林檎飴

quark

林檎飴

 月よりも太陽よりもずっと大きな星が、夜空に浮かんでは弾けて行った。甚平を着た一人の青年が境内の池の淵で、ハンカチで額を拭いながらその大輪を眺める。額に浮かぶ滴が祭の熱気がもたらした物なのか、緊張による興奮の為なのかは本人以外判らない。


 少しして、緊張の原因がやって来た。


「ごめん、人混みに流されてる内に池の場所忘れちゃってた」


 両手で顔の前に三角形を作る少女の頬は、少し紅潮していた。普段下げられている美しい黒髪が結い上げられており、幽かなほつれが妖艶さを演出していた。


「大丈夫です。じゃあ適当に屋台でも回りましょうか」


 普段と全く異なる彼女の雰囲気に、そう答えた彼の声は小さく震えていた。彼女の下駄の高さと青年の履くビーチサンダルの薄さが、二人の顔をいつもより近付ける。少女の髪の甘い匂いは、蜜蜂を惑わす花のような恐い魅力を内包し、青年の頭を鈍らせた。たじろぎながらも、屋台の群れが放つ騒がしい光へ向かって少女と歩き出す。


 二人の間には腕一本ほどの空隙があった。そこへ掌が差し出されることは無かった。彼らは友人であり、今日この祭に来たのも取材の為だったからである。青年は絵描きで、少女は物書きだった。最近のお互いの創作状況について他愛もない会話をしながら、


「初めて会ったのも古都で作品の題材を探していた時だったなぁ」


と青年は数年前の秋に思いを馳せる。


 呑気な青年とは対照的に、横にいる少女は激しく緊張していた。肋骨すら動かしそうな大きな鼓動が青年に聞かれたら、という不安から会話を紡ぐのも精一杯である。何せ少女の計画では、屋台を歩き回った後には大イベントが控えていたからである。


 彼らは屋台に辿り着いた。混雑を予想していたが、人々は花火を観賞するためにこの神社から少し離れた河原の方に集まったらしく、空間には多少のゆとりがあった。入り口付近の綿飴機が醸し出す砂糖の匂いに、青年は思わず頬を緩ませた。少女の緊張で若干強張った顔も少し柔らかくなった。


 比較的空いているとは言え、どの屋台にも何組かの人々が列を成している。青年が何処に行くべきか決めあぐねて居ると、


「向うの林檎飴の屋台が空いてそうだよ」


と言って少女が奥の方にある店を指した。青年もそれに肯定して、二人は屋台へ歩みを進める。


「りんごあめ 一つ四〇〇円」


と書かれた細長い紙の札が生温い風を受けて揺れた。青年が自分の飴を口に入れながら、同じく飴を舐める少女を見つめた。透明な紅色を融かす彼女の口元は妖しく光り、青年までもを絡め取ろうとしているように見えた。彼女の後ろでこの日一番の花火が上がり、枝垂れた橙の流星が一瞬彼女を暗く見せた。


 彼はこの瞬間を必ず描こうと思った。絵の才能に溢れる彼は、恋の沼に呑まれるだけの勇気を持ち合わせていなかったのである。


「あのさ、今の君の顔を次の絵で描こうと思うんだ。良いかな」


 青年がそう問いかけると、仄かに少女の顔が翳ったが、すぐに笑顔で肯定した。青年は安堵した表情を見せ、良い絵を描き上げることを彼女に約束し、満足げに林檎飴を頬張る。


 その様子を見て、今度は少女の方が彼らが初めて会った日を思い出していた。あの日も彼は今のように目を細めながら、饅頭を口一杯に含んで幸せそうな顔をしていた。一緒にお茶をしようと誘ったのは彼女の方だった。なかなか小説のアイディアが浮かばず川岸を散歩していた時、彼女は水の流れを描く彼の姿を見つけた。錯覚だろうが、筆を持つ彼の周りはそこだけ時空が歪んだようになっていて、この世界から隔絶されていた。キャンバスを覗いた時の衝撃は凄まじく、彼女は、迷い無く筆を走らせ傑作を完成させていく彼を間違いなく天才だと思った。気が付いた時には彼女の方から声を掛けていた。振り返った天才画家の顔は、恋も嫉妬も恐怖も憎悪も知らないような、穢れの無いものだった。その顔を見た瞬間がきっと今夜これからすることの始まりだったのだろう。


 彼女は一つ噓を吐いた。林檎飴の屋台を提案したのは空いていたからではなく、彼女の好物だったからである。彼と二人きりで遊ぶのが最後になるかもしれないことを考えると、思い出は特別甘い物にしておきたかった。


 特に相談することも無く、二人の足は河原へ向かっていた。人でごった返していたが、何とか座ることができた。青年は空に咲いては散っていく鮮やかな光に見惚れる。隣の少女の瞳も夜空へと吸い込まれていく。


 彼女の緊張は最高潮に達していた。だが、今日程の機会は後にも先にもやって来ないかもしれないのだ。やるしかない。少女が青年の掌の上に自らの掌を重ねる。驚いた青年が彼女を見つめ返す。黒く透明な瞳が彼のことをじっと見つめた。


 青年が本当に驚いたのは少女の蠱惑的な唇から二文字が飛び出た時であった。今まで自分達は純粋な友情で繋がっていると思っていたし、彼女からそんな気持ちは読み取れなかったからだ。刹那、彼は出会いから今に至るまでを想像したが、鈍感な彼にサインを見抜くことは出来なかった。彼が理由を尋ねることは無かった。腹から血を噴き出して倒れたからである。


 少女は計画を遂行できたことに満足したのだろう、恍惚の表情を浮かべてその場に留まっていた。


 花火大会で起こった殺人事件は、少女の供述から話題を呼んだ。


「天才はこの世に存在してはいけない。彼らは神様自身もコントロールできない失敗作だ。彼らは絶望を知らない。初めて彼の顔を見たときにそう直感した。彼の眼は穢れた私にはあまりにも澄んでいた。劣等感を遥かに上回るこの世界から拒絶されたような感覚は、彼との付き合いが長くなる程、私が筆を折ろうかと悩めば悩む程、深く私を突き刺した。彼を刺したことに後悔はない。むしろ、今この世界に彼が居ないことが快い位だ。花火を見上げながら『死ね』と伝えた時の困惑の表情が忘れられない」

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