鏑木 10
夕刻、桃子は本日入用な物を買い入れて帰路に着く。
本来なら興人に荷物持ちをさせるのだが、今は療養中。
本人は問題ないと言うのだが、元々これは桃子一人の仕事。
結構な大きさの手提げ袋を両手に持っているが、涼しげな顔をして歩いていた。
そこへいつぞやの男達が立ち塞がる。
「何かご用ですか?」
男達はいやらしい笑みを張り付けて詰め寄る。
しばしどうしてやろうか、と言わんばかりに周りを回っていたが、リーダー格の男が手下に耳打ちするように言った。
「おい。帯ってのはどこを引っ張れば解けるんだ?」
「いや、知らねぇす」
男達はしばらくどうしたものか、と睨みつけていたが、
「一緒に来てもらおうか」
ピッチリと着物を着て美しく化粧をし、凛と振る舞う桃子を乱暴に扱うのが憚られたように言う。
「いいですよ。では行きましょうか」
と手に持った荷物を差し出す。
? と男達は何を要求されているのか分からないように互いに顔を見合わせる。
「家にわたくしを
男達はどうしたらいいのか分からないように訝しい顔をしていたが、
「間違いなくわたくしが攫われたという証拠にもなります。説明の手間が省けますよ」
やや釈然としない様子だったが、確かにその通りなので手下の一人に荷物を持たせて家に向かわせた。
ゴトリ! と鈍い音を立てて手下の男は白目を剥いて地面に転がる。
「ちっ。結局何も吐かねぇか……」
興人は口惜しそうに吐き捨てたが、
「いや……、最初に必要なことは全部言っていたと思うが……」
「嘘だったらぶちのめせばホントのことを吐くだろうがよ。結局本当のことは何も言わなかった」
「最初に言ったことが全部本当だったんだと思うが」
「分かってるよ! それを確かめただけだ」
魁一郎は手下が持ってきた荷物を託すと、「では行ってきます」と言い残し、和子もそれを受け止めるように頷く。
「慌てるこたぁねえぞ。あいつらは桃子に何もできやしねぇ」
「慌てているのはお前の方だ」
「オレはいつもこんな感じだ!」
桃子も不用心ではない。
アッサリと
しかもご丁寧に荷物を手下に届けさせてもいる。
「余裕かましやがって、どうなっても知らねえぞ」
やはり心配なのではないか、と思うもあえて言うまいと魁一郎は支度を整えると屋敷を出た。
一応、警察等の応援を引き連れてくれば桃子の命は無いと言っていた。
手下が伝えてきたのはここからそう遠くない工業地帯。
その一角、倉庫が立ち並ぶ区画だ。
一昔前は盛んだったが、公害を撒き散らすことと運送の不便さから次第に勢いを無くし、今ではいくつかの工場が稼働しているだけだ。
倉庫に至ってはほとんどが空き倉庫だ。
夜になるとほぼ寝静まる地域。決闘の場としては申し分ないのだろう。
バスを乗り継ぎ、徒歩で指定の区域に入る頃には日は完全に落ちていた。
「どこにいるんだ?」
「ここの倉庫だとしか言ってなかったが……」
倉庫と言っても大小様々で、正確な数は分からないが十数棟はあるだろう。
てっきりその入口となる場所、あるいはそこからすぐ見える倉庫にいると思っていた。
明かりなど目印になる物もない。
しばらくの間立ちすくんでいたが、やがて興人が棒に収めた小太刀を取り出す。
今は鞘となる棒を斬られてしまって、二本の小太刀長の棒になっている。
「そうか、そういうことかよ」
興人は誰に言うでもなく呟く。
訝しげに見る魁一郎に興人は答える。
「あいつの考えそうなことだ。ワザと詳しい場所を教えるなと言ったんだ」
つまり魁一郎と興人、知らせを受ければ二人共やってくるのは当然だが、すぐに見つからなければ手分けをして探す。
そして先に見つけた方と婚約するつもりなのだと。
「運命に従う。あいつらしい考えだぜ」
興人は早速と右側の倉庫に向かって走り出す……が、すぐに立ち止まり左側を向いた。
「やっぱりこっちから行こう。早い者勝ちだ。文句はねぇな」
興人は返事を待たずに左側へと走って行った。
魁一郎はやや呆れながらそれを見送り、浅く息をつくと右側の倉庫へと歩み寄る。
考え込んでいても仕方がない。片っ端から当たっていくしかないのか。
しかしあまり体力を消耗するのも得策ではない。
魁一郎はとりあえず一番近い倉庫の扉に手をかけた。
桃子はコンクリートの地面に反物を敷き、その上に正座で構えていた。
ここ数日、興人は魁一郎の屋敷で療養していたが、師範である道場も長く空けておくわけにもいかない。
もう戻らなければならない時期だが、怪我は万全ではない。
だが怪我をするのも己の不覚と興人は闘いに挑むだろう。
魁一郎とて怪我人を相手に本来の力を出せるかどうか分からない。
もちろん桃子は勝った方を選ぶ、というような安易な考えを持ってはいないが、いささか一生を左右する決断をするのには事情が複雑なように思えた。
運命は、全ての事象が複雑に絡み合った先にある。
それもその通りなのだから流れに任せるのもよいのだが、この流れもまた運命。
