2

 どのくらい時間が経っただろう。


 ふと目を覚ますとどういうわけか、僕はひとりきりになっていた。

 体を起こし、周りを見回したけれどやはり誰もいない。

 

 あれ、みんな、どこに行っちゃったんだろう。


 焦りと不安が急速に押し寄せ、僕は慌ててレジャーシートの傍に揃えていた靴を履いた。そして遊歩道に躍り出て、その前後を見通した僕はそこでさらなる違和感に気がついた。

 いないのは家族ばかりではなかったのだ。


 姿


 あれほどたくさんいた行楽客たちが一人もいなくなってしまったことが僕をパニックに陥れた。

 テレビやアニメの中でしか見ないような恐ろしいことが起こってしまったのだと勘付き、恐怖に駆られて僕は叫んだ。


「お父さんッ!お母さんッ!どこなん!兄ちゃん、どこにおるん!」


 けれどそれに応える声はどこからも聞こえなかった。

 それどころか辺りは全くの無音だった。

 見上げると樹々の梢が揺れているのに鼓膜は一切の音を拾わなかった。

 シンとした静寂に包まれ、他に誰もいなくなった世界。

 

 僕は自分の顔がクシャリと歪むのを感じた。

 それから喉元に溜めていた嗚咽が少しずつ漏れ、同時に視界が滲み始めた。


 誰でもいいから姿を見せて欲しい。


 一心にそう願ったそのとき、やにわに強い風がやってきて僕の体を押した。

 それは池のほうから吹いてきた妙に湿気じみた空気の塊で、おもわず岸辺を見遣ると桜吹雪が渦を巻いて、それがたなびいた先にまたもあの女性の後ろ姿があった。

 彼女の豊かな黒髪がその風に靡いていた。

 池には濃密で真っ白な霧が立ち込めていて、視界のそのほとんどがモノトーンになった。

 僕は柵へと走り寄り、そして女の人に向けて咽び声を張り上げた。


「みんながおらんなっとる。ねえ、みんなどこに行ったんか知らん?」


 するとひと呼吸ほど間を置いておもむろに女性は振り返った。

 その肌は透けるように白く、二つ分けにした髪の生え際がくっきりと目立っていた。また額の下には糸のように細い眉が引かれ、切れ長の瞳があった。

 けれどよく見るとその目は全く生気の感じられない穿たれた二つの穴でしかなく、それを認めた途端、射すくめられたように僕の体は動かなくなった。

 そして女の顔の全容を知った僕の息はやにわに止まる。


 彼女には鼻がなかった。

 削がれてしまったのか、その場所には大きな瘡蓋がこびりついていた。

 唇は耳まで裂け、紫色の長い舌が口腔からだらしなく胸元まで垂れていた。

 さらに視線を下げるとワンピースだと思っていた服はただの白い布切れでそこかしこに血の色に滲み、大きく裂き破れた隙間からは赤黒い臓物が飛び出していた。

 

 そのあまりに悍ましい姿に僕は慄然とした。

 けれど逃げ出そうにも足が動かない。

 悲鳴も上げられず、目を逸らすことすらできない。

 まるで巨大な蜘蛛の巣に絡め取られたようにわずかな身じろぎひとつ許されず、僕は柵にしがみついたまま卒倒しかけた意識の中でなお女を見つめるしかなかった。

 

 そのとき不意に女の首がカクンと直角に傾いた。

 同時に垂れ下がっていた舌が鞭のようにしなって動いた。

 そして左腕がゆっくりと持ち上がり、次いで青白い指先をゆらゆらと波打たせ始める。

 

 するとその手招きに合わせて固まっていた手足が魔法のように勝手に動き始めた。と、思った時にはすでに僕は柵を乗り越え、よろめきまろびながら女のもとへと歩んでいた。


 いやだ、いやだ、いやだ……。


 声を張り上げようとしたけれど、いくらかの空気が行き交う喉がひりつくだけ。


 誰か、助けて。


 心の中でそう呻くとそれに応えるように歩みが止まる。

 うつむかせた顔の先、僕の運動靴の前に真っ白な素足があった。

 背中全体がぞわりと逆立つ。

 瞑ろうと力を入れた目蓋が反対に瞠かれ、そして意に反してその目線が上がっていく。


 両の足首に嵌められた鉄枷。

 ふくらはぎを染める黒く乾いた血液。

 粗末な麻布の衣。

 のたうつ蛇のように腹から飛び出した内臓。

 懐合わせから微かに覗く白い乳房。

 垂れ下がる青紫の舌。

 削がれた鼻。

 そして僕を見詰めるどこまでも深く、なにも映さない空洞の瞳。


 脳がショートした。

 もうなにも考えられなくなった。

 それなのに五感だけはくっきりとしている。


 手招きをしていた腕がゆっくりと僕の首に巻きつき、鉄のような冷たさをうなじに感じた。

 後ろ襟から潜り込み肩甲骨のあたりを舐める舌はなぜだか温かく感じた。

 女の吐く息は生臭く、そして頬に触れる黒髪からはヘドロの臭いがした。


 女に支えられるようにして僕の体が池の方へ降りていく。

 やがて靴が水際を踏み、次の瞬間には腰まで水に浸かっていた。


 自分はここで死ぬのかとぼんやり思った。

 そして胸まで冷たい水の感触が迫ったその刹那、視界を封じていた霧がフッと消え去って僕はそこに最期の光景を見た。


 辺り一面、粉雪のように降り荒ぶ桜の花びら。

 そして池の上に立つおびただしい数の白装束の女。

 一瞬のことなのに僕の目は彼女たちの姿をはっきりと捉えた。

 悍ましく顔を、体を崩壊させた女たち。

 その全員が僕を迎えようと両手を広げている。


 そうか、僕はこれから池の中に連れて行かれるのか。


 無感情にそう思ったそのとき、何者かが僕の左腕をつかみ岸の方へと引いた。

 すると同時に首に巻きついた女の腕が強く締まり、より強く水中へと誘う。

 首と肩、肘に激痛が走る。

 女と何者かが僕の体を使って綱引きをしている。

 

 サトル、なにしてんねん!


 聞き覚えのある声がした。

 誰だっけ。

 目を向けると水の向こう側に何者かの姿が揺らいでいた。

 そしてひと際激しく腕が引っ張られて、その勢いで水面から顔が出ると僕の目はそこに必死の形相をした男を垣間見た。


 あれ、お父さん。

 どうしたん。そんなに一生懸命なにしとるん。


 続いて父の切羽詰まった声が鼓膜の奥に潜り込む。


「こっち帰ってこい、サトルッ!」


 痛い、痛いんよ、お父さん。

 そんなに引っ張らんといて。


 顔をしかめると首に巻き付いていた女の手がするりと抜けた。

 そして視界と意識が希薄になり、次の瞬間スッと消えた。

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