天の金環
神崎あきら
第1話
アイシャは幼い頃に両親を流行病で亡くし、祖母サルマと二人でつましく暮らしていた。朝は日の出とともにオアシスの井戸まで水を汲みに行く。三往復しているうちに日が高くなり、それからサルマに機織りを習う。サルマの教えは厳しかったが、アイシャは一本の糸から一枚の布を織りなすこの仕事が好きだった。
太陽が南天に到達すると、街の中心部に建つ鐘楼の鐘が鳴り響く。鐘の音を合図に昼食の時間だ。鶏ガラで煮込んだ野菜たっぷりのスープに小麦粉と水を捏ねて焼いたパンを浸して食べる。それから荒涼たるメラル砂漠の彼方に太陽が落ちるまで機織りに勤しむ。
時に貴族の結婚式で使う織布の注文がある。黒地に金糸と銀糸を織り込んだ豪奢な品だ。丁寧に仕上げる必要があり、手間がかかる。そんなときはランプの灯火の下で作業を続けることもある。
夜はじゃがいもとにんじん、オリーブ、羊肉を煮込んでレモンをたっぷりかけた鍋料理にパン、にトマトとキュウリを細かく刻んだサラダに山羊のミルク。
そしてサルマの語る物語を聞いて眠るのが日課だった。
ある満月の夜、アイシャが六歳になった日にサルマはこんなお話をしてくれた。
「お前が生まれる前、この国には文字があったの。私は教会で子供たちに文字を教えていたんだよ」
「文字ってなあに」
アイシャの澄んだ碧眼がランプの光に煌めく。
「ことばを線や点で表わしたものよ」
「絵とどう違うの」
幼いアイシャは「文字」という言葉に興味を示した。
「文字はね、ものの名前やわたしたちが話す言葉や気持ちを目に見えるように記号にして表して、忘れないようにできるの」
「絵があるのに文字が必要なの?」
「そうね、文字はひとつだけでは意味がないけれど、連ねていくととてもたくさんのことを伝えられるのよ」
「それは首飾りのガラス玉みたいに?」
「そうね、もっとたくさん」
「でもね」
とサルマは小声になる。アイシャも緊張して息を潜める。
「この国の王様は文字を使うことを禁じてしまったの」
「それはどうして?」
文字があれば忘れないのに。アイシャは不思議に思った。
サルマが言うには、このハドリア王国にはかつて文字があった。文字によって豊富な知識が伝承、共有され、文明は大いに栄えた。しかし、ハドリア王が突然文字の使用を禁じ、王国から文字を排除してしまった。
医学書、歴史書、職人の技法書などの書物だけでなく、広場の掲示板、料理店のメニュー、すべての文字が排除された。学問に必要な専門書から子供向けの物語まで、あらゆる書物が広場に集められ、三日三晩かけて灰にされた。
「ほんってなあに」
「そうだね、お前は本を見たことがないね。本というのはね、文字を書いた紙を綴ったものだよ」
「文字は絵と同じように紙に書くの?」
「そうだよ、昔は絵と文字が一緒に書かれていたんだよ」
アイシャは想像がつかない様子で、不思議そうに首を傾げてみせる。
ハドリア王には跡継ぎに考えている王子がいた。王子が十八歳で成人した年、王宮に預言者がやってきた。預言者は預言書を広げ、ハドリアに流行病が蔓延ると告げた。ハドリア王はそれを馬鹿らしいと突っぱね、不吉な預言をした預言者を処刑した。
しかし、そのひと月後、砂漠の彼方から大量に飛来した虻が伝染病を運び、国中に熱病が蔓延した。王子は伝染病に罹患して七日間寝込んだ後、息を引き取った。ハドリア王は深い悲しみにくれ、王子の死は預言者が持ち込んだ不吉な預言書のせいだと言い張った。その翌日、国内に数字以外の文字を禁ずる布告を出した。
王は書物を隠し持っている者や文字を書いた者を捕えて牢獄へ送った。文字を使わないと誓えば解放されたが、抵抗を続ける者は処刑された。文字が無くなることに失望した学者や医者は国外へ亡命した。
以来、文字の代わりに絵や歌が用いられるようになった。国の法律やルールは絵で表現され、鍛冶場や石切場の職人は歌で技術を継承した。ハドリアの街にはいつも明るい歌声が響いた。
「文字のことを話してはいけないよ」
文字のことを話せば、衛兵がやってきて牢屋に入れられるからね、とサルマは念押しした。
「うん、わかった」
アイシャは恐ろしさにふとんを被り、何度も深く頷いた。しかし、物語や気持ちを記号にして残しておけるという文字に深い憧憬を覚えた。文字があれば父や母の思い出も、サルマのレシピもずっと覚えていられるのに。
ハドリア王国の領土は広大なメラル砂漠に隣接し、豊かなオアシスの恵みで発展してきた。はじめは小さなオアシスの町にバザールができ、都市を形成し、王国となった。王宮はオアシスのほとりに建てられ、貴族や金持ちの商人もオアシスに近い都市部に邸宅を構えた。
断崖の斜面に張り付くように漆喰で塗り固めた白壁の家が密集している。アイシャの家も断崖の町にあった。迷路のように入り組んだ路地の階段を上った先だ。町には井戸がない。オアシスの共同井戸での朝の水汲みは町に住む女たちの仕事だった。
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