流れに身を任せるなどいつまでもできるものではない。
と桃子は中央に一つある焚火の明かりに照らされながら物思いにふけっていた。
「なあ兄貴。野郎来るまでにやっちまいましょうよ」
兄貴と呼ばれたリーダー格の男は「ああ」と小さく言うと正座する桃子の横に立つ。
だが姿勢よく正座した桃子は、コンクリートの地面と一体化したように見えた。
腕を取って立たせても、そのまま押し倒そうとしてもビクともしないような……、そんな雰囲気を醸し出している。
どうしたものかと考えあぐねるように眺めていると、その場にいる全員が倉庫の入口を注視した。
ごごっ! と重い音と共に鉄の扉が開き、そこから白い軍服のような服装の青年が現れる。
先程から微動だにせず、いるのかいないのか分からなかった桐蔵が口を開く。
「最初に辿り着いたのは青年の方か。それとも二刀の男は動けなかったかな?」
彼も来ている、と素っ気なく言うと魁一郎は躊躇ない足取りで歩み寄る。
桃子の表情は変わらない。
桐蔵が間を割るように立つと、手下達はそそくさと邪魔にならないように移動する。
「なあ、刃を持つ者よ。お主はなぜ刃を砥ぎ続ける? いや答えなくていい。人を斬るためだ。それ以外に理由は無い。ならば斬る。斬らねば死ぬ。それだけだ」
「砥ぐのは己自身。刃は己の心の投影だ。身に潜む刃と向き合い、共に生きる」
「先人の言葉か? どれ、証明してみせよ」
桐蔵はゆらりと前に出る。
傍目からは刀を持っているのかも分からない。
手下達も、その雰囲気に息を飲んだ。
「言うまでもないが、お主が死んだらこの娘は死ぬ。逃げても同じだ。お主らが生きて帰るには儂を殺すしかない。言うまでもないが、峰打ちで倒せるなどと思うな」
魁一郎は意を決したように灰奥を取り出す。鞘はまだ付けたままだ。
「近年になって、めっきり人を斬る機会も無くなったな。なあ若いの。人を斬ったこともない者が剣士を名乗る。嘆かわしいとは思わんか」
キン!
と鍔鳴りの音が倉庫に響く。
抜いたのか、と魁一郎は若干衝撃の残る右手を見ながら冷や汗を掻いた。
桐蔵は脱力し、ゆらゆらと足取りが定まらないように揺れているが、それは抜刀の予備動作を隠すためだ。
自然に揺れていながら、その動作から刀を抜く。
加えて焚火の明かりによって作られる影は、ちらちらと揺れて周りの景色をも生き物のように蠢かせる。
抜刀の「起こり」を見て反応することは困難、いや不可能なように思えた。
「路上で人を斬っては色々と面倒だが、ここなら遠慮はいらぬ。もちろん、お主が儂を斬っても同じだ。公になることは無い」
ゆらゆらと揺れながらも桐蔵は近づき、魁一郎は合わせて離れる。
ふっと桐蔵の体が大きく倒れるように揺れ、一際大きい金属音が響いた。
く……、と確かな衝撃に魁一郎は顔を歪めた。
桐蔵の刀に対抗するためには刀を受け、流水で受け流しながら間合いを詰めるしかない。
だが刀が長い。間合いが遠い。
一撃を加えるより、返す刀の方が早いだろう。
桐蔵の言う通り、峰打ちで倒せるような相手ではない。
命を絶たねば反撃を受ける――というのもそうだが、片刃の刀というのは本来の向き、つまり刃を相手に向けて振る前提で作られている。
反りの方向に向けて流れるように空気を切ってこそ最速を出せる。
抜刀――鞘に納めた状態から、反対方向に反った刀身を最速で抜くことは不可能だ。
比較的反りの少ない灰奥でも、その差で切り負けるには十分だ。
そこを技術で埋めることはできるが、埋めた所で当然厚い峰ではその分空気抵抗がある。
そのくらい、という程度の物ではあるが、今はそのコンマ一秒以下の差でも命を失う。
魁一郎は握る柄に汗が滲むのを感じた。
時間もない。焦ればそれだけ不利になる。
汗で滑らぬよう手に力を込めれば、それだけ動きも硬くなる。
もう覚悟を決めるしかなかった。
ん? と何かに気付いたように桐蔵の眉が動く。
「ほう。ようやく覚悟を決めたようだな」
桐蔵も距離を取って動きを止めた。
そのくらい、誰の目にも魁一郎の気持ちが変わったのが見て取れた。
「私にも守らねばならないものがある。そのために全ての力を出し尽くす必要があるというのなら、謹んで受けよう。相手を死に至らしめることになっても、それは全力で大切なものを守ったことによる結果だ」
「すばらしい。それでそこ剣士の闘いだ」
桐蔵の声が歓喜に震える。
これまでの立ち合いが余興だと言わんばかりに、桐蔵の雰囲気も変わった。
桃子の脇に立つ手下達も、見張りの役目を忘れたかのように息を飲む。
しばし、空気が固体化したかのような静寂。
呼吸をも最小限に抑え、徐々に苦しくなる中、この限界が来た時が勝負を決する時なのだろうと、その場にいる全員が感じ取った。
勝負は一瞬。
浅くなる呼吸がついに止まり、ほんの僅かでも先に動いた方が負ける。
つまり先に耐えきれずに一瞬息を吸った方が斬られる。
そう思われた時。
パン!
