晴美 2
翌日。
事務所にやってきた郁美を皆で取り囲む。
「ねえ、大丈夫なの? あれ」
「ていうか彼氏って本当?」
古株アシスタントの二人も心配そうに詰め寄る。
「あんなのが彼氏って。絶対ありえないでしょ。何か弱みでも握られてるんじゃない? ね、楓ちゃんもそう思うでしょ?」
「えっ?」
突然話を振られ、「ええ、まあ」と曖昧に合わせるが、そのままバツが悪そうに眼を逸らす。
楓の実弟である魁も似たようなものだ。
初めてガールフレンドを紹介された時、自分も同じようなリアクションをしたんだったなと思い出す。
しかし魁の彼女――本当は彼女なのかどうか分からないのだけれど――サクラは見かけに反して良い娘だ。
派手な恰好はしていても最低限の礼節をわきまえているし、友達思いで優しさもある。
かくいう楓の付き合っている男も金髪に染め、大型バイクに乗って喧嘩ばかりしているような風貌だ。
もっとも楓の前で暴力を振るったことは無いし、爽やかな笑顔を絶やさない。
昨日見た連中とは根本的な何かが、曖昧な表現だが匂いが違う。
よく知らない連中なので、郁美を差し置いてとやかく言うのも違うだろうと思うだけだ。
「わたしもプライバシーまで踏み込むつもりはないけどさ。事務所まで来られると、さすがに困るのよね」
晴美もその辺りは同意見のようだが、確かに昨日のようにどかどかと踏み入って来て騒ぎ立てるのは仕事に支障が出る。
所長として指導する義務はあるのだろう。
「あの、ホントにごめんなさい」
ただただ謝り続ける郁美に、古株二人も煮え切らない様子だったが渋々仕事に戻る。
皆の作業が一段落する頃、晴美は少し休憩しましょうかと休憩スペースのソファに腰を降ろした。
ふう、皆もペンを置き体を伸ばして席を立つ。
「はい、フミさんエリさんはまだ終わってないでしょう? 今日中にひとつは仕上げなきゃ、フェスに間に合わないよ」
えー、という顔をするも古株二人はそのまま席に座り直す。
楓はまだ熱心に製図板に向かっていた。
郁美は備え付けのポットからホットコーヒーを煎れる。
「でも郁美ちゃん、ホント困ってるようだったら言ってよね」
郁美はハッとしたように顔を上げたが、すぐ「すみません」と言って俯く。
晴美は心情を読むように郁美の顔を凝視していたが、
「ファッションデザイナーになりたいとは思ってる?」
「も、もちろんですっ!」
慌てた様子だが即答する郁美に晴美は安堵の笑みを浮かべた。
「ならいいのよ。ま、感性を磨くなら色々と経験を積んでおくのもいいことだし」
ひらひらと手を動かし、おちゃらけた素振りを見せていたが、ふと真剣味を帯びた目で郁美を見据える。
「だけど、これだけは覚えておいて。あなたは一人じゃないから」
青春漫画のような言葉に、郁美は顔を赤くしながらも頷いた。
「そう言えば、楓ちゃんの弟君も武道やってるんじゃなかったっけ?」
休憩スペースの奥に置いてある用紙を取りに来た楓に声をかける。
「え? ええ、まあ」
そんなこと教えたかな? と思いつつ曖昧に返事をする。
確かに腕っぷしそのものは強いのだろうが、一般人と喧嘩をすることは無い。
しかも弟 魁が収めているのは剣術。それも今時珍しい真剣を使った技だ。
少し前、体に変調をきたして怪物になった者と戦うために振るったことはあったが、街の不良を相手に使う姿など想像できない。
「警護をしてもらう必要はないけど、知り合いにそういうのがいると心強いじゃない」
晴美は楓にも休憩を勧めるが、できるだけ早く作業を進めたい楓は恐縮しながらも断る。
そんなやりとりをしていると突然ドアが開き、昨日の連中がどかどかと入って来た。
「ちょっと! まだ勤務時間中よ。勝手に入って来ないでくれる」
「郁美ぃ。お前辞めるって言ってたじゃねぇかよ」
男は晴美を無視して郁美の肩を掴む。
「警察を呼ぶわよ」
「おー呼んでみろよ。お前らこそ、嫌がる郁美を無理矢理働かせてるだろうが」
「彼女の意志は確認してる。帰って頂戴」
毅然とした態度を崩さない晴美に、男達はにやにやとした笑いを張り付けながら互いを見合わせる。
郁美の彼氏を名乗る男はポケットに手を入れると折り畳み式のナイフを取り出して、刃を開いて見せた。
室内の空気は一瞬で凍り付いたが、男はもう一方の手でソーセージを取り出し、それに刃を喰い込ませる。
切り取った先端部分を口に放り込み、くちゃくちゃと租借しながら、
「郁美ぃ、どうすんだ? 来るのか、来ないのか」
「い、行きます! あの、お世話になりました!」
勢いよく立ち上がり、深々と頭を下げる郁美に晴美は何か言おうとしたが、
「わたしは、仕事に戻りますね」
と奥にいた楓が通る声を出す。
皆その声に注目し、楓は言葉通り作業場に向かってすっと動き出したが、男の前で一瞬足を止めた。
楓は男を一瞥すると手に持った紙をひらりと閃かせる。
何気ない、特に敵意も何も感じない動作だったが、男の持つナイフの刃は根元からポトリと落ちた。
「あら、ごめんなさい」
楓は愛想よく笑うとそのまま自分の作業場へと戻る。
