君が笑えば

桜野　叶う

「あんまり面白（おもしろ）くないわね」

　そう口（くち）にしたのは、お笑（わら）い業界（ぎょうかい）及（およ）びテレビ業界（ぎょうかい）の玉座（ぎょくざ）に君臨（くんりん）する女帝（じょてい）的（てき）存在（そんざい）の桃乃屋（もものや）貞子（さだこ）だった。

　彼女（かのじょ）の評価（ひょうか）は、テレビ業界（ぎょうかい）の評価（ひょうか）そのものだと言（い）っていい。彼女（かのじょ）が「面白（おもしろ）いわね」と言（い）えば、その芸人（げいにん）は明日（あした）から数々（かずかず）の番組（ばんぐみ）に声（こえ）をかけられるだろう。逆（ぎゃく）に、「面白（おもしろ）くないわね」と言（い）えば、その芸人（げいにん）が陽（ひ）の目（め）を浴（あ）びることは難（むずか）しい。

　そんなお笑（わら）い女帝（じょてい）に「面白（おもしろ）くない」の判（はん）を押（お）されたのは、初（はじ）めて挑戦（ちょうせん）した賞（しょう）レース。予選（よせん）を突破（とっぱ）し、地上波（ちじょうは）に映（うつ）ったその第一回戦（だいいっかいせん）目（め）の時（とき）だった。他（ほか）の審査員（しんさいん）からは悪（わる）くない評価（ひょうか）を受（う）けたが、桃乃屋（もものや）さんの評価（ひょうか）は尽く低かった。

　この場合（ばあい）、他（ほか）の審査員（しんさいん）の良（い）い評価（ひょうか）など無（な）いに等（ひと）しかった。彼（かれ）らもネタ番組（ばんぐみ）やバラエティ番組（ばんぐみ）などでよく見（み）る顔（かお）で、実力者（じつりょくしゃ）ばかりだった。

　だが、桃乃屋（もものや）さんの評価（ひょうか）が全（すべ）てだった。

　その一回戦（いっかいせん）で落（お）ちた後（あと）、マネージャーからも「お前（まえ）終（お）わったな」と言（い）われた。

「桃乃屋さん（もものや）におもんない言（い）われたんだぞ。お前（まえ）芸人（げいにん）向（む）いてねーんじゃね？」

　そうなのか。ここまではっきり「面白（おもしろ）くない」「向（む）いてない」と言（い）われると、とても自信（じしん）など持（も）っていられない。

　薄（うす）っぺらいドアの鍵（かぎ）を開（あ）け、質素（しっそ）なワンルームの部屋（へや）の明（あ）かりをつけた。家賃（やちん）２万代（まんだい）の激安（げきやす）なアパートの一室（いっしつ）で、風呂（ふろ）もない。あるのはトイレとちっちゃいキッチンと布団（ふとん）とテレビとローテーブルぐらい。

　食（く）って寝（ね）るだけだからこれくらいで十分（じゅうぶん）だ。風呂（ふろ）に関（かん）しては近所（きんじょ）の銭湯（せんとう）に通（かよ）っている。

　今夜（こんや）も辛（かろ）うじての気晴（きば）らしに、銭湯（せんとう）へ向（む）かった。

　銭湯（せんとう）『日向（ひなた）の湯（ゆ）。ひとっ風呂（ふろ）浴（あ）びた後（あと）、ここの銭湯（せんとう）には浴場（よくじょう）だけでなく風呂（ふろ）上（あ）がりに牛乳（ぎゅうにゅう）でも飲（の）んでくつろぐ畳（たたみ）の空間（くうかん）があった。そこでコーヒー牛乳（ぎゅうにゅう）を飲（の）んでから、まばらにいる人（ひと）たちに向（む）けて芸（げい）を披露（ひろう）した。それがいつもの日課（にっか）だ。

「あの、ジブン、松永（まつなが）愉太郎（ゆたろう）と言（い）います。お笑（わら）い芸人（げいにん）の端（はし）くれで、ちょっとネタを披露（ひろう）させてもらいます」

　畳（たたみ）に腰（こし）を下（お）ろしているおじさん、おばさん、若（わか）いお姉（ねえ）ちゃんも皆（みな）自分（じぶん）に注目（ちゅうもく）した。

　自分（じぶん）のネタは、ドッと笑（わら）いを取（と）るものではないけれど、和（なご）やかに皆（みな）を笑（わら）わせた。

「ありがとうございました」と終（お）わらせば、「面白（おもしろ）かったよ」との声（こえ）が飛（と）んできた。

「松永（まつなが）さん」

　と、自分（じぶん）に声（こえ）をかけたのは、じいちゃんばあちゃんばかりいる銭湯（せんとう）の中（なか）で、珍（めずら）しい若（わか）いお姉（ねえ）ちゃんだった。

　彼女（かのじょ）の名前（なまえ）は、木村（きむら）かなで。この銭湯（せんとう）の常連（じょうれん）で若（わか）い者（もの）同士（どうし）という類似点（るいじてん）があり、言葉（ことば）をかわすくらいの間柄（あいだがら）になった。

「かなでさん」

「今日（きょう）も面白（おもしろ）かったよ。あなたのネタ見（み）てると元気（げんき）が出（で）るの」

　彼女（かのじょ）にそう言（い）われると特（とく）に嬉（うれ）しかった。

　そこへ顔（かお）見知（みし）りの熟年（じゅくねん）夫婦（ふうふ）がやってきた。

「テレビ見（み）たよ」

「桃（もも）ちゃんにはハマらなかったみたいだけど、私（わたし）は嬉（うれ）しかったわ。いつもここで頑張（がんば）ってる愉太郎（ゆたろう）ちゃんが、テレビに映（うつ）ってるんですもの」

　このお母（かあ）さんがそう言（い）うと、かなでさんはきょとんと目（め）を丸（まる）くした。

「へぇ、松永（まつなが）さん、テレビ出（で）たんだ」

「まあでも、一回戦（いっかいせん）で負（ま）けたけどね」

「えー、面白（おもしろ）いのに……」

「もっと面白（おもしろ）い芸人（げいにん）がたくさんいるんだよ」

「でも私（わたし）は、その人（ひと）たちよりも、あなたの方（ほう）が好（す）きよ」

　と言（い）うか、知（し）らないんだけどね。テレビ見（み）ないし。

　なるほど、ジェネレーションギャップか。自分（じぶん）とかなでさんとでは、そこまで歳（とし）は違（ちが）わないはずだが、銭湯（せんとう）には来（き）ているし、イマイチ彼女（かのじょ）との距離（きょり）が掴（つか）みづらい。

　しかし、彼女（かのじょ）に「好（す）き」だと言（い）われて、気（き）が昂揚（こうよう）している自分（じぶん）もいた。

　芸人（げいにん）一本（いっぽん）で食（く）っていけるのは一握（ひとにぎ）りの才能（さいのう）があるやつだけ。

　そんなのは重々承知（じゅうじゅうしょうち）だ。そこに達（たっ）せるまでの自信（じしん）もないから、普段（ふだん）は老人（ろうじん）ホームに勤（つと）めて生活費（せいかつ）を稼（かせ）いだ。年寄（としよ）りと関（かか）わるのは嫌（いや）じゃなかった。さらに遊戯（ゆうぎ）の時間（じかん）に、ネタを披露（ひろう）して利用者（りようしゃ）の人（ひと）たちを和（なご）ませた。