と静寂を破るような音が倉庫内に響き渡った。
向かい合う剣士は一瞬何が起きたのか分からなかったが、その隙を相手に見せないよう互いに距離を取った。
「あら、失礼」
見ると桃子が手拭をピンと広げて持っている。
「緊張で汗を掻いてらっしゃるので、終わった後拭いて差し上げようと」
どうやら桃子が手拭で立てた音のようだ。洗濯物を干す前にパンと引いて叩くやつだ。
桐蔵はふっと息をつく。
「気を逸らしたつもりかね。危うく婚約者を殺すかもしれなかったのだぞ。いや、もう殺したのかもしれないな。折角の殺気が抜けてしまった」
「心配は無用だ。私の心は決まっている」
魁一郎も再び桐蔵に向き直り、殺気と言える気迫を見せる。
「こやつはもう人ではない。人の姿をした鬼だ」
「それはあながち間違いではありませんが、あなたがそれに倣う必要はないかと思いましたので」
桐蔵はやや呆れたようにしつつも、再び居合の構えを取る。
「
その通りだ、と魁一郎も構えを取ると、桃子は懐から小さな筒状の物を取り出した。
二人は向かい合いながらもそれに注意を向けた。
桐蔵としては、吹き矢等の隠し武器を警戒しての反射的な行動だ。
だが桃子が取り出したのは白塗りの鉛筆。
魁一郎が浦木達に持たされた。何の変哲の無いただの鉛筆だ。
鋭く削られた芯先は、確かに投げつければ凶器になりそうだ。
だが桃子はそれを両手で挟むように持つと、尖った芯をコンクリートの地面へと当てる。
ピンと背筋の通った姿勢で花を活けるような動作は、さすが華道の家元を継ぐだけのことはあった。
何をするつもりか、とその場全員の視線が注ぎ込まれたが、桃子は勢いよく、しかし無駄のない動きで手を広げる。
左手を上に、右手をやや前に広げた、バレエのような動きだ。
その形も美しかったが、だがその光景には別の違和感があった。
鉛筆が……、倒れない。
アドレナリンのせいなどではない。
驚きで息を飲む間も、鉛筆は静止したように立ったままだった。
魁一郎は言葉もなく、薄く笑いを漏らすように口元を緩めた。
だがその一瞬気の緩みを桐蔵は捕らえて動く。
まず目を動かし、体全体を回転させてそれに乗せるように腕を振るった。
剣での攻撃というものは相手に早く当てるほどよい。鋭く砥がれた刃は一瞬で相手の命を絶つ。
だが普通は、相手も一瞬遅れようが反撃の刀を抜く。こちらの刀が相手の首を跳ねた時には、反撃の刃はこちらの首元まで迫っている。
その斬撃は相手の命を絶とうとも衰えることはない。
一瞬遅れて自分の首も胴体と別れを告げることになる。
ならどうするか。
相手に先に刀を振らせ、その起こり――つまり出だしの動きから刀の軌道を見切り、攻撃を躱し、または捌きながらこちらの斬撃を繰り出す。
達人級の闘いではそれができる者が勝利する。
当然ながら、その最中に何かを気を取られたり、集中力を切らせても同じだ。
その隙も逃さない。
桐蔵はその定石通りに隙を見せた魁一郎の首に剣撃を見舞った。
だか魁一郎とて、鉛筆に注意を向けたとはいえ、視界に入る物全ての動きを捕らえるよう日頃から鍛錬している。
桐蔵が動いたことは分かっていた。
その動きに反射的に対応するが、やはり隙は隙。斬撃を捌いて反撃に転じるには出遅れていた。
だが魁一郎は落ち着いた様子で体を回し、その動きのまま刀を抜く……こともなく鞘ごと放り投げた。
な!?
