鏑木 8

 興人の傷は浅くはないものの、凶器が鋭利だったため、切り口がキレイで思ったより早く回復するようだった。

 眼球に傷はついていないので失明の危険はないが、近い所を斬られているのでしばらく左目は使えないだろう。

 蕪古流も生徒はいないが剣術の道場には違いない。

 感染症を防ぐ抗生物質などの用意はある。

 だが失血もあるので今日一日は安静にしているよう、和子と桃子が見張っている。

 魁一郎としては決着をどうするつもりなのか気になるが、昨夜の刺客――桐蔵のことも気になっていた。

 さすがに留守の屋敷に押し入ることは無いだろうと思っているが、そもそも路上で刀を振り回すような相手だ。

 安心はできないが、桐蔵は剣で雌雄を決するのが望みのように思う。

 警察に通報して警備してもらっても、いつまでも続けられるわけではない。

 警察が引き上げた後、より危険が増すように思う。

 いずれにせよ、留守の間に家の者に危害を加えるつもりならば始めからそうしているはずだ。

 魁一郎は懐に灰奥を忍ばせつつ、いつも通り仕事に出かけていた。

 日常の業務は早めに切り上げ、魁一郎は町外れの白い建物に向かう。

 今回の――桃子達のこととは関係なく少し前から何度か足を運んでいる場所だ。

 以前、製薬関係の仕事で知り合った人物がいる。

 そこで化学繊維などの最新技術を取り扱っている所を紹介してもらった。

「お世話になります。浦木教授」

 浦木と呼ばれた初老の男性は、まだ新しいオフィスに魁一郎を招き入れた。

 浦木は生物学の専門家だが、先日教授職を与えられ、各方面に顔が利く。

 ここは主に薬剤の研究を行っているが、医療機器などの機械工学の研究者も出入りしていた。

 まだ新しいが、これから技術躍進の貢献に期待されていると聞いている。

 所長――といっていいのかどうかまでは魁一郎には分からないが、この建物の中ではかなり偉いようだった。

「以前頼まれた物だが、サンプルができておるよ」

「恐縮です」

「できてはおるんだが、使いがまだ来てなくてな。いやここには来とるんだがどうも時間にルーズというか」

 いえ、と魁一郎は気にも留めないように姿勢を正して待つ。

「君は相変わらずストイックに修行しているのかね?」

 魁一郎は当たり障りのない返事をする。

「しかし、こう言っては何だが今時そんな剣術が何の役に立つのかの。伝統とは言ってもそれだけでは食っていけまい」

「そうですね。いつかは消え去るのかもしれません。でも、終止符を打つのは私ではないような気がして」

 ふむ、と浦木は自分には分からない世界だとこぼす。

「そんなことでは恋人と出会う機会もあるまいて。どうかね? ワシが誰か紹介してやろうか?」

 いえ……、と苦笑いすると浦木は声を上げて笑う。

 その後も浦木のどうでもいい話を適当に流していると、

「お待たせしました!」

 と勢いよくドアが開き、若い男が駆け込んできた。

 ぜいぜいと苦しそうに喘ぐ男は魁一郎とさほど変わらないくらいの歳のようだが、だらしなく着流した白衣にマスク、牛乳ビンの底のように分厚いレンズのメガネをかけている。

 やや太い眉に、髪は新卒サラリーマンのようにピッチリと頭に張り付いていた。

 いかにも研究所の学生という雰囲気だが、顔のほとんどは隠れているのでどんな顔かは全く分からない。

「遅いぞキミ。こんな建物の中で迷ったのか?」

「いやあ、先生の研究所はもう広くて広くて」

 と言って小刻みな笑い声を上げる。

「量子力学を勉強して、いつかワープ装置を作りますよ。そうすればどこへ行くのも迷わないし、歩かなくて済みますからね」

 そんなことはいいから、と浦木は青年に持ってきた物を出せと促す。

 青年は鞄から包みを取り出し、がさがさと包装を解く。

 出てきたのは黒い板。

 人の上腕ほどの長さの細長い板だ。

「僕の研究所で作っているファイバー素材です。防弾チョッキにも使われている素材で、柔軟な上に軽くて丈夫。でも加工が容易という優れものです」

 強い衝撃には耐性を持つが、刃を当ててギコギコと根気良く切れば家庭用の工具でも切断することができる。

「とりあえずサンプルとして三枚持ってきました」

 若干湾曲している板は一見すると手甲のようにも見える。

 一枚一枚は薄手のノートくらいの厚みだ。

