N29C2c ready-1/6: 準備 3

 天覧山から駅を挟んで反対側へ向かう。


 都市らしさは駅前のロータリーを最後で、直後の交差点からは巨大なパチンコ店で郊外らしくなり、橋を越えると上下左右が緑色になる。車道は文明で舗装されているが、植え込みが遮るので歩くだけでは文明の香りは得られない。ドラッグストアの看板に懐かしさを覚えるが、駐車場と奥行きが東京との違いを思い知らせた。


 突き当たりの丁字路を右へ。小さな家がちらほら並ぶ通りに出た。目立つものはせいぜい、あれは何かと問われたら世間体を加味して誰かの庭と答えておくような、威勢のいい植物の塊くらいだった。


「ねー蓮堂、本当にこんな所に病院があるの?」

「病院じゃなくて医者だ。もう見えてる。あそこだ」


 示した先はどう見てもただの小屋だ。壁や屋根が古めかしく汚れた色でなければ家に見えたかもしれない。周囲よりはいくらかマシでも、壁を這い登るツタと蜘蛛の巣は言い逃れできないほどに人目への無頓着を表している。


 あやは自分が住む場所を、東京の中では田舎に近い場所だと思っていた。比較対象が巨大かつ広大なために間違いではないが、やはり本物は格が違う。しかも蓮堂が言うには、真の本物の田舎はまだこんなものではないらしい。今以上に減らせるのは、舗装や街灯や送電線か、その先はいよいよ建物になる。


 インターホンが見当たらない。うろつくあやを尻目に蓮堂は玄関へ向かい、ガラガラと音を立てて内外を繋いだ。


「おい医者、邪魔するぞ」


 勝手に靴を脱ぎ、勝手に上がり込む。ならってあやも上がった。三和土たたきから床までの段差がエスカレーターほどもある。


 外観の印象に反して、内装は現代的に整っている。床板も壁紙もやわらかな白、調度品は褐色の木で揃い、置き物や壁掛け飾りは外国の土産らしき謎の動物だ。


 奥への扉を抜けると、老爺ろうやが大義そうに椅子を回した。あやでも見ただけでわかる。あれは座り仕事にやさしいデスクチェア、しかも蓮堂の事務所より高級品だ。


「蓮堂ちゃんか。その子が例の?」

「そうだ。いいな」

「いいさ。俺と蓮堂ちゃんの仲だ」


 上下左右と前後、三次元に巨大な体をしている。左の肘掛けに杖、しかし今は椅子のキャスターを使って動いた。引き出しから準備された注射器と手袋が出てきた。


「彩ちゃんだったな。一応だが、ワクチンの接種に同意を頼む。口頭でいい」

「聞きそびれてたんですけど、何のワクチンですか?」


 あまり人に聞かせられないと言って外では話せなかった。


「先に蓮堂ちゃん、全部あわせて二十万だ。二百三十万だ」

「気前がいいな。ついに耄碌もうろくしたか」

「祝いとでも思うがいい」


 いかにも裏取引のようなやりとりで、蓮堂の手にあった何かをポケットに戻した。


「中身は破傷風だ。土を掘れば出てくる。ダニだ。ウイルスを持ってる。あとは名前でわかるな。狂犬病、炭疽、マラリア。戦地セットとでも呼ぶがいい」

「わかりました。お願いします」


 あやは右腕を出した。消毒、注射、止血。一連の流れを一呼吸の間に済ませた。


「終わりだ。来月また来い」

「え、もうですか。全然痛くなかった、初めてです」


 医者はカカカと笑い、声が咳になった。落ち着いてから答える。


「注射の痛みは俺の技術じゃない。注射針にも性能がある」

「どこです?」

「穴開きの細い針と思ってるだろうが、いい注射針は穴開きの薄いメスだ。全方向へ押し広げるより二方向へ割くほうが痛まないし、皮膚の向きに合わせれば治りも早い」


 医者は拡大写真を出した。端が綺麗なのであまり出さないものとわかる。あやの義眼なら拡大して判別する機能はあるが、見ようと思うまでは機能を使う機会が来ない。機能に頼ってはいけない。事例がひとつ増えた。


 あやは礼を言って、蓮堂は帰る姿勢を見せた。そこを医者が呼び止めた。


「待ちな蓮堂ちゃん、土産を持っていけ。そこの引き出しの下だ」

「随分とサービスがよくなったじゃないか。小児科の練習か」


 蓮堂が引き出しを開けた。あやも覗き込んだ。大きな箱を机に出し、蓋を持ち上げると、中身は黒の艶めいた生地と、その上に白の兎耳があった。


「おい、こんなものを彩には着せないからな」


 医者はカカカと笑い、咳き込んだ。


「着るとしたら蓮堂ちゃんだ」

「ふざけるな」

「本気だ。そのバニースーツ、誰のお下がりだと思う?」


 蓮堂が顔色を変えて、胴体部を緩めて裏側を見た。ボーンの凹凸に合わせて汚れが溜まりやすい。あやもコルセットをつけた経験からわかる。色の変化を見つけたら、蓮堂はそこに鼻を近づけた。


「どこでこれを?」

「とあるスカベンジャーが恵比寿で拾ってきたそうだ。お楽しみに取っておいてもいいが、ブーツの方を見ておけ」


 箱の下から出たのはサイハイブーツ、太ももまで覆って絞り、スティレットヒールと合わせて誰が着ても同じシルエットにする。特異なのは側面にある二本のリボンだ。太くて厚くて、フリルでもない。足首から太腿まで、一定間隔で縫い目が並ぶ。


「パルス・ウェビング!?」

「そうだ。なぜそんなのがあるんだろうな。右の大腿なんかは使用感がある。何をつけたんだろうな」


 蓮堂に説明を求めた。現物を見せながら教えてくれる。


 パルス・ウェビングとは装備の固定に使う着脱機構で、有名どころでは警察や軍人のボディアーマーについている。無線機や予備弾倉のポーチを固定する。ねじ止めより自在に、マジックテープより頑健に、目的や体格に合わせて組み換えられる。


「どんなものをつけられるの?」

「どんなものでもだ。スマホ入れ、水筒入れ、家の鍵やメモ帳、銃のホルスター、他にもいくらでもある。持ちたいものを入れるポーチに、パルス用のアタッチメントをつけるミリタリー系の店で選び放題だ」


 普通ならポシェットでも持っておけばいいものを、バニースーツなら持たなくてもいいものを、脚につけて持ちたい何かがある。そういう使い方をする。


「どうだ蓮堂ちゃん、気に入ってくれたかな」

「ありがたく持っていく。だが左脚はいらん」

「何故だ?」

「これはあいつの匂いじゃない」


 医者がカカカと笑う。咳き込む声を聞きながら靴を履いた。扉を閉めるまで笑い声と咳を往復していた。

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