と一瞬桐蔵は動揺したが、抜刀の動きは止められない。予想外の行動に一瞬硬直して勢いを削がれたが相手は丸腰になっただけだ。
構わず振り抜けば問題ないと言わんばかりに刀を振る。
脳内物質の効果でゆっくりに見える動きの中で、魁一郎は冷静だった。
冷静に迫りくる刃を見ながら父の教えを思い出していた。
自分に限界などない。限界は諦めに過ぎない。
そう叩き込まれていたが、父がいなくなった今、いつの間にか限界を作っていたようだ。
父は魁一郎に足りないものが分かっていたのだろう。
だから桃子を寄越したのだ。
父の剣とはまた違った教え。芸事を。
優れた芸は武術と綿密な関係にある。剣の達人の多くは書道をも極めているという。
そして蕪古流は華道と表裏一体。
今まで華道は剣術を隠すための
華道も古来より洗練された技を継ぐ芸事なのだ。
その極意は武術に通じる。
魁一郎はその思いを身の内に秘め、体を回転させる。
脱力し、足先一点を残し体を浮かせて高速で身を転じた。
鋼の刃を腕に受けたが、その勢いよりも早く体を回す。
桐蔵はその回転に引き込まれるように前につんのめり、その身に肘撃ちを受けた。
回転の勢いのままに繰り出された魁一郎の肘は、桐蔵の脇腹深くにめり込み、あばらの砕ける鈍い音をさせる。
「ご……」
桐蔵は刀を落とし、ずるずると地面へとへたり込んだ。
魁一郎は息を吐く。
浦木達に不可能だと言わしめた鉛筆立てだが、簡単なことだったのだ。
一応世間的にも認められる学者達の言うことなので鵜呑みにしてしまったが、彼らも『回転させてはいけない』とは言わなかった。
そう。
桃子はコマのように鉛筆を回転させた。
コマも円筒状の物が一点で接地しているということにおいては同じだ。
回転している間コマが立つように、鉛筆も回転している間は立つ。
もっとも鉛筆のような細長い物を立たせるのは凄い技には違いないが……。
魁一郎は桃子の両脇に立つ手下達に向き直る。
手下達は慌てた様に、桃子を人質にするか逃げるかと迷う素振りを見せたが、鈍い音と共に吹っ飛んでのた打ち回った。
桃子の後ろには稲葉の大男、興人が立っている。
「なんだ。オレの出番は無しかよ」
息を切らし、やや無念そうに言う。
桃子は何事なかったように澄ましたまま正座を続けていた。
「しかし、なんでお前……。すぐ右の倉庫にいたんだ?」
興人は息を整えながら桃子に聞く。様子から左回りに全ての倉庫を調べて回ったようだ。
「あなたは右から攻める癖がありますからね。だからここはそれを見越して左と予想するだろうと思っていました」
興人は吐き捨てるように言う。
「なんだよ。初めから決めてたのかよ」
「何を言っているのです。あなたの癖である右側にいたのですよ私は」
ぐ……、と興人の顔が悔しそうに歪む。
そんな約束事をした覚えはないが、と魁一郎は思ったが敢えて何も言わないことにした。
「しかし真剣を腕で受けるのか。それも蕪古流の流水ってやつか?」
「いや、さすがにそのままでは腱を断たれていた」
魁一郎は腕をまくってその下の手甲を見せた。
ふん、と興人は感心して損をしたと言わんばかりの表情で踵を返す。
「で、こいつらどうするよ」
興人は鼻から血を流す手下どもの前に立った。
手下どもはもうしない、許してというような言葉を並べたが、興人は信用できねぇな、と悪戯っぽく笑うと小太刀を抜いて閃かせ、手下達の額にバツ印を刻んだ。
手下達は悲鳴を上げて這いずり逃げる。
「それに間違うんじゃねぇ。お前らが喧嘩売る相手はこのオレ。稲葉流、稲葉興人よ」
倒れた桐蔵を抱え上げて去る手下達に怒声を浴びせた。
「では。参りましょうか」
桃子は二人の間に立ち、しずしずと歩き出す。
魁一郎と興人少し顔を見合わせる。
心配させて……と叱咤の一つもしないままいいのか? とも思ったが、その機会も逃してしまったので仕方なく付いて行くことにした。
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