男は唖然とした様子だったが、喉にピリッとした痛みを覚えて手をやると、赤い物がつうと流れ落ちた。
パックリと開いた切り口からは身の色が見えて結構深い。
頸動脈にかかっていたら命が危なかっただろう。
わりと高価であろう服が赤く染まっていくのを呆然と見ていたが、
「あの……、病院に行った方がよくない?」
本気で心配する声音で晴美が言うと、男達は徐々に状況を理解したのか、バタバタと出て行った。
男達が去った後も、しばらく皆固まっていたが、晴美が「はは……」と乾いた笑いを漏らすと皆徐々に笑い出す。
ひとしきり男達の情けない表情を思い出しながら笑うと、
「楓ちゃん。何さっきの。いったいどうやったの?」
と聞く。
「偶然ですよ。紙で指切ることあるでしょう?」
「いや、ナイフは切れないでしょ」
落ちた金属を指で摘まみ上げ、信じられないというようにしげしげと眺める。
血は飛び散ることは無かったので掃除の必要がないのは幸いだ。あんな連中の血で汚れては拭き取ったとしても気持ちが悪い。
いい気味だ、スカッとした――と華を咲かせる女性達の中で、郁美はまだ不安を拭い去れないようだった。
「大丈夫よ。もうあんな連中に手出しはさせないから」
晴美は郁美の正面に向き合うように座る。
「そーそー。また来ても楓ちゃんが撃退してくれるから」
勝手なことを言う古株に楓は苦笑いする。
「そんな……。やっぱり、もうわたしここには来られないです」
服の裾を掴んで立ち上がる郁美を、まあまあと宥めて座らせる。
「いいから、何がどうなっているのか。ちゃんと話してよね。もう無関係じゃないよ」
郁美は震えながら目に涙を溜める。
そして、ポツリポツリと話し始めた。
郁美は上京して、右も左も分からない頃に街であの男に声を掛けられた。
始めは爽やかな雰囲気で、まだ都会で右も左も分からない郁美を親切に案内してくれたのだ。
街の軽いノリの男達に声をかけられることもあったが、男が静かに睨みをきかせ、頼れる存在となったが、後に分かったことだがそいつらは全て男の仲間だった。
まだお金もそれほど持ってなかった頃に、たくさん奢ってくれて色んな所へ連れて行ってくれた。
デザイナーになること、下着のモデルなどもやりたいことも話し、予行練習にとスタジオを借りてサンプルを撮らせてくれたりもした。
当時は郁美自身も男を嫌ってはいなかったし、付き合っているという意識もあった。
しかしまだ精神的に幼いこともあり、体を許すことはしなかった。
それでも徐々に気を許し、下着姿を撮らせた所で男の態度は急変した。
やたらと体の関係を要求するようになったという。
高級下着を買い与えられ、郁美も身に着けてみたかったこともあり、スタジオの隅で着替えている所も撮影されていたのだ。
完全なヌードではないがかなり際どい。とてもではないが人に見せられるものではない。
しかし郁美も金銭的にかなりの額お世話になっていることも事実だし、世間的にも立派に交際している認識もある。
暴力を振るわれたこともなければ、強硬手段に出たこともないから警察にも相談できない。
でも一度でも体を許せば、恐らくそれを盗撮されるであろうことはほぼ確信している。
だがここの所の男の行動は度を越しつつある。
そろそろ精神的にも参って来て、諦めかけていたのだと話して顔を覆った。
「よく話してくれたね」
黙って聞いていた晴美は郁美の背中を撫でる。
皆も憤りを隠せない様子で聞いていた。
「警察に相談しましょう」
でも……、と踏ん切りがつかない様子の郁美に。
「リベンジポルノは心配でしょうけれど、今勇気を出さないと、もっと取り返しのつかないことになるよ!」
古株達は興奮した様子でいきり立つが「本人の問題だから、ここは慎重に」と宥める。
だが郁美は自分よりも楓の身の方が心配だと言う。
あの連中はキレると何をするか分からない。
人前で赤っ恥をかかされたのだ。このまま何もないことはあり得ない。
「まあ、わたしは大丈夫だと思うけど」
コトが大きくなって心配になるのは、むしろあいつらの方だ、と楓はしれっとしている。
しかし郁美は自分がここを辞めて連中について行けば全て丸く収まるのだから……とこぼす。
「ダメよ! わたしはあなたの才能には期待してるし。何よりあなたが望んでないでしょ」
でも……、と尚も不安そうな郁美の顔を両手で包み、真っ直ぐに目を見る。
「大丈夫よ。わたしが何とかしてみせるから。もうあんな奴らあなたに近寄らせない。楓ちゃんにも危害は加えさせないから。安心して」
静かに言う。
何の根拠もなさそうな言葉だが、不思議な安心感、説得力があった。
「大人の力をナメないでよ」
腕を曲げて力こぶを作る動作をする。
もちろん華奢な女性の腕はしなやかではあるが、さして盛り上がりはしない。
事務所の弁護士か何かに協力を依頼するのだろうか、と皆も自分なりに解釈し、ここは所長に任せることにした。
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