第30話 泡の髭

「晴喜さんビールでいいですか?」


 普段、使わない言葉に口の中が痒くなる。


「おっと、ヒロ君は気が効くなぁ」


 おじちゃんは眉毛を上げる。


「ん?晴喜さん?」


 呼ばれ慣れていない呼び方をされたからなのか、今度は眉根を少しだけ寄せる。


 しまった。

 あっちゃんとの特訓を考えていたら、おじちゃんの呼び方があっちゃんと同じになってしまった。


 これはちょっと恥ずかしい。


「えっと、岩手のおじちゃん、ビールのおかわりでいいですか?」


 おじちゃんは僕の気持ちを察したのか、目尻と共に眉尻が下がる。


「お酌してくれるのかい?」

「はい」

「嬉しいねぇ」


 おじちゃんはこちらにグラスを差し出す。


「失礼します」


 ラベルの位置と逆手にならないように。

 心の中で復唱して僕はゆっくりとビール瓶を近付ける。


「新入社員みたいだな」


 おじちゃんは僕のぎこちない動きを微笑ましく見つめる。


 グラスが傾いているのをしっかりと確認して、瓶を傾ける。

 始めちょろちょろからドバドバ。

 あっちゃんから教わった、変な節がついたおまじないを唱えながらビールを注ぎ始める。


「おっとっとっとっと」


 グラスでビール瓶を上に持ち上げるようにしてから、おじちゃんは慌てて口をつける。


「ヒロ君ありがとな」


 白い髭をつけたおじちゃんは嬉しそうにお礼を言う。


 上手くできたか分からないけれど、…うーん、多分できてないと思うけれど、おじちゃんが嬉しそうにしてくれているからヨシとする。

 これで一歩、『懐に入る』に近付いたと思う。


「おい、ヒロくん。どこさ覚えた?」


 おじちゃんは泡を手で拭いながら聞いてくる。


「いえ、あの…」


 仙人の懐に入るためなんて口が裂けても言えない。


 僕がどう返事をしたらいいか迷っていると、おじちゃんは「男子三日会わざれば刮目してみよ、だな」と、頷いてグラスに口を付ける。

 それから意味ありげに亮兄ちゃんの方をチラリとみる。


 その視線に気が付いた亮兄ちゃんは、ケッと声が聞こえてきそうな顔をして僕と反対方向に顔を振った。


 おじちゃんは少し寂しそうな顔をした。


 父ちゃんが、僕が大人になったら一緒に酒を飲みたいって言ったことがある。もしかしたらおじちゃんもそんな気持ちから、息子に注いでもらいたかったのかもしれない。

 おじちゃんに悪いことをしたのかもしれないと思ったら、胸の辺りがチクリとした。


「亮、お父さんに注いであげたら?」

「やんた」


 亮兄ちゃんは岩手のおばちゃんにそっけなく答える。


「おとにはやんねなぁ」


 岩手んばぁが亮兄ちゃんに笑いかける。


「うん、やんた」


 亮兄ちゃんはそっぽを向いたままだ。


 怒らせちゃったのかな?僕は心配になってしまった。


「あらあら」


 聞き慣れた声が聞こえる。

 僕はお母さんの方を向く。


「家では全然そんなことしないのに今日に限って変ねぇ。あら、分かっちゃった。兄さん気をつけて。もしかしたら、ヒロはお小遣いを狙っているのかもよ」


「本当かい、ヒロ君?」


 おじちゃんは大袈裟に赤みが差してきた顔で僕を見る。


「違います、違います」


 僕は一生懸命に首と手を振る。


「それならいんねぇか?」

「えっ……」


 僕の目が泳ぐ。

 それを見たみんなが一斉に笑い出す。


 僕は耳が赤くなるのを感じながら、唇を引っ込めて俯く。


 亮兄ちゃんの方をチラッと見たら肩が少しだけ揺れているように見えた。


 みんなの様子を窺うと、一人だけ笑っていない人がいる。

 亮兄ちゃんと同じように唇を尖らせていたその人物が、ここで動き出す。


「私やるーー」


 日和はみんなの注目を集めるように左手をテーブルに突き、右手を大きく挙げる。


「えっ?日和ちゃんがかい?」

「うん」

「こりゃまいったなぁ」


 おじちゃんは左手を頭にポンと打ち付けて、両手でビール瓶を持つ日和に急かされるようにグラスを空ける。


「日和できるの?」

「うん」


 お母さんの声とは対照的に、日和は自信満々に答える。


「気をつけてよね」

「大丈夫、だいじょーぶ」


 周りの大人達の心配そうな手が集まる中、日和はグラス目掛けて勢いよく瓶を傾ける。


「ありゃりゃりゃりゃ」


 おじちゃんは僕の時より慌ててグラスに口をつけるけれど、口の横から泡が溢れていく。


「もう」


 言わんこっちゃない、とお母さんは台布巾でテーブルを拭く。

 岩手んばぁは予想通りの結末に、ニコニコしながら可愛らしい笑い声を上げる。

 紗栄子おばあちゃんはおじちゃんの方を見ながら「くち、くち」と、自分の口の周りをクルクルと指で差して笑っている。

 見てみると、おじちゃんの口の周りは泡だらけになっていて、顎先まで垂れている。


「お父さん、これ」


 岩手のおばあちゃんがティッシュを差し出す。

 おじちゃんはティッシュで口を拭きながら「美味い」と言った。


 でも、日和はビール瓶を抱き抱えるように握り締めて、なんとも言えない顔をしている。


「今まで飲んだビールの中で一番美味いなぁ」


 悲しませないように言ったのだと思うけれど、日和の顔はどんどん曇っていく。


 思い描くようにできなかったのが悔しかったのか、みんなに迷惑をかけてしまったのが悲しかったのか、それともびっくりしてしまったからなのか。どちらにせよ、日和は元気を無くしてしまった。

 ここで元気付けるのがお兄ちゃんの役目。


 そう思って声をかけようとすると、おじちゃんが僕より先に日和に声を掛けた。


「日和ちゃんはおんちゃんの正体を見抜いてたのかな?」


 日和はおじちゃんの方を見る。


「さっきのは髭を生やそうとしたんだろ?」


 変な質問に日和は首を傾げる。

 おじちゃんはニコリと微笑む。


「おんちゃんは仙人なんだよ」

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