触手の水神と生贄の花嫁
秋月真鳥
1.出会いは蛸のお刺身
その娘は生まれたときから家族に厭われていた。
強い魔力を持って生まれる家系の娘でありながら、魔力を持たずに生まれたその子。
名前を付けるのも忌まわしいと、「おい!」とか「お前!」とか「あれ」とか呼ばれていたその子は、家で下働きとして働かされていた。
毎日一回握り飯を一個与えられるだけで、痩せて貧相なその子は、着替える服もなくボロボロの格好で、風呂にも入れられず、川で体を洗うくらいのことしかしていなかった。
その娘に家族が急に優し気な声をかけたのは、その子が十五になった頃だった。
「風呂を使って体を綺麗にしてきなさい」
「ふろ……?」
「さぁ、早く」
下働きとしてこき使われていただけでなく、暴力も振るわれていたその子にとっては、優しい声すらも恐ろしくて、言う通りにして体と髪を洗うと、今まで見たこともないような綺麗な着物を着せられた。
「お前は神様の花嫁になるのだよ」
その頃、十五になった娘のいる町から少し離れた港町で海が荒れていた。
幾つもの漁船が沈んで、その上、大雨が降って海と反対側の崖の斜面は崩れ、町は大混乱に包まれていた。
その混乱を治めるように魔力のある家に依頼が来たのだが、誰もそんな危険な場所には行きたくなかった。
そのため、十五になった娘が海に住まう邪神の花嫁として差し出されることになったのだ。
いわゆる、生贄である。
若い女を生贄にして海が荒れているのと大雨をおさめようとした家族によって、その子は送り出された。
立派な輿に乗せられて、雨の中を綺麗な着物を着せられたその子が港町まで向かう。
港町では人々が助けを待っていた。
「これで、海の荒れが治まって漁に出られる!」
「大雨も降りやむだろう」
何も知らぬままに十五になった娘は輿のまま船に乗せられて、沖に出た。
沖に出ると、人々は輿ごと娘を海に沈めた。
輿に閉じ込められたまま海に沈められた娘は、自分に何が起きているか分かっていなかった。輿は外側から厳重に封印が施してあって、中から出ることはできない。
自分が誰の花嫁になるのか分からない。
ただ、もうあの恐ろしい場所には帰らなくて済むのだけは分かっていた。
もがくこともせず娘が輿の中に浸水してくる海水に濡れそうになっていると、何かが外側から輿を壊した。
海水の中に投げ出されるかと思ったが、娘は空気の泡に包まれて息もできたし、着物も濡れなかった。
『人間の子どもがこんなところにどうして?』
ひとのものとは全く違う響きのする声が聞こえた気がした。
娘はそれが神様なのだと悟った。
自分が嫁ぐべき相手。
しゅるしゅると長く伸びた蛸の触手のようなものが娘を優しく包み込み、海の中に引き込んでいく。
深海には巨大な神殿のようなお屋敷があり、娘がそこに入ると、お屋敷の中の水が抜けて海底に巨大な空気の層ができた。空気の層はお屋敷全部と庭を包み込んでいる。
「いきができる……」
『どうしてここに迷い込んで来てしまったのかな? 綺麗な着物のお嬢さん』
声をかけて来たのは蛸のような触手で形成された青白い姿の異形の生き物だった。これが神様かと思うと同時に、娘はこの神様が全く怖くないことに気付いていた。
家族は娘を家族と思わず、下働きとして働かせて、ときに暴力も振るった。それに比べれば、姿は人間とは違うが、この神様は娘が死なないように助けてくれたし、声もひととは響きが全く違っていたが、とても優しかった。
蛸の触手が固まったようなものが着物を着た姿の異形の神様だが、娘は怖いとは思わなかった。
「かみさまのおよめさんになりにきました。かみさまはわたしをたべますか?」
『人間を食べたりしないよ!? それよりも、君の方が痩せて食べ物がすぐにでも必要みたいだ。よかったらこれを食べなさい』
ぶちっと音がして、神様は触手の一本を自ら引き千切って娘に与える。
蛸の触手のように吸盤のついたそれを、娘は受け取って立ち尽くした。
「ちゅうぼうを、かしていただけますか?」
『いいよ。このままでは食べられないよね』
「きがえ……こんなかっこうではおりょうりができない……」
困っていると神様は娘を屋敷の中の一部屋に連れて来てくれた。そこには金銀財宝や、綺麗な反物や、着物がたくさん置いてある。
『これまでに捧げられたものや、来た子たちが使っていたものだ。君ももう少し元気になったら、どこか違う場所に逃がしてあげるからね』
「にがす!?」
逃がすと聞いて娘は震え上がる。
ここならば神様に守られているが、ここを出されたら、また家族に追いかけられて見つけられるのではないだろうか。そうすればまた下働きとして働かされて、暴力を振るわれる生活が戻ってくる。
「おねがいです、ここにおいてください! なんでもします!」
『人間は人間と暮らすのがいいよ。私は人間とは寿命が違い過ぎる』
「わたしはかみさまのおよめさんになったのです。なんでもするから、ここにいさせてください」
拙い言葉は娘が家族から虐待されて喋ることも許可が必要で、碌に他人と話してこなかったせいだ。拙い喋りで必死に神様に取り縋る娘に、神様は困ったように言う。
『それなら、しばらくはいてもいいけど、出て行きたくなったらいつでも言うんだよ?』
「ありがとうございます」
『それじゃ、私は少し席を外すから、そこにあるものは何でも好きに使っていいからね。着替えが終わったら声をかけてくれたら、厨房を案内するよ』
着替えている間は席を外してくれるという神様に、娘はなんて紳士なのだろうと感激する。家族は娘が着替えていようと気にせず部屋の戸を開けて、「全然色気がないな」と嘲笑っていたのに。
置いてある着物の中でも一番質素なものを選んだつもりだったが、それでもこれまで娘が着ていたものとは生地からして全く違う上等なものだと触っただけで分かった。
帯を締めて部屋を出ると、神様は廊下で待っていてくれた。
「じゅんびができました」
『それでは、厨房に行くよ。このお屋敷は広いから、迷ったらすぐに私を呼んでいいからね』
「はい、かみさま」
『神様ではなくて、私の名前はバンリという』
「バンリさま……」
他人の名前など呼ぶことは許されていなかった。自分の名前もないのに、他人を名前で呼びことなどおこがましいと言われて、家族ですら呼ぶことはなかったし、口を開くことも制限されていた娘にとっては、それが初めて呼んだ名前だった。
『君の名前は?』
「ありません」
『え? 名前がない? どういうこと?』
「わたしは、まりょくがなくてやくたたずだから、なまえをつけるのももったいないといわれました」
素直に答えれば、青白かった神様……バンリの触手が赤らんで怒っているように見える。
『なんて酷いんだ! 私が君に名前をあげよう。君はマリ。私の名前、バンリはマリとも読むから、私の名前を分けてあげるよ』
「バンリさまのおなまえをわけてくださるのですか?」
『名前がないと呼ぶのに不便だからね』
「いえでは『おい!』とか『おまえ!』とか『あれ』とかよばれていました……」
『そんなの名前じゃないよ。君はマリ。これからはマリと呼ばせてもらうね』
「マリ……」
これまで名前のなかった娘に名前が付いた。
それはバンリの名前からもらった大事な名前だった。
厨房に連れて来られた娘はそこの広さと清潔さに驚く。
家の厨房はいつもどこか汚く、狭くて、料理をするときに夏は暑くて息苦しいくらいだった。
涼しい厨房の竈に近寄ると、青い炎がともっている。
娘……マリは竈に鍋を置いて、バンリからもらった触手を塩もみして洗って、茹でて、薄切りにした。
茹でると赤くなる触手は完全に蛸のそれと似ていた。
お醤油を付けて食べると、コリコリとした食感で蛸の刺身にそっくりだ。
家で家族は食べていたが、マリは準備するだけで食べさせてもらえなかった蛸の刺身。こっそりと厨房で一枚だけ食べたことがあるが、そのときの味は覚えている。
「おいしい……」
『よかった。私の触手は栄養が豊富なんだ。また生えて来るから、気にせずに食べて大丈夫だよ。君には栄養が必要だ』
「おいしいけれど、ごはんがほしくなります」
『私へのお供え物があったはずだ。私は水の神だから、秋の豊饒の時期には米も奉納されるのでね』
しゅるりと触手の一本が厨房の棚を指す。棚を開けると、米びつが入っていた。米びつの中にはたっぷりと白米が入っている。
「しろいおこめ……!?」
『私は食べても栄養にはならない。趣味で食べることはあるけど、それも時々だ。全部君が食べても構わないよ』
「しろいおこめを、すきなだけたべられる!?」
『野菜や肉や魚も君には必要だろうね。魚や海藻は手に入れられるけど、新鮮な野菜や肉はこの場所では難しいかな。奉納するように人間たちに伝えるのも難しいし』
そういえばマリはバンリの花嫁としてここに送り込まれてきたのだが、バンリはそのことに関して納得していない様子だった。
こんなに優しいバンリがどうして海を荒らし、大雨を降らせているのだろう。
「バンリさまは、どうしてうみをあらして、おおあめをふらせているのですか?」
『そんなことはしていないよ? この地方は台風がよく来るんだ。台風の被害を抑えているんだけど、完全には抑えきれなくてね』
「たいふう?」
『大雨と強い風をもたらす気象現象だよ』
バンリは海を荒らし、大雨を降らせているどころか、そうならないように台風を抑えていた。それが人間には伝わらずに、水の神であるバンリを鎮めなければこの嵐は去らないと考えているのだろう。
『マリはそんなことは気にしないでいいよ。元気になるまでは、ここで休んでいくといい。食材も着物も、あるものは何でも使っていいからね』
優しく言うバンリに、マリはここから追い出されないようにしなければいけないと心に決めていた。
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