく階段状の通路を下りきると、教授が立つ教卓に一番近い、そしてこの教室内でも一番目立つ席へと座った。

 まったくの前回の再現で、教壇周りの学生たちが傍らに置いていた荷物を手に慌てて玲奈から離れる。

 じない、恥じない、ひるまない──自分をいとう学生たちの視線や態度など気にもせずに、玲奈はやはり自分の座りたい、もっとも講義を聴きやすい席に座っているのだろう。

 湊斗は机の下に置いたカバンに手を入れ、玲奈から借りた傘を握る。

 玲奈が教室に入ってきたとき、湊斗はじっと玲奈の顔を見据えてみた。でも玲奈は湊斗になんて目もくれなかった。あの様子では気まぐれに傘を貸した相手の顔なんて、覚えていないだろう。本当にこの傘を返したほうがいいのか、湊斗はちゆうちよしそうになってしまう。

 いくらか声を潜めながらもあちこちで玲奈の陰口が再開されている中、教壇側のドアが開いて初老の男性が入ってきた。

 前回の講義のときにも顔を見た、比較文化人類学の担当の駒津教授だ。

 だが今日は教授の後ろに連れだって、もう一人入ってくる。制服姿のその女性は、急に休講になった先週のドイツ語の講義で、補講はあるのかという質問を玲奈から受けたが答えられずに目をり上げていた、あの事務局の女性だった。

 事務局の女性が最前席に座る玲奈の姿を見つけるなり、不敵な笑みを浮かべたのが遠目で眺めていた湊斗にもわかった。

 女性は駒津教授とアイコンタクトをとると、手にしていたパイプ椅子を教室の通路で広げる。そして玲奈のすぐ隣、肩がぶつかりそうなほどの距離で座った。

 いきなりのことに玲奈が目を白黒させ、隣の女性職員にげんな顔を向ける。

 教壇に立った駒津教授が、驚いている玲奈に向かって告げた。

「事務局から相談がありまして、今日の講義に彼女が同席することを許可しています」

「……どういうことでしょう?」

 まるで意味のわからない話に、玲奈が駒津教授へと問い返した。

「前にも言いましたが、君が水浸しになる原因が本物の怪異だという話を私は頭から否定しません。というよりも、怪異が本当にあるかどうかを議論する気は毛頭ありません。君が故意か故意じゃないかはさておいて、しかし講義中にいきなり水浸しとなることで、迷惑を感じている学生や落ち着いて講義を受けられず腹を立てている学生がいるのは確かです──そのことは理解できますね?」

 静かではあるが有無を言わせない力がこもった駒津教授の正論に、玲奈は少しだけ悔しそうにしながらも「……はい」と大人しくうなずく。

「実際に他の教授からも君の件は事務局にクレームが入っているそうで、事務局としては講義中の君の素行や行動に問題がないか確認するために同席がしたいと、私に申し入れがありました。事務局の懸念はもっともなことですので、私もそれを許可したという次第です」

 玲奈は何も言わない。というよりも言い返せないのだろう。すぐ隣で丸眼鏡のブリッジを押し上げてふんぞり返った女性職員から顔を背けながら、下唇を嚙んでいた。

「それでは、本日の講義を始めましょう」

 と、駒津教授の比較文化人類学の講義が始まった。

 とはいえまだ履修のためのお試し期間ということで、前回の続きというか前回の復習のような感じだった。比較という言葉が冠に付く前の、文化人類学とは何かの概略。

 最初に事務局の立ち会いの件で時間を割いたこともあって、壁掛けのホワイトボードの上にかかった時計はまもなく一三時四五分になろうとしていた。

 正直なところ、湊斗は時間が気になって仕方がなかった。

 裏サイトには玲奈が水浸しになるのは午後の授業だと書かれていた。一週間前に初めて玲奈が水浸しになったのを見た比較文化人類学の講義も三限目だ。

 湊斗はもう予想がついている。身体が水浸しになる玲奈の霊障が発露するのは、いつも決まった時刻であり、それがきっと一三時四五分。

 それは玲奈から傘を借りたときに目にした腕時計の時刻で、自分でもその時間帯だと認識しているからこそ玲奈は湊斗に傘を貸したに違いない。

 そして案の定、一三時四五分を迎えるなり、玲奈にいた女の霊がもだえ始めた。過去二回視たのと同じく、天に腕を突き上げて宙をき始める。

 女の霊がうごめき始めるとほぼ同時に玲奈は自分の肩を縮めて、

 ──ザッパーン!

 駒津教授の声すらかき消すほどの、固い床に液体がたたきつけられる激しい音が響いた。

 直後に大教室内が静寂に包まれる。すると今度はボタボタ、ピチョンピチョンと玲奈の身体の各所から床に滴る水音だけが聞こえてきた。

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