「ライフルやマグナムは防げませんけどね。9mm拳銃や刃物くらいなら傷がつく程度で済みますよ」

 マスクの青年は得意気に板を立てる。

 警察機関や軍隊に向けて売り込むための物で、まだまだ改良の余地がある。

 これは既に型落ちして、もう大して機密でもない。

「どうかね? 壬生くん」

 魁一郎は懐に忍ばせてあった刀――灰奥を取り出し、柄に手をかける。

 キン! と甲高い鍔なりの音が響くと、パタッと板の一枚が半分に斬れて落ちた。

「ああっ! 研究所自慢の防刃素材が!!」

 青年がマスクからはみ出るほどに大きな口を開けて驚愕する。

「いえ、重ねたうち表の一枚しか斬れていない。二枚目は傷一つ付いていない。凄いことです。ぜひ頂けませんか」

 青年は魁一郎の言葉など耳に入らないように斬れた板と灰奥を見比べる。

「そ、その刀を僕にください!」

「いえ、そういうわけには……」

「落ち着きたまえ……、えと……」

 浦木は言いかけた言葉を詰まらせて指揮者のように指を空中でなぞる。

「西道です、先生」

「そう、西道君。彼は今に伝わる剣の達人だ」

 魁一郎はこの刀と自分でなくとも、日本刀とそれを使える者ならば可能なことだと宥めるが、

「こんなの……、ありえない」

 鋼の分子構造は……、素材の分子構造は、あーなってこうなってとぶつぶつ呟き。

「分断されるなんて、物理的にありえないはずだ」

 西道は髪をかきむしる。

「この世に不可能というものはありません。科学者こそ、不可能を可能にしてきたのではありませんか」

 魁一郎は落ち着き払って諭すように言うが、西道はピタッと動きを止めた。

「いえ。不可能なことならありますよ」

 さきほどの様子とは一転してキッパリと断言するマスクの青年に、浦木は「ワープ以外で頼むよ」と皮肉る。

「ワープは理論上可能です。あとタイムスリップも」

 西道は失礼、と机に置いてあったペン立てを物色する。

 その中から丸い、白い塗装のされた汚れ一つないキレイな鉛筆を取り出した。

 しっかりと削られていて先もこれ以上ないくらいに尖っている。

「この鉛筆を、尖った方を下にして立ててみてください」

 魁一郎と浦木は少し訝し気に顔を見合わせる。

「あー、えーっと、そう西道君。彼の……その……何とか流はバランス感覚を研ぎ澄まして今のような技を実現させていると聞くぞ」

 ええ、と魁一郎も肯定する。

 卵を立てることも造作もない。

 以前、浦木にそれをやって見せて驚かせた。

 魁一郎は鉛筆を受け取り、机に立て、人差し指で鉛筆の尻を押さえた。

 指と机で鉛筆を挟む形を作り呼吸を整える。

 指先に全神経を集中させて鉛筆の芯、重心を感じ取り、その線を地球の中心――重力の中心に向けて完全に平行に立てる。

 数秒、息を止めるように静止する魁一郎に、浦木達もつられて息を止める。

 ふっと静かに指は放された。

 静止画のように直立する鉛筆は、一瞬そのまま立っているのかと思わせたが、やがてゆっくりと傾き、音を立てて倒れた。

 ふーむ、と浦木も残念そうに椅子にもたれる。

 内心かなり期待していたようだった。

「でしょう。どんなに真っ直ぐに立てても鉛筆は必ず倒れます。これは世界の理なんですよ」

 西道は得意気に言う。

 魁一郎は表情一つ変えなかったが、鉛筆を手に取ると、もう一度挑戦した。

 だが結果は同じ。

 その後も何度か続けたが、鉛筆は乾いた音を立てる。

「何度やっても同じですよ。鉛筆は絶対に立ちません。知り合いの大学に凄い天才がいましてね。彼がよく物の喩えに使うんですけど。彼はいつか凄い発見をするに違いないと思いますよ」

 もしかしたらノーベル賞を取るかもしれません、と自分の世界に浸り込む西道を他所に、魁一郎は試みを続ける。

「ほっほっ。壬生くんがムキになる所なんぞ初めて見るわい」

 若干面白そうな浦木に、魁一郎はやや口を曲げた。

「なんならその鉛筆を持って行って良いぞ。修練を積んでできるようになった所を見せてくれ」

「無理ですよ。立てた鉛筆は必ず倒れる運命にあるんです」

 ムキになるつもりはなかった魁一郎だが、西道の言葉にむっとしたように鉛筆を受け